今日のうた(99)

[今日のうた] 7月分

(下の絵は野沢凡兆(生年不詳~1714)、芭蕉の弟子たちの中でシャープな句を詠んだ人)

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  • 立ち読みをしたる心にもち帰る意地悪そうな写真のアリス

 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロルは写真家でもあり、意地悪そうな少女の写真も残っている↓、アリスのモデルなのか、この歌の作者は、買わずに「心にもち帰った」) 7.1 

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  • ぽぽぽぽと口から小鳥を吐いていると思い込んでいた空也上人像

 (穂村弘『角川・短歌』2019年4月号、鎌倉時代に作られた空也上人像↓、念仏を唱えているから、口から吐き出しているのは仏像、でも、小鳥と思っていたという作者、ひょっとして小鳥と語り合った聖フランチェスコと混同している? いいじゃん! 作者はミッションスクール卒業の人) 7.2

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  • 漁師さんと結婚しようと言われてる 海のない街の女子高生が

 (サツキニカ・女・25歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「本物の<漁師さん>からも<結婚>からも限りなく遠い。そんな<女子高生>たちの世界に充ちた他愛なさの魅力」と、穂村評) 7.3

 

  • 飲み過ぎてしゃがみ込んでる女の子 たき火のようにみつめる男子

 (柳直樹・男・42歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「そんな時、<男子>は手際よく介抱したりしない。<たき火のように>という比喩に惹かれます。それは手を触れることができない神聖なもの」と穂村評) 7.4

 

  • 覚えたてのひらがなで書いた「すきです」のお返しはガンダムの絵でした

 (ほうじ茶・女・23歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「恋という概念が伝わらない・・・と呆然としました」と作者コメント、その男の子は「すきです」が分からなかった? それとも本当は分っていて絵を返した?) 7.5

 

  • 「あたし」って打つ子に「私」で打ち返す今の私は嫌な顔してる

 (こんこん・女・35歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「きっと色んなことが合わないだろうなと思いました」と作者コメント、「<あたし>と<私>」の微妙な違いが、二人の世界の決定的な違いを示しているようです」と穂村評) 7.6

 

  • ローソンと月の光と入れ替えるくらいしなけりゃ閉じないよ目は

 (吉野・女・26歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「<ローソンと月の光と入れ替える>のひりひり感がいい。思わず目を閉じて、思わずキスする。そのためには、<月の光>のうねるような眩しさが必要らしい」と穂村評) 7.7

 

  • 空も地もひとつになりぬ五月雨(さつきあめ)

 (杉山杉風1647~1732、作者は芭蕉の弟子、「梅雨でしとしとと降る雨によって、自然の景は完全に塗り込められてしまい、空も地も見分けがつかない」、現代ではコンクリートや鉄のビル、道路、高圧線など人工物によってなかなかこうはならないかもしれない、明日、人工物だけが見える芭蕉の句を紹介する) 7.8

 

 (芭蕉1688、琵琶湖で詠んだ句、「琵琶湖は梅雨のしとしと降る雨によって、すべての視界が塗り込められたけれど、あの大きくて長い瀬田の唐橋だけが浮かび上がっている」、昨日の杉風の句のような自然景と違って人工物は塗り込められにくい) 7.9

 

  • 五月雨(さみだれ)に家ふり捨ててなめくじり

 (野沢凡兆、作者は蕉門、「梅雨の雨に誘われて、ナメクジが殻を捨てて這い出してきた」、当時はナメクジはカタツムリが殻を抜け出してきたものと誤解されていた、しかしこの句は、家を出て旅に立つ誰かを寓意的に詠んでいるらしい) 7.10

 

  • 腹あしき僧こぼしゆく施米(せまい)哉

 (蕪村、「怒りっぽい坊さんだな、ありがたそうな表情も見せず、せっかく受け取った施米の米を袋からこぼしながら行ってしまった」、「施米」とは国が貧僧に米や塩をほどこす行事のこと、蕪村には僧を風刺した句が幾つもある) 7.11

 

  • 夜(よ)を起きて人の昼寐ぞすさまじき

 (正岡子規1895、「あいつ、また夜更かししてちゃんと寝ないから、すごい鼾かいて昼寝しているぞ」、「すさまじき」と詠んだのが上手い、友人か知人だろう) 7.12

 

