今日のうた (94)

[今日のうた] 94 2月ぶん

(写真は渡辺松男1955~、歌誌「かりん」所属、2012年に歌集『蝶』で迢空賞を受賞、2010年から筋萎縮性側索硬化症(ALS)で闘病中)

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  • この空に数千億の空がある わたしの手には胡桃がひとつ

 (渡辺松男『短歌』2018年1月号、「空」は、地球という大地にいる我々の頭上に広がっている、とすれば、この宇宙の数千億の星に、今、手に胡桃を持っている私のような知的生物がいて、そのそれぞれの頭上には数千億の空がある) 2.1

 

  • シクラメン隣室に置きものを書くすこし寂しく花を思ひて

 (岩田正『レクエルド』1995、作者1924~2017は歌誌「かりん」主宰、妻は馬場あき子、大事にしているシクラメンの鉢を、都合でちょっと隣室に置いた、そしたら、ものを書く最中にその鉢が気になって仕方がない) 2.2

 

  • Amazonのボタン押すだけ 5時間で届くメイドインコリアのキムチ

 (カン・ハンナ「膨らんだ風船抱いて」2017、作者は韓国から日本に研究者として留学している人、韓国産のキムチがアマゾンで5時間で届くのだ、消費と物流は昔とずいぶん変わった) 2.3

 

  • 何事もなくて春立つあしたかな

 (井上士朗1742~1812、作者は江戸時代の医師で、名古屋の俳人、「病気、事故など特にこれということもなく、穏やかな日常として、立春の日の朝を迎えることができた」、今日は立春)2.4

 

  • 冬木流す人は猿(ましら)の如くなり

 (夏目漱石1899、前句に「谷深み杉を流すや冬の川」とある、切り出した太い杉材を、巧みに操りながら谷川に流しているのだろう、それを繰る樵(きこり)は、まるで「猿の如くに」敏捷に動いている) 2.5

 

  • 春の風邪あなどり遊ぶ女かな

 (三宅清三郎1898~1969、作者は虚子門下「ホトトギス」同人、銀座に画廊を経営もした、この句も「遊ぶ女」というのがいい、銀座のバーのホステスだろうか、今のインフルエンザならそうもいかないだろう) 2.6

 

  • 人妻と何(あぜ)かそを言はむしからばか隣の衣(きぬ)を借りて着なはも

 (よみ人しらず『万葉集』巻14、「「私、人妻だからダメよ」なんて、何でそんなことを言うの、君だって隣人から服を借りることがあるでしょ、だったら人妻だからダメってことはないのに」) 2.7

 

  • むばたまの闇の現(うつつ)はさだかなる夢にいくらもまさらざりけり

 (よみ人知らず『古今集』巻13、「いやあ、君とやっと会えて一夜を過ごしたけど、真っ暗な中で何も見えなかったよ、これじゃ、くっきりした夢で君と会うのとたいして変わらないよ」、彼女がつれなかったのか) 2.8

 

  • 恋しとは誰(た)がなづけけむ言(こと)ならむ死ぬとぞただに言ふべかりける

 (清原深養父古今集』巻14、「<恋しい>なんて生ぬるい言葉、いったい誰が名付けたんだろう、ずばり<死ぬ>と言うべきだったよ、だって僕は<死ぬほど恋い焦がれ>てんだから」) 2.9

 

  • 瞳に古典紺々とふる牡丹雪

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、著者の眼は一心不乱に「古典」の文字を追っている、窓の外では、暗く見えるほどに大粒の雪が降りしきっている、その雪は少し青味がかって「昏々と」ではなく「紺々と」降るように見えるのか、昨日は関東にも久しぶりに雪) 2.10

 

  • 降る雪が川の中にもふり昏(く)れぬ

 (高屋窓秋『白い夏野』1936、地上に降り積もる雪と違って、水が動いている川の表面に雪が降りしきるのは独特の味わいがある、作者はそれをずっと見詰めていたのだろう、ついに完全に昏れて、まったく見えなくなってしまった) 2.11

 

  • 襯衣(しゃつ)袴下(こした)番兵凍る洗濯日

 (渡辺白泉1944、作者1913~69は当時、海軍に徴兵され函館にいた、「袴下」はズボン下のこと、凄く寒かった洗濯日、洗濯して干した「襯衣袴下」が凍った、じっと立っている「番兵」も心なしか「凍っている」ように見える) 2.12

