(手話による)チェホフ『三人姉妹』

[演劇] (手話による)チェホフ『三人姉妹』 池袋・東京芸術劇場 10月20日

(写真下↓は三姉妹、左からイリーナ、マーシャ、オーリガ、第四幕最後の「さあ、生きていきましょう」のシーン、手話だから身振り手振りが豊かだが、実はこのシーンはとても悲しい、下は第一幕の三姉妹)

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 ティモフェイ・クリャービン演出。ロシアのレッドトーチ・シアターによる上演。『三人姉妹』とは、こんなにも胸が引き裂かれるような、辛い、悲しい作品であったのか! 私は過去に実演だけで10回以上見ているが、今回がもっとも衝撃的だった。これまで私は、最後の「さあ生きていきましょう、私たち、生きていかなければ!」には、かすかながらも希望を感じていた。だが、これはむしろ絶望の叫びなのかもしれない。三姉妹は、自分たちの人生にはもう幸福が訪れないこと、このまま老いて死んでゆくこと、を自覚したのだろうか。『三人姉妹』の結幕はそういうことなのか。私は最前列中央席の至近距離で見ていたが、三人とも演じながら泣いていた。役者は、科白がしゃべれなくなるから泣いてはいけないのだが、手話で演じているから、泣いてしまったのだろうか。イリーナは、ひと呼吸のあとのカーテンコールのときにも、目を真っ赤に泣き腫らしていた。『かもめ』のニーナの「わたしはかもめ、いいえ私は女優」も、彼女が女優になれそうもないことは確実だから、これも絶望の科白かもしれない。『ワーニャ伯父さん』の最後、ソーニャの「さあ私たち、生きていきましょう」も、二人は一生結婚できそうもないという予感のもとに言われているのか。だとすれば、チェホフ劇の核心に灯る生命ともいえる、この「さあ生きていきましょう、私たち、生きていかなければ」は、希望がすべて失われた地点で言われているのだろうか。もう消えてしまいそうな灯、何という小さな灯なのだろう! (写真下↓は、第三幕、火事で町の人達が避難してきた部屋。字幕はロシア語か。今は照明がついているが、ほとんどは真っ暗で、各人が自分の寝床でスマホをじっと見ているのがとても印象的、暗闇ではスマホは小さな灯、その下は、自分のスマホといるイリーナ)

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 今回の上演は、科白がすべて手話だったが、太田省吾『水の駅』に科白がまったくなかったのとも違っている。この舞台は生活音などさまざまな音に充ちている。手話で話す人たちは、身振り手振りが激しく、顔もとても表情豊かに話すので、演劇を、科白も含めた身体による感情表現とみなすならば、手話によって得られるものは、科白を失ったぶんを補って余りあるのかもしれない。この上演では、舞台中央の高い所に、大きな液晶画面があり、そこに科白の字幕が出る。ロシア上演では、たぶんロシア語が映るのだろう。この画面は観客との間の通訳として機能する。そして、女中アンフィーサと守衛フェラポントの二人だけは(アンドレイも?)、普通にしゃべれる上に手話も使うので、彼らは家の外の人達との間の通訳ともいえる。そして、これがもっとも重要なことだが、手話で会話する人たちは、何も音を出さないのではなく、うめき声のような音、科白のような意味はないが、しかし何か意味のありそうな、何かを言いたげな音=声を出す。特にイリーナは、これが一番激しい。そして、他の人も重要な発言になると、手話の身振り手振りに加えて、それに伴って出される音=声が大きくなる。こうしたことは、感情を表現するうえで極めて効果的だ。それから、原作でも、登場人物は、ハミングを口ずさむという仕方で音楽がけっこう登場するが、この舞台では、イリーナがロック風の音楽が大好きで、TVを見てうっとりしている。視覚もまた聴覚を補うのだ。(写真下↓は、音楽する人々、スマホを見ているが、アンドレイはVlも弾く)