  • うき世いかに坊主となりて昼寐する

 (夏目漱石1896、次の句からすると、最近坊主になった若い知人が漱石の家に来ているのだろう、彼は今まで寺で厳しい修行をしていたのか、「うき世」では無邪気に昼寝しているよ、と) 7.13

 

  • 津の国のこやとも人をいふべきに隙(ひま)こそなけれ芦(あし)の八重ぶき

 (和泉式部『後拾遺集』、「摂津の国の昆陽[こや]のように、貴方に「来や[来てね]」と言いたいけど、芦の八重ぶきに隙間がないように、周囲の人目に隙がないのよ、だから難しいわ」、言い寄る男をやんわり断った) 7.14

 

  • ちり積める言の葉知れる君見ずはかき集めても甲斐なからまし

 (小馬命婦『範永集』、作者は清少納言の娘、歌人の藤原範永に貸した『枕草子』あるいは『清少納言集』を返してもらったときの歌、母の「草子」は、言葉の達人である貴方(=範永)に読んでもらってこそ本懐です、と) 7.15

 

  • 斧(をの)の柄(え)のくちし昔は遠けれど有りしにもあらぬ世をもふるかな

 (式子内親王『新古今』、「仙人の碁を見ていたら斧の柄が朽ちるほど時間がたち、王朝が交代していた、という中国の故事ではないけれど、お父様(後白河法皇)が亡くなって、私は、まったく違ってしまった世を過ごしています、ああ、なんて悲しいの」、「有りしにもあらず」が強烈な表現) 7.16

 

  • わが恋は人知らぬ間の菖蒲草(あやめぐさ)あやめぬ程ぞ音(ね)をも忍びし

 (宮内卿玉葉和歌集』、作者が17、8歳のとき「千五百番歌合」で詠んだ歌、「あやむ」は怪しむ、「私の恋は、見えない水面下の菖蒲の根のように、誰にも怪しまれないように、まったく声も出さずに、ひたすら忍んできたのよ、わかってね」 7.17

 

  • 世のつねの松風ならばいかばかりあかぬしらべの音もかはさまし

 (建礼門院門院右京大夫『家集』、「せめて私が人並みの琴の腕なら、どんなに貴方と合奏したいでしょう、でも下手だからダメなの」、琵琶の名手である西園寺実宗から「貴女の琴と合奏しようよ」と口説かれて断った) 7.18

 

  • 干竿の路地につきぬけ木槿

 (蜻川[せいせん?]、ムクゲは秋の季語だが、我が家の周囲ではすでに美しく咲いている、この句は都会の下町だろうか、民家の干し竿にぎっりしり洗濯物が干してある狭い路地を突き抜けたところの家の生垣に、木槿が咲いている、そういう木槿はひときわ美しい、作者については調べたが分らなかった) 7.19

 

  • ものゝ絵にあるげの庭の花芙蓉

 (高濱虚子1949、芙蓉の花は大きくてとても美しいが、どこか「絵に描いたような」ところがある、そこをぴたりと捉えた句だろうか、秋の季語だが我が家の周囲でも咲き出した) 7.20

 

 (正木ゆう子『水晶体』1986、面白い句だ、作者はたぶんいつになく特に美しく装ったのだろう、アマリリスの花のごとくに、男の友人(あるいは夫?)が、「あっ」という感じで、ちょっと伏目がちになって作者を見詰めるのを楽しんでいる)  7.21

 

  • 誰も見ていないオウムと風の接吻

 (寺山修司「暖鳥」1952、作者が高校1年の作、海辺のホテルで詠んだ句で、ホテルで飼われているオウムが風にキスするような動きをしたのだろう、寺山らしい独創的な把握) 7.22

 

  • 流れ星蚊帳(かや)を刺すかに流れけり

 (金子兜太『少年』、1944年か45年に出征したトラック島で詠んだ句、野営しているのか、蚊帳の中から夜空がくっきり見えている、そこへ「刺すように」流れ星が流れた) 7.23

 

  • 正直に梅雨雷(つゆかみなり)の一つかな

 (一茶、当時「梅雨雷」という言葉があったのだろうか、梅雨に雷が混じるようになると、梅雨明けも近い、「正直に」と詠んだのが卓越、さて、関東地方も梅雨雷となっている、そろそろ梅雨も明けるか) 7.24