 

  • 恋人をやめたときから君の目を眼鏡越しでしか見られなくなる

 (鈴木晴香『夜にあやまってくれ』2016、作者は、彼が恋人であるときは、コンタクトレンズだったのだろうか、それとも、眼鏡だったけれども、彼といるときは、はずしていたのか) 2.13

 

  • ゆびさきで閉じた瞼にふれるとき睫毛こまかくふるえておりぬ

 (野口あや子『夏にふれる』、この歌は2010年の作、彼氏の「睫毛がこまかくふるえている」のは変だなと思ったら、前の歌からすると「いもうと」を詠んでいる) 2.14

 

  • コンサイス英和辞典の「embrace」という語に小(ち)さきふせんを貼りぬ

 (笹岡理絵『イミテイト』2002、作者1978~の他の歌からも分るのだが、作者は「しっかりと抱きしめられる」のが大好きな人、当然、辞書にも付箋を貼っている) 2.15

 

  • はんの木のそれでも花のつもりかな

 (一茶、ハンノキは春先になると、松笠のような果序に混じって、茶色い細長い尾状の雄花序がたくさんぶら下がる↓、しかし花には見えない、でも現代俳句にはよく詠まれている、そして古くは一茶がちゃんと詠んでいた、とてもうまい) 2.16

 

  • 石に無く岩には雪の残りたる

 (中村草田男『長子』1936、同じ日光を受けても、石と岩では温度の伝わり方、上がり方が違う、「石の上の雪はすっかり解けたが、岩の上の雪はまだ残っている」、こんな簡素な事実報告が詩になるのが俳句) 2.17

 

  • 野とゝもに焼(やく)る地蔵のしきみかな

 (蕪村、「しきみ」とは、モクレン科の木で、枝を仏前に供える、「野焼きの火が広がり、その熱で、石の地蔵に供えられたしきみの枝もパチパチと燃え始めたよ、地蔵さまは大丈夫かな」、乾き切ったしきみの発火の様子が生き生きと伝わる) 2.18

 

  • 大多数まが事にのみ起立する会議の場(には)に唯(ただ)列(なら)び居り

 (森鴎外1909年5月刊『スバル』、「凶事(まがごと)」とは何か? 伊藤博文暗殺は同年10月だから違う、兵士死亡などの報告を受けるのか、起立の為だけに会議に「列び居る」と感じる陸軍軍医総監の鴎外) 2.19

 

  • 我(わが)指は氷の如く固まれり春は来(く)れともとけるさまなし

 (西田幾多郎1942、西田1870~1945の短歌は概して説明的で、上手いとは言えないが、これはちょっと面白い歌、執筆のペンだこで指が固くなっているのだろう、もちろん春になって「とける」ことはない) 2.20

 

  • とぼとぼとわが辿(たど)る道ひとすぢの眞理に喘(あへ)ぐ心は寂し

 (九鬼周造「巴里心景」1925、九鬼1888~1942のパリ留学中の歌、自らをドン・ファンに喩え、女優や踊り子との恋をたくさん詠む中に、ぽつりとこの歌がある、遊んではいても、哲学の苦闘をやめることはない) 2.21

 

  • うき名をばをしむあまりに今はただ逢ふよしもなくなりにけるかな

 (樋口一葉、20歳の一葉は、小説の師である半井桃水(当時30歳)と恋仲になった、よほど嬉しかったのだろう、自分から周囲にしゃべってしまい、交際を強く反対され、別れさせられた、その時の歌) 2.22

 

  • けさも又身に燃ゆる火の育つ間(ま)を東の空の黄薔薇わらへり

 (宮沢賢治1917、盛岡高等農林学校の文芸同人誌に発表したもので、賢治は21歳、次の歌からすると、体調が悪く部屋で寝ている、「東の空の黄薔薇」というのは、曇りガラスかカーテン越しに見える太陽のことだろう) 2.23

 

  • “Hier ist die Rose, hier tanze”と人いへどこの現実のきびしきに対(むか)ふ

 (南原繁『形相』、1938年末の作、政治学者の作者は日本が戦争に引き込まれてゆくのを止められない悔しさを詠む、冒頭のドイツ語は、「ここがローズだ、ここで踊れ」(ヘーゲル)、イソップ寓話の「さあ跳べ、ここがロードス島だ」のもじり) 2.24

 