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 手話で演じることは、観客にとっては、言葉としての科白と身体表現とが分離されることを意味する。文楽がそうであり、また宮城聡がクナウカで試みているように、演劇の可能性を広げるものだろう。この上演では、字幕が活躍していることも重要だ。たとえば、「さあ、生きていきましょう」に次いで二番目に重要だと私が思う科白は、しっかり字幕で示される。婚約者トゥーゼンバフから「君は僕を愛していないね」と尋ねられたイリーナは、こう答える。「それは私にはどうにもならないわ。私はあなたの妻になります。忠実で従順な妻に。でも愛は無理、どうしようもないの。(泣く)生まれてから一度も私、人を愛したことがない!」。この科白は、やはりこの通りに言われなければならず、表音ではなく表意文字である手話で完全に表現するのはかなり難しいのではないだろうか。あと、この舞台では、イリーナが活発な少女に造形されており、彼女はマーシャに似ている。原作そして私が見たすべての舞台では、イリーナは、将軍家の末娘でおとなしい受動的なお嬢様だったが、この上演では違う。それは、手話だから可能になったのだと思われる。手話プラス字幕というのは、演劇に新しい可能性を開く表現形式になるだろう。スマホで短いメールをやり取りするのもいい。たとえば、不倫関係にあるマーシャとヴェルシーニンは、原作では、「トラム・タム・タム」「トラ・タ・タ」と『エフゲニー・オネーギン』(?)のハミングを、愛の暗号として交し合うが(他者には分らない)、この舞台ではそれをスマホのメールで遣り取りする。表音に近い言葉は、手話ではむずかしく、聴覚障害の人達もたぶん筆談が必要だろう。スマホのメールはそれを瞬時にやってのけるのだ。(写真下↓は、活躍するスマホと自撮り棒)

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2分間の動画が↓。最後の「さあ生きましょう、私たち、生きていかなければ!」のシーンもあります。軍楽隊の行進曲は消されていますが、ステップを踏みながら踊る三姉妹。

https://www.geigeki.jp/ch/ch1/t221.html

今日のうた(101)

[今日のうた] 9月分

(写真は小池純代1955~、やや古風な文体の優雅な言葉遊びの歌を詠む人、歌集に『雅族』1991、『梅園』2002などがある)

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  • あをくさきわれの胸処(むなど)に落ちしものきみが歌きみが口にせぬ悔い

 (今野寿美『花絆』1981、「きみ」は、のちの夫で歌人の三枝昂之、8才年長の「きみ」は短歌の師でもある、「きみ」の歌や、「きみ」が口にせぬ悔いが、作者の心の深い処に届くようになった) 9.1 

  • 灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ

 (中城ふみ子『乳房喪失』1954、作者は若くして乳がんで亡くなった人、この歌も、自分の死を予感しているのだろう、絶唱の愛の歌) 9.2

  • さやうなら煙のやうに日のやうに眠りにおちるやうに消えるよ

 (小池純代『雅族』1991、作者1955~は優雅な言葉遊びの歌を作る人、この歌も「やうな」「やうに」が繰り返される、恋の別れのなのか、それとも友人との普通の別れなのか、何の別れなのだろう) 9.3

  • 夕されば床(とこ)の辺(へ)去らぬ黄楊(つげ)枕何(いつ)しか汝(な)れが主(ぬし)待ちかたき

 (よみ人しらず『万葉集』巻12、「夕方になるといつも私の床にいて離れないすてきな黄楊枕さん! 私と同じようにあなたも待っているのよね、なのに、貴兄はどうして来てくれないの!」) 9.4

  • 秋の野になまめき立てる女郎花(をみなへし)あなかしがまし花も一時

 (僧正遍昭古今集』巻19、「秋の野にしゃなりと立つ女郎花みたいに、彼女はすごく色っぽいな、でもねぇ、私って美しいでしょと、いくら誇っても、花の盛りは短いんだよね」、「なまめき立てる」とか「あなかしがまし」とか、ずいぶんきつい言い方) 9.5