 

  • かたつむりつるめば肉の食ひ入るや

 (永田耕衣『與奪鈔』1960、「つるむ」とは交尾のこと、梅雨どき、我が家に植えたきゅうりの茎や葉には、かたつむりがよく付着しているが、たしかにかたつむりの肉には特別な粘着性がある) 7.25

 

  • 小脳を冷やし小さき魚をみる

 (西東三鬼1936、代表句「水枕ガバリと寒い海がある」のすぐ前の句なので、「小脳を冷やし」とは「水枕によって大脳の後ろにある小脳がまず冷える」のだろう、うつらうつらする夢に「寒い海」や「小さな魚」が見えたのか) 7.26

 

  • 端居(はしゐ)して何かを思ひ出さざる

 (加藤楸邨穂高』1940、「端居」とは、昔、暑い日に室内の暑さを避けて、縁側などでくつろぐことだが、たいして涼しくはなかっただろう、「わざわざ端居して何かを思い出そうとしていたのに、それが思い出せない」、というのか) 7.27

 

  • 人だけが人を見ているゆうぐれの手信号 まだ滅んでいない

 (北山あさひ『眠らない樹vol.2』2019、昨年9月、北海道胆振(いぶり)東部地震の大停電、交通信号がすべて消えた夕暮れ、人間が手信号で交通整理をしている、「人が人を見る信号」だが、街は「まだ滅んでいない」) 7.28

 

  • 夜の空に後ろ姿の火星見ゆ近づくものは遠ざかるから

 (香川ヒサ『眠らない樹vol.2』2019、昨年夏の「火星大接近」を詠んだのだろうか、「後ろ姿」というのがいい、目の前の街路を人が通り過ぎるように、火星もまた作者のすぐ前を通り過ぎた) 7.29

 

  • ひつじ雲あわく千切れていくように家族はいつまで家族だろうか

 (天道なお『眠らない樹vol.2』2019、「幸福な家族」というものはたしかにある、だがトルストイも言うように、それは非常に漠然としたものだ、本歌の「ひつじ雲があわく千切れてゆく」ように、幸福な家族の存在時間は短い) 7.30

 

  • 下僕から召使への昇格にあと何個スタンプがいるのか

 (佐藤りえ『眠らない樹vol.2』2019、より優遇される立場になるために、スタンプをたくさん集める必要がある、それは分る、でもどんな場合の話なのかは読み手が想像するしかない、作者1971~は若者というわけでもない) 7.31

プッチーニ 『トゥーランドット』

[オペラ] プッチーニトゥーランドット』  新国立劇場 7月21日

(写真は舞台空間↓、専制政治に抑圧された民衆が一番下にいる「逆ピラミッド」構造、上がトゥーランドット姫、下が求婚者カラフ)

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1924年作の『トゥーランドット』は、第3幕の途中まで書いたプッチーニが死んだので、残りを弟子のアルファーノが作曲し、それをトスカニーニが修正したものが上演され、今回もそれによっている。しかし最後に、トゥーランドット姫が愛に目覚めてカラフと幸せな結婚をするというのは筋としてやや不自然なので、この上演は、演出のアレックス・オリエの解釈で、最後の最後、トゥーランドット姫は自分の首に刃を当てて自害するという終幕になっている。私はこれでよいのだと思う。本作の真の主人公は、女奴隷のリューであり、彼女以外には誰も登場人物に共感できないからだ(カーテンコールの拍手はリューが最高)。トゥーランドット姫という人間には最初から最後まで、いいとところは一つもない。2018年1月にトリノで上演された版は、フィナーレを中国のハオ・ウェイが作曲し、リューをヒロインにして、プッチーニの絶筆部分で完結するようにしたそうだが(プログラムノートによる)、これがたぶん一番よいのではないか。写真下↓は、終幕、トゥーランドットと対決するリューと、自害したリュー。