  • 天才だから帰らざるを得なかつたと平野啓一郎、女だからわれはなほ肯(うべな)はず

 (米川千嘉子『牡丹の母』2018、『舞姫』の主人公(あるいは鴎外)はエリートなので、エリスを置いて帰国せざるをえなかった、と平野啓一郎がどこかで言ったのだろう、自分は「女だから」同意しない、と、いかにも作者らしい歌) 2.25

 

  • 椿見れば椿に見られわれに棲む死者もつぎつぎ眼をひらくなり

 (小島ゆかり『六六魚』2018、「私が椿を見ると、椿も私を見る、そして、私の心の中にいる死者たちも椿の視線を感じて眼を開く」、人が花を見れば、花も人も見る、禅の言葉に、「人、花を見、花、笑う」というのがあった) 2.26

 

  • 君よりも君の辺(へ)にゐしとほき日のわれが愛しも花蘇芳咲く

 (栗木京子『ランプの精』2018、ハナズオウ(花蘇芳)は早春にピンクの小さな花芽を付ける、「二十歳の譜」(角川短歌賞)の作者は今60代、恋人と一緒に映った昔の写真を見たのだろう、「わっ、私ってこんなに可愛いかったんだ!」と、彼氏よりはむしろ私に目が行く) 2.27

 

  • 電車にて背中合わせに立っている誰かのリボンがくすぐったい

 (杉埼恒夫『パン屋のパンセ』2010、朝のラッシュ時の満員電車の中だろう、後に立っていると思われる女の子のリボンが、自分の首筋に当たってくすぐったい、でも振り向けないんだよ、顔を想像するだけ) 2.28

西村 朗『紫苑物語』

[オペラ] 西村 朗『紫苑物語』 新国立劇場 2月23日

(写真↓は舞台、大きな鏡の巨大な鏡像を見せるのは、現実界と異界の接触面を示すのだろう、その下の写真は、違う時空で起きている二組の男女を空間的に並べて同時に見せるオペラ的手法、四重唱になるのが凄い)

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 こんなに素晴らしい日本のオペラが誕生したことはとても嬉しい。『夕鶴』も傑作だが、この『紫苑物語』は日本オペラの代表作になるのではないか。戯曲からではなく、小説からオペラが生まれたところが凄い。石川淳の小説はフロベール的であり、それは「文体の力だけから作品を生み出す」からである。彼の『紫苑物語』は、歴史物語とされているが、私は神話あるいは寓話だと思う。フロベール『聖ジュリアン伝』を踏まえていると思われるし、今回の舞台で、衣装が日本風ではなく、日本、中国、朝鮮、ウイグル(?)、西洋ドレスなどを混ぜこぜにしているのは、無国籍の寓話と捉えているからだろう。原作が傑作であること、佐々木幹郎の優れたオペラ台本、西村朗の素晴らしい音楽、そして笈田ヨシの見事な視覚的演出、この四つが四重奏のように重なった。今まで日本オペラにほとんど無かった三重唱、四重唱もある。さすがに三重唱以上は字幕が必要だが、単唱の部分は耳で聞いて分る日本語になっている。日本語は、西洋音楽の旋律に歌として自然に乗るのが難しいので、歌詞が不自然に聞こえないというのは凄いことだ。そして、歌詞のないコロラトゥーラのような「叫び」がとても効果的。全体として、物語が神話的でおどろおどろしいことや、音楽の感じとして、ワーグナーのような印象を受けたが、私がもっとも感動したのは、第2幕の最初、宗頼と千草(本当は狐の妖怪)の性愛シーンの美しさ(写真↓)。石川淳の原作でも、この性愛シーンの描写の美しさは、日本文学史の中でも屈指のものと思われるので、オペラでもそうであったのが嬉しい(笑)。

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冒頭、原作にはない宗頼とうつろ姫との結婚式シーンを入れたのは、説明抜きで一瞬で見せるというオペラに適ったものなのだろう(写真↓)。ただ、「うつろ姫」のキャラは原作と少し違うのではないか。原作では、「色黒く、かたちみにくく、白痴のうたがいもないことはない」とされているが、ソプラノ歌手にこのようなキャラを演じさせるのは難しいから変えざるを得なかったのか。 