  • 睦言(むつごと)もまだ尽きなくに明けにけりいづらは秋の長してふ夜は

 (凡河内躬恒古今集』巻19、「君と共寝して、いろいろ楽しくおしゃべりしているうちに、もう夜が明けちゃったね、<秋の長い夜>はどこへいっちゃったんだろう」、そんなに話すことがあるのか、会話の名手躬恒?) 9.6

  • 入る方(かた)はさやかなりける月影をうはの空にも待ちし宵かな

 (紫式部『新古今』巻14、「その日の月が沈む場所が明確なように、今晩貴方がどの女の所に行ったかはもちろん知ってるわよ、ああそれなのに、貴方が来るんじゃないかと宵のうちから心待ちにしていたのよね、私は」) 9.7

  • 魔がさして糸瓜(へちま)となりぬどうもどうも

 (正木ゆう子1999、「何か出来心でちょっと悪いことをしちゃった、そしたら自分がヘチマになっちゃった、照れくさいので、まわりのヘチマたちに、<どうもどうも>と挨拶する」?、よく分からないが面白い句) 9.8

  • 颱風に吹きもまれつつ橡(とち)は橡

 (富安風生、「トチノキは樹高の高い大木である、そのトチノキが激しく台風に「吹きもまれ」ている、しかし、もがき苦しむように枝がうねっても、しっかり立っている」、台風15号は今、中心が千葉市の北あたりか、埼玉の我が家も風雨が強い) 9.9

  • 語りつゝ立てる親子や野分跡

 (吉澤無外、作者は富山県の旧制魚津中学教諭だった人、この句は、久しぶりに大きな台風が来て去った翌日だろう、台風の爪痕を見ながら、親から子に「語ること」がたくさんある、災害は次世代に語り継ぐべき過去の重要な記憶) 9.10

  • 月光をふめばとほくに土こたふ

  (高屋窓秋『白い夏野』1936、「月あかりが地面一杯に広がっている、ちょっと足を踏み出したら、足元ではなく<遠くの>土が応えたような気がする」、月光がコミュニケーションの媒体になっているのか) 9.11

  • 日に吼(ほ)ゆる鮮烈の口あけて虎

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、『天の狼』冒頭には、虎、豹、黒豹などが出てくる、動物園で見たのかもしれないが、中国戦線に動員されて戦争句をたくさん詠んだ作者だから、何か象徴的な意味があるのかもしれない) 9.12

  • おらは此のしつぽのとれた蜥蜴(とかげ)づら

 (渡辺白泉『白泉句集』、昭和43年頃の句、翌年作者は脳溢血で亡くなる56才、晩年の句には強い苦しみを感じさせるものが多い、植村は今日から少しだけ山に籠ります) 9.13

  • 息を呑むほど夕焼けでその日から誰も電話に出なくなりたり

 (石川美南『離れ島』2011、作者1980~はある離れ島に来て、素晴らしい夕焼けを見たのだろう、その日から自分はまったく別人になったような気がする、家族や友人ともまったく話が通じなくなってしまった、というのか) 9.16

  • 膨大な記憶を転写されている夕焼けのわれにピアノのしずく

 (井辻朱美クラウド』2014、作者1955~は歌誌「かばん」主宰、夕焼けを見詰めている作者の脳の中では、RNAが「膨大な」情報を「転写」しているのだろうか、記憶がどっと甦ってくる、その中にピアノの音が「しずく」のように混じっている) 9.17

 (梅内美華子『エクウス』2011、競馬で「ウオッカ」という名の美しい体をした牝馬が快走した、作者は「ウオッカ」に自分の姿を見ているのだろうか、夜、自分の体を撫でながら、また「ウオッカ」を想いだす) 9.18

  • 近づいてまた遠ざかるヘッドライトそのたびごとに顔面すてる

 (江戸雪『駒鳥(ロビン)』2009、郊外の真っ暗な夜道を車で走っている、対向車のヘッドライトが当たるたびに、顔が照らし出される、でもまた完全に闇に消えてしまう、「そのたびごとに顔面をすてる」かのように) 9.19