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 『トゥーランドット』は真正の悲劇作品だと思う。指揮者の大野和士によれば、プッチーニは『サロメ』(1905)、『エレクトラ』(1909)、『月に憑かれたピエロ』(1912)などを知っており、第一次大戦での大量虐殺にショックを受けて、本作を書いたという。殺戮シーンは無調性によっている。つまり、『トゥーランドット』は現代音楽なのであり、19世紀的な「愛のオペラ」とは大きく異なっている。私は、権力関係の只中で愛が引き裂かれるという主題において、シェイクスピアの『リア王』との類似性を感じた。「愛を受け入れることができない」リアと「人を愛することしかできない」コーディリアに対応するのが、それぞれトゥーランドットとリューである。コーディリアは、自分が死ぬことによって他者に愛を贈与する。リューもまったく同じで、拷問にかけられたリューは、トゥーランドットに向って次のように歌う。(トゥ)「誰があなたの心にそんな力を与えるの?」、(リュ)「お姫様、愛なのです!」、(トゥ) 「愛ですって?」、(リュ)「私は、あなたに愛という贈りものをさしあげます。そして私はすべてを失う。しかし私の愛は、至高の贈りものになるでしょう」。こう歌って、拷問にかけられたリューは、自害する。彼女は、コーディリアがリアに愛を贈与して死んだように、トゥーランドットとカラフに愛を贈与して、自らは死ぬ。つまり彼女は「愛のアレゴリー」なのだ。しかし、そうであったとしても、「他者の愛を受け入れることのできない、氷の心をもった」トゥーランドットが、そこでただちに愛に目覚めて、カラフと幸せな結婚をするというハッピーエンドは、やはり不自然すぎる。このオリエ演出のように、トゥーランドットは一応はカラフの愛を受け入れるが、やはり責任を感じてただちに自殺し、彼女の魂はリューとともに救済されるという終結が一番よい。オケは、大野が率いるバルセロナ交響楽団なので、音の響きが厚く豊かで、とてもよかった。写真下は↓、三人の大臣「ピン、ポン、パン」と舞台。

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今日のうた(98)

[今日のうた] 6月ぶん

 (写真↓は馬場あき子1928~、1952年に歌人の岩田弘と結婚し、歌誌「まひる野」に加わる、その後、歌誌「かりん」を牽引)

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  • 衣更(ころもがへ)前もうしろも風に満ち

 (橋本多佳子『海彦』1957、「風に満ち」がいい、夏服になると、それだけで涼しい感じがする、私が高校生の頃は、6月1日に一斉に制服が夏服に変ったが、今はどうなのだろうか)  6.1

 

  • 一斉に水の地球の雨蛙

 (佐藤たけを『鉱山神』2012、作者は地質学者、カエルはたくさんの種類があるが、春から夏にかけて、大きな池や水の入った田圃で鳴く、我が家の近所でも、広い湿地帯で、今カエルたちがたくさん鳴いている、声もかなり大きい) 6.2

 

  • 立葵咲き終りたる高さかな

 (高野素十、立葵は、下からだんだん花が付いて、一番上まで咲き終わったときが一番高いのだろう、今、我が家の近所で美しく咲いている立葵は、まだ咲き終っていない) 6.3

 

  • 紫陽花の毬(まり)現れし垣間かな

 (中里其昔、「毬現れし」がとてもいい、作者は歩いているのだろう、少し離れた垣の間から、紫陽花の大きく咲いた「毬」が「現れた」、その美しさがひときわ際立つ) 6.4

 

  • 芍薬の歯ざはりを知つてゐるやうな

 (正木ゆう子、なぜ「歯触り」なのか? 美女の譬えとして「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言う、芍薬の花びらが蕾のようにキュッと丸く閉じている状態なのか、可愛いくて、ちょっと嚙んでみたいほど美しい) 6.5

 

  • 眠ってるみたい以外に云う言葉みつからなくてくりかえす夜

 (穂村弘『角川・短歌』2019年4月号、眠りの浅い日が続くということがある、じっさいは眠っているのだけど、何だかそういう気がしない、「眠ってるみたい」としか言いようがない、というのが上手い) 6.6

 

・「大丈夫」は子供に言ひて母に言ひて夫に言ひて亀にも言ひぬ

 (米川千嘉子『角川・短歌』2019年6月号、作者は軽いカゼか何かなのか、家族が心配しているのだろう、それぞれに「大丈夫だから」と言って回る、亀くんにも一声かけておく) 6.7

 