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『紫苑物語』は非常に深みのある神話=寓話である。一番驚かされるのは、平太が岩に掘る仏像が、平和と救済の象徴ではなく、最後に鬼になってしまうことである(写真↓、右端が平太)。そして、終幕、全員が死者になって「鬼の歌」が静かに歌われる(その下の写真↓)。『聖ジュリアン伝』では、ジュリアンを抱いた奇怪な男がキリストに変身し、抱き合いながら昇天して終わる。それに対して、『紫苑物語』の平太は、宗頼の分身ではあるのだが、彼はいったいどのような存在なのか。つまり、救いは無いという終幕なのか。

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画面の下の方ですが、5分間の動画があります↓。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/asters/

平田オリザ 『銀河鉄道の夜』『走りながら眠れ』

[演劇] 平田オリザ銀河鉄道の夜』『走りながら眠れ』 駒場アゴラ劇場 2月17日

(写真下は、『走りながら眠れ』と『銀河鉄道の夜』、「銀河」は今回でないものも)

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大杉栄伊藤野枝は、日本近代史の中でもユニークで魅力的な人物で、評伝劇に適している。私も、宮本研『美しきものの伝説』や映画『エロス+虐殺』が大好きなので、『走りながら眠れ』にも期待していた。平田オリザの他の劇と同様、会話の科白が素晴らしい。大杉も伊藤も、個性的でぶっ飛んだ人なので、夫婦の何気ない会話もいちいち面白い。しかも彼らは、男と女として、革命の同志として、深く愛し合い、3人の幼い子供を可愛がって育てていることが、よく伝わってくる。しかし、本作は、最後がおかしい。二人は関東大震災のどさくさにまぎれて憲兵に虐殺されたが、たぶん劇では、地震への予期と不安を二人が感じている、ということで終わらせたかったのだろう。だが、それにしては会話が不自然。「地震のドサクサに紛れて革命やっちゃえばいいじゃん」(野枝)、「いや、人の弱みに付け込むのはいかんよ」(大杉)、なんて言うだろうか?

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銀河鉄道の夜』は素晴らしいものだった。2011年にフランスの子供たちに見せるために創られた劇で、1時間以内、俳優は四人までという条件があった。今回観て思ったのは、原作よりいい! というのは、宮沢賢治の作品は日本のカフカであって、子供向けの童話ではないと私は思っているのだが、「銀河鉄道の夜」は、コスモロジーのど真ん中で倫理を説いたユニークな傑作で、子供にも分る。しかしそれにしては、原作は長すぎて冗長で子共には読めない。「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」等が岩波文庫で15頁なのに、「銀河鉄道の夜」は90頁もある。1時間の劇にまとめることによって、原作の主旨が初めて子供にも伝わるものになった。女優が演じる可愛い少年たちもすごくいい。平田オリザは、「銀河鉄道の夜」を、「多くの人と出会って、友人の死を乗り越え成長していく子どもの物語」としているが、まったくその通りで、これは子供向けの寓話なのだ。

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平田は原作から何を切り落とし、何を残したのか。宗教的な匂いのする要素は(十字架や「ハレルヤ」の合唱など)すべてカットし、科学の話は残した。これはとても重要。「どんぐりと山猫」や「銀河鉄道の夜」は相対性理論の影響が感じられ、「銀河」にはブラックホールまで出てくる。「天の川の一とこに大きなまっくらな穴が、どほんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら目をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ目がしんしんと痛むのでした」(岩波文庫358頁)。一般相対論のシュバルツシルト解が出たのが1915年、「ブラックホール」という言葉が作られたのは1964年だから、1933年に死んだ賢治がブラックホールを知っていたのは素晴らしいことだ。平田はちゃんと「ブラックホール」と言い換えて説明し、ブラックホールに落ちていくところでジョバンニが夢から覚めるようにした。最初の教室で、先生が「日本では「天の川」だけど、ヨーロッパでは「ミルキー・ウェイ」です」と、短く言い直し、原作の冗長な説明よりも良くなっている。これは、ジョバンニが病気の母のために、当日届かなかった牛乳をもらいに走り回るのだから、重要な発言なのだ。