  • 終りなき時に入らむに束(つか)の間の後先(あとさき)ありや有りてかなしむ

 (土屋文明『青南後集』1984、作者が92才のとき、94才の妻が亡くなった、静かな詠みぶりの中に深い悲しみがながれる、格調の高い歌) 6.10

 

  • 墓などに入れなくてよいといふであらう本質はさびしがりやだつたあなた

 (馬場あき子『あさげゆふげ』2018、作者の夫である歌人岩田正は、2017年11月に急逝した、作者にとっては夫であるだけでなく、歌誌「まひる野」「かりん」を牽引した同志でもあった) 6.11

 

  • をんなの香こき看護婦とおもふとき病む身いだかれ移されてをり

 (上田三四二『鎮守』1989、作者1923~89は医者であるが自分も癌で何度も入院、この歌は1986年の入院中のもの、闘病に苦しむ歌が並ぶなか、この歌にはユーモアもある、「をんなの香こき」がいい、香水の香る看護婦にさっと体を持ち上げられて移されていた、作者は痩せて体は軽いのだろう) 6.12

 

  • 突きあたり何かささやき蟻(あり)わかれ

 (『誹風柳多留』、なかなか観察がいい、たしかに蟻は、ぶつかりそうになって、ちょっと止まり、そして別々の方向に行くことがある、別に「何かささやいて」いるわけではないだろうが、そんなふうにも見える) 6.13

 

  • ふと思うことありて蟻(あり)引返す

(橋閒石、作者1903~92は俳誌「白燕」を主宰、前に進んでいたアリが、突然止まって引き返すことがある、その仕草が「ふと思うことありて」のように見えるところが俳諧の味、おそらく何か感覚的に感知はしたのだろう)6.14

 

  • 傾きて太し梅雨(ばいう)の手水鉢

 (高濱虚子、手や顔を洗う「手水鉢」が屋外にある、「傾きて太し」は降っている雨のことだろう、梅雨だから雨が細々と降るとは限らない、まるで豪雨のように、「太い」雨が「斜めに」降りしきることもある、それを受けている手水鉢) 6.15

 

  • 盃(さかづき)に泥な落しそ群燕(むらつばめ)

  (芭蕉1688、伊勢近くの茶屋で一休みして、少し酒を飲んでいる芭蕉、軒端には燕が巣を作って、さかんに行き来している、「この盃に泥を落さないでね」とやさしく燕に呼びかける) 6.16

 

  • ワイパーが攫(さら)っていった雨粒のずっと手前でぼやける視界

 (八重樫拓也『ねむらない樹Vol.2』2019、作者1986~は車を運転しているのだろう、ワイパーが一掃きすれば視界はくっきりするはずなのに、そうならない、「ずっと手前でぼやける」のは、眼に涙が滲んでいるからなのか) 6.17

 

  • 学生のころにはあなたを名で呼ばず 鴨川デルタの丸い先端

 (井村拓哉『ねむらない樹Vol.2』2019、作者1994~は京都市在住、恋をしているのだろう、後の歌からは彼女と一緒に住むようになったことが分る、デートのある時、「鴨川デルタの丸い先端」で彼女を初めて名で呼んだのか) 6.18

 

  • 虹ですと誰かが言ってパートごと順番に窓辺に寄って見た

 (土屋映里『ねむらない樹Vol.2』2019、作者1998~は、オーケストラの楽器のパートごとに練習をしているのだろう、誰かが「虹です」と言った、「パートごとに」違う内容の練習をしているから、「パートごと順番に」虹を見る) 6.19

 

  • 紫陽花(あぢさゐ)におもたき朝日夕日かな

 (中川乙由1675~1739、作者は蕉門で伊勢の人、画も能くした、この句もどこか絵画的なところがある、朝日や夕日の弱い光の方が、日中のまぶしい太陽光よりも、アジサイの藍色を際立たせる、それを「おもたき」と詠んだ) 6.20

 

  • 短夜やいつの間に出し隣船

 (大野きゆう1874~1947、作者は虚子の弟子で九州の五島市の人、漁村だろうか、やっと夜明けだが、一緒に出航する予定だった隣りの船はいつの間にか先に出てしまったようだ、夜が短い初夏ゆえのこと、明日は夏至) 6.21

 

  • 地下鉄にかすかな峠ありて夏至

 (正木ゆう子『静かな水』2002、地下鉄に乗っていて、かすかな上り坂を感じ、やがて平らに走って駅に着くのを感じたのだろう、「峠」と詠んだのが卓越、今日は夏至) 6.22

 

  • 人の喪にいそげるわれは出逢ひたる大いなる傘の流れに押されたり

 (葛原妙子、1960年6月15日、安保反対闘争で国会に突入したデモ隊にいた東大生、樺(かんば)美智子22歳は警官隊と衝突して死亡、彼女の追悼集会へ急ぐ著者、雨傘の大勢の人の流れに押されて前へ進めない、今日は安保闘争記念日) 6.23

 

  • 見つめれば 日本のかなしみが湧きあがる国会議事堂に射す初夏の光も

 (信夫澄子『風祭』1989、国会議事堂は、日本の民主主義を象徴し、憲法立憲主義を現実化する場所でなければならないが、安倍政権は予算委員会を開かず、公文書も報告書も隠蔽する、怒りと「悲しみが湧きあがる」) 6.24

 

  • プリンターに打出されしわが年金予想額今少し働けという数字なり

 (石井登喜夫『東窓集』1996、20年以上前の歌だが、年金額というのは、それで何とか生きていけるギリギリの額である、「2000万円不足」という金融庁報告書を「なかったことにする」安倍政権のウソの政治に怒り心頭!) 6.25

 

  • いもじまで先から出来る美しさ

 (『誹風柳多留』、いもじ[湯文字]とは腰巻のこと、器量の悪い娘は持参金を付けてようやく嫁に出せたが、美女は「持参金なんかいらない、腰巻一つで来てね」と引く手あまただった、この句は、腰巻さえも嫁ぎ先の夫の側で用意する言う、どんだけ美女なの?) 6.26

 

  • 心ではあいつをなあと見たばかり

 (『誹風柳多留』、吉原では、金がないので並ぶ遊女をただ眺めるだけの客を「素見(すけん)もの」という、眺めながら「あいつがいいな」と思った遊女はたいていすぐ客がついて、素見ものの前から消えてしまう) 6.27

 

  • 本ぶりになつて出ていく雨やどり

 (『誹風柳多留』、すこし小降りになるまでと思って雨宿りしていたら、ますますどしゃ降りに、でももう待てないから行かざるをえない、今もよくあること) 6.28

 

  • うべ子なは我(わ)ぬに恋ふなも立(た)と月のぬがなへ行けば恋しかるなも

 (よみ人しらず『万葉集』巻14、「今ごろ貴女は僕に恋い焦がれているんだろうね、もう新月になったよ、月日がどんどん流れるんだ、ほんと恋しいよね、僕もだよ」) 6.29

 

  • 篝火(かがりび)にあらぬわが身のなぞもかく涙の河に浮きて燃ゆらむ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「僕の体は魚を取るためのかがり火じゃないんだよ、でもなぜこんなに、涙の河に浮かんで燃えているんだろう、貴女を恋い焦がれるから燃えているんだよ」) 6.30

植村恒一郎 「人間の身体の美しさについて ― バーク、カント、そしてシラーへ」(群馬県立女子大学紀要・40号)

私の論文「人間の身体の美しさについて ー バーク、カント、そしてシラーへ」(『群馬県立女子大学紀要 第40号』2019年2月)が、レポジトリーにアップされました。下記から、どなたでもPDFでダウンロードできます。ご関心のある方はどうぞ。
https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/handle/10087/12590

 

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アイスキュロス/R.アイク 『オレステイア』

[演劇] アイスキュロス/R.アイク『オレステイア』 新国立・中劇場  6月26日

(写真↓は、左から、クリュタイメストラ、イピゲネイア、エレクトラオレステスアガメムノン、このメンバーが食卓を囲むことは、アイスキュロスにはなく、ありうるとすればエウリピデス『アウリスのイピゲネイア』だが、そのときオレステスは幼児のはず、2015年のイギリス上演では子役がやっている https://www.youtube.com/watch?v=dHE1V19Bz5Q)