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銀河鉄道の夜」は、押しつけがましくない仕方で倫理を子供に説いている。冒頭の小学校の教室からして、先生は、「ジョバンニさん・・、カンパネルラさん・・」と「さん」付けで呼ぶ。子供だけれど、一人の人格とみなしているわけだ。そして、「銀河」は、賢治の思想を真正面から打ち出した作品でもある。賢治は、「自分だけ幸福になることはできない、皆が一緒に幸福になるのでなければ、自分も幸福になれない」と、一生懸命それだけを説いた。ジョバンニはいじめられっ子であり、ザネリはいじめっ子、他者を出し抜いても自分が勝てばよいと思っている。カンパネルラは、ただ一人、ジョバンニをいじめない子だ。そして、川に落ちたザネリを助けたカンパネルラは溺れ死んだ。平田版では、「イタチに食べられて死ぬ方が良かった」と嘆く井戸で溺れるサソリの話も、しっかり前景化している。これは生態系の食物循環を踏まえているだろう。私は、この演劇版『銀河鉄道の夜』を観て、カントが道徳律(=定言命法)を讃えるとき、「星散りばめる大空の下に立つ人間」、と述べたことを思い出した。銀河鉄道の中で、ジョバンニが会う「多くの人」(平田)は、科学者も含めて、皆ユーモラスで、少し変なところがある。賢治において、おそらくそれは、狭い共同体の外部から来る「他者」なのだろう。自分と自分の仲間だけ幸福になればよいのではない。倫理は、すべての他者に開かれていなければならない。カントの主旨もそこにあるのだが、カントの説き方は、やや押し付けがましい。自分と他者の幸福に結びつけて倫理を説くべきだった、と私は思う。演劇版『銀河鉄道の夜』は、カントと同じことを、押し付けがましくなく、ずっと美的に行っている。「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のおっかさんのために、カンパネルラのために、みんなのために、ほんとうの幸福をさがすぞ」とジョバンニが言う時、人が生きる時にもっとも大切なことを、子供にも分る言葉で言っているのだと思う。

無名塾、イプセン『野鴨』

[演劇] 無名塾イプセン『野鴨』  無名塾稽古場  2月13日

 (写真下は、舞台から、稽古場の狭い空間だが上下の使い方がうまい、役者は有名俳優ではないと思うが、演技のレベルは高い)

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イプセン『野鴨』は見るのは初めてなのだが、イプセンはどの作品も、見た後に「後味の悪さ」が残る。『野鴨』は特にそうなのかもしれないが(初演時は酷評された)、演出が悪いのではなく、イプセンの作品は悲劇なのにカタルシスがない。笹部博司演出は、翻訳された戯曲ではなく自分で書き直した上演台本を使う。本作も、登場人物が少なかったり、科白が書き換えられているが、それ自体は悪いことではないと思う。それよりも、脇役、端役をカットして、主筋だけで舞台を構成した結果、緩急の緩の部分がなくなり、テンションが高くなりすぎて、見るのに疲れるという問題が生じる。登場人物にも観客にも感情の生起と変化があるわけで、感情の起伏には一定の時間が必要であり、レコードの早回しのようにはできない。演劇には、ベルクソン的時間が流れるのだから。ただ、戯曲通り完全に上演しても、たとえば『ヘッダ・ガブラー』で感じたように、イプセン劇は異様にテンションが高いのだと思う。笹部の上演台本の解説によれば、イプセン劇は、我々の誰もが持っている「心の闇」、「心の中の暗い力」が主題であり、それと戦って生きることが、我々が生きることだ、ということを示すのがイプセンであり、そこがチェホフとは違う。「ヘッダ・ガブラー」はイプセン自身が恋愛関係にあったが性愛関係はなかった若い女性エミーリエについて、彼がもった「性的妄想」を表現したものだとすれば、たしかにあの作品はよく理解できる。『野鴨』では、イプセン自身が母の不倫の子であると噂された、イプセンは16歳で家族も故郷も捨てて家を出て、一生戻っていない、イプセンの幼少時に住んだ家は『野鴨』のような屋根裏部屋があった、彼のただ一人の理解者であった妹のヘドヴィクが最後に自殺する少女の名前になっている等々、イプセン自身の人生が作品に色濃く反映しているのだ。写真下は↓、左から母のギーナ(渡辺梓)、娘のヘドヴィク(高橋真悠)、父のはずだったヤルマール(渡邉翔)。