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 イギリスの若い劇作家ロバート・アイクが、アイスキュロス『オレステイア』三部作を翻案劇というかミステリー劇に仕立て直した作品。だが、全体の構成が完全な無理筋で、私は見ていて白けてしまった。ほとんどの科白が浮いた感じで、リアリティがない。場面場面で、「えっ、そりゃないでしょ 」「人間は、そんな科白ぜったい言わないよ」という気持ちになる。翻案劇というのは難しい。まず本作は、全体がオレステスの裁判という枠組みで、精神障害で記憶を喪失しているオレステスに、女性の精神科医がいろいろ質問をして、過去にあった場面を想起させながら、裁判における事実認定を一つ一つ積み上げていくというプロセスをとる。しかし、その全体構造が分るのは最後であり、観客は、過去から現在まで時間の順にドラマが進んでいるかのように見せられるので、途中は分かりにくい。(写真↓は、エレクトラ、しかし姉エレクトラは実際には存在せず、オレステスの妄想が創り出した夢だった)

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 本作の構成が無理筋である理由は、大きく言って二つある。精神障害を起こしたオレステスに過去を想起させるという全体設定は、百歩ゆずって、仮によしとしよう(本当は、精神分析にしたのが、本作の最大の欠陥なのだが)。しかし、(1)姉のエレクトラを実在しない妄想としたので、母親クリュタイムネストラ殺しの「責任」の問題が、原作とまったく違ってしまった。たしかに刃物で手を下したのはオレステスかもしれないが、母をもっとも殺したかったのはエレクトラであり、だからこそ「エレクトラ・コンプレックス」といわれる母娘関係を表わす精神分析的概念にもなっている。母殺しは、オレステスの単独犯行ではない。(2) 次に、原作では、オレステスに母殺しを促したのは神アポロンであり、オレステスが自分の主体的判断で殺したのではない。そこを本作では、「印を読み取る」という「解釈」の主体としてオレステスを主体化し、アポロンの責任を曖昧にしている。アイクは、「オレステスは有罪なのか無罪なのか」と、近代世界の裁判と主体概念にもとづいて根本問題を立てているが、原作の焦点はそこではない。エウリピデス版『オレステス』では、死刑判決が出たオレステスに対して、アポロン機械仕掛けの神として登場し、オレステスを赦す。アイスキュロス版では、同数だった評決にアテナ神が一票加えて無罪にするが、それでは怒りが収まらない復讐の女神たちを、アテナが必死でなだめ、おだてて、恫喝や説得をして、ようやく復讐の女神たちが怒りを収めるという場面が延々と続いて、それで終幕になる。つまりオレステスの有罪/無罪は本当の問題ではなく、恨みと復讐の連鎖をどこで止めるかが主題なのだ。本作では、最後にオレステスが、「アテナの一票で覆るのは、一人の人間が決めたということで、無罪であっても納得できない」とつぶやいて終幕になるが、もともと『オレステイア』はそういう問題ではないのだ。(写真下は↓、イピゲネイア(カサンドラ?)とアガメムノン)

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 とはいえ本作は、原作を離れて考えれば、いろいろと面白い想定がみられる。たとえば、イピゲネイアとカサンドラを同一役者でどちらも黄色い服を着せて、精神障害オレステスの意識の中で二人は同一人物になっていると示唆したのは、なかなかいい。消えたイピゲネイアはカサンドラとなってアガメムノンのところへ戻るのか・・・。しかしまぁ、エレクトラも弟の妄想だったというのは、「それはないでしょ!」と言わざるをえない。イピゲネイアも子供っぽい仕立てで、どうも変。劇の科白の大部分が、精神分析の受け答えのような「自己解釈」が中心なので、鬱陶しくて空疎な感じになっており、原作と非常に違う雰囲気になった。「エディプス・コンプレックス」などギリシア悲劇は全体が精神分析的なのだが、しかしそれは、劇の中で人物が精精神分析まがいの科白をしゃべるということではない。アイクはそこを混同しているのではないか。精神分析は、分析医とクライアントの間だけの閉ざされた空間で、治療のために行われる。神父への告解が公開されないのと同じである。第三者の前で行われる裁判とはまったく違うので、語られる言葉の性格が異なるはずである。役者としては、オレステスを演じた生田斗真はとても瑞々しくてよかった。(写真下は↓、イピゲネイアとエレクトラ)

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ごく短いですが、紹介の動画が。

https://twitter.com/endless_ss0704/status/1136833474353029120