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それにしても、人間、とりわけ男は、男女関係に関してなぜかくも愚かなのだろう。主人公の二人の若者、クレーゲルスとヤルマールはともに理想主義者で、嘘のない真実の上に結婚生活がなければならないと信じている。もう一人の主人公である女中のギーナは、奉公先の旦那に犯されて妊娠し、旦那はたまたまそばにいた若者ヤルマールに彼女を押しつけて結婚させてしまうが、ギーナは妊娠のことは隠してヤルマールと結婚し、15年間、とても幸せな家庭を築いてきた。医師レリングが言うように、男女関係は、真実など不要で、嘘に嘘で厚着しなければ、幸福な関係ではありえない。あきらかにこちらが正しく、ギーナも、もう一人の女中セルビー夫人もそう考えて生きている(旦那と再婚するセルビーは「私たちは真実を互に明かしています」と言うが、これは嘘にちがいない)。『野鴨』では、ギーナはとても輝いて、魅力的な女性に見える。14才の娘ヘドヴィクの自殺は本当に辛いが、嘘で塗り固めなければ幸福な男女関係はありえないかどうか、これは普遍的なテーマであると思う。写真下は、飼っている野鴨の籠を持つヘドヴィクと両親。

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かもめマシーン、ベケット『しあわせな日々』

[演劇] かもめマシーン、ベケット『しあわせな日々』 横浜・関内・CAVE 2月11日

(写真すぐ下は、同じ舞台の2018年3月の上演から、その下が今回の舞台、ウィニーを演じるのは清水穂奈美、原作の砂の丘を、鉄製の廃物の塊にした)

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1月24日にハチス企画の『ハッピーな日々』を見たばかりだが、こちらの萩原雄太演出も、演出に工夫があり、非常に良かった。ウィニーの科白に大きな抑揚や強弱があり、一部は歌のメロディーに乗せて口ずさむ(原作の指示にはない)。これはアフター・トークで萩原やゲスト伊藤亜紗から語られた、「身体のノリ」「身体のライブ感」による語り、そして、他者の言葉に触発されるのではなく、自己の記憶や手にしたモノによる「自己触発」による語りになっている。伊藤が「テープ起し」の例を言っていたが、我々が実際に語る言葉は、意味がすっきり伝わるように整えられた文章にはなっておらず、発話に身体がさまざまに抵抗し、滑らかには語られず、いわば「どもりながら」語るようなところがある。なるほど、『しあわせな日々』のウィニーの語りは、語られた言葉の意味を追ってもほとんど空しく、彼女がその発話で何を言いたいのか分からない。それよりは、彼女があのような語り方しかできないところに、作品の主題があるのだ。つまり、自己触発による語りにおける身体のライブ感というのが、この作品の中心主題であるという演出のコンセプト。萩原によれば、従来の安堂/高橋訳は、意味がうまく載ったコミュニケーション言語という観点からは、すばらしい日本語になった名訳だが、今回使われた長島確の新訳は、ややぶっきらぼうに、滑らかさに欠ける日本語だが、「実際の語りにおける身体の微妙な抵抗」や「語りにおける身体のノリ」を表現するためには、より適切な日本語だと言う。たしかに比べてみると、そうなのかもしれない。たとえば、ウィニー「わたしのはじめての舞踏会!・・・二度目の舞踏会!・・・はじめての接吻(くちづけ)!」(旧訳)が、新訳では「初めての舞踏会!・・・二度目の舞踏会!・・・ファーストキス! 」になっている。冒頭の「わたしの」があると、何のことを言っているのか分かりやすいが、実際の発話は新訳に近いのかもしれない。

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第二幕、普通の演出では、ウィニーは砂の中に首までつかって身体はまったく動けないのだが、この萩原版では、鉄の鎧のようなものを新たに付けるだけで、腰の高さは変らない。「首まで埋まる」という深刻さがなくなる替りに、身体の障害のさらなる進行を比ゆ的に表現しているのかもしれない。アフタートークのとき、観客の一人が「この作品は、身体障害がテーマになっているのではないか?」と言ったが、たしかに、ある程度それは言えるだろう。我々は誰しも、自分の意味したいことを滑らかに言葉にするようには、発話できない。自分の舌や口は、そのようには動いてくれない。詩のようにリズムをつけて歌う身体ライブ感に頼ったり、眼つき、手ぶり、顔の表情など、身体の動きと合わせてしか、発話ができない。舌や口が自由に動かないという点で、我々は誰しも障害者なのだ。『しあわせの日々』の主題は、そういうことなのかもしれない。そう考えると、ベケットの「不条理劇」は、いかにも現代アート的だと思う。

3分強の動画がありました。2018年3月慶応大学の上演。語り方がよく分かります。

https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=happy-days