  • 遠き太鼓の音聴くやうに人と居て人の話をまつたく聞かず

 (大口玲子『東北』2002、「すぐ眼の前にいる人の話を聞いているのだが、まるで「遠い太鼓の音を聴いている」ような感じで、話の内容はまったく私の心に届かない、私の心はまったく別なことに占められているから」) 9.20

  • 京筑紫去年(こぞ)の月問ふ僧仲間

 (内藤丈草『猿蓑』、京都のある僧と、その仲間で筑紫から帰ってきた僧とが、一緒に京都で月見をしている、互いに分かれて別々に見た「昨年の」月について尋ね合いながら、今年は一緒に月見できることをよろこぶ) 9.21

  • 舟炙(あぶ)るとま屋の秋の夕(ゆうべ)かな

 (服部嵐雪『虚栗』、「苫ぶきの小さな小屋のある海辺で、漁師が船の底板を炙っている、立ちのぼっている白い煙がわびしい」、船底に付着した藻や貝殻をこそぎ落したあと「火であぶる」作業、定家の歌のもじりだが、こちらは生活の匂いが) 9.22

  • 物の音ひとりたふるゝ案山子かな

 (野沢凡兆『猿蓑』、「田を歩いていると、どこかでバサッというもの音がした、驚いてそちらを見ると、風もないのに案山子が倒れたのだ、寂しい田だな」、「ひとりたふるゝ」がシャープな把握) 9.23

  • 別れては昨日今日こそ隔てつれ千代しも経ぬる心地こそすれ

 (謙徳公『新古今』巻14、「貴女と喧嘩して、もう二度と会わないと誓って別れてから今日で二日目、でもこの二日は千年にも感じられて、寂しくてたまらない、あの誓いを取り消すから、僕とまた会ってよ」、女の返しは明日) 9.24

  • 昨日とも今日とも知らず今はとて別れしほどの心まどひに

 (恵子女王『新古今』巻14、「私だって、喧嘩したのが昨日だったか今日だったか思い出せないの、貴方とはもうこれで終りかと思うと悲しくて悲しくて心が乱れてしまったからよ、でも、仲直りしましょう、早くいらしてね」、昨日の歌の返し) 9.25

  • うたゝ寝にはかなく覚めし夢をだにこの世にまたは見でややみなむ

 (相模『千載集』巻15、「私がうたた寝している最中の夢に、貴方が現れた、と思ったら、しかし、いつもはかなく覚めてしまう、でもそんなはかない夢でさえ最近は見ないわ、貴方とはもう夢でさえ会えないのね」) 9.26

  • 秋の蝶小さき門に就職する

 (宮崎重作『昭和俳句選集』1977、この句は1951年の作だという、秋の蝶は、低く、フラフラと弱々しく飛んでいることが多い、その蝶が「小さき門」に留まった、たぶん実景だろうが、作者はやっと小さな会社に就職できたのだろうか) 9.27

  • 鰯雲故郷の竈火(かまどび)いま燃ゆらん

 (金子兜太『少年』、1941年頃の作、作者は東大経済学部に入学して東京にいるのだろう、ある秋の日、明るい空に広がる鰯雲が、作者には、故郷の秩父の実家にある暗い竈で燃えている炎のように見えた) 9.28

  • 灯火親し英語話せる火星人

 (小川軽舟『俳句研究』2004年10月号、「灯火親しむ」は秋の季語、家族と一緒に居間でTVを見ているのだろうか、英米で作られたSF映画なのか、出てきた火星人が当然のように英語をしゃべっている、そこに違和感を感じる作者) 9.29

  • 秋雨の瓦斯(ガス)が飛びつく燐寸(マッチ)かな

 (中村汀女、昔の台所では、一台一台別に置かれた小さな黒いガスコンロが使われていた、マッチを擦ってから、コンロの栓を開くと、コンロの穴から噴出したガスがマッチに「飛びつく」ように炎となる) 9.30

雷ストレンジャーズ イプセン『青年同盟』

[演劇] イプセン『青年同盟』 雷ストレンジャーズ 下北沢 シアター711  9月17日

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 イプセンの初期の作品(1869)で、日本初演。世界的にもほとんど上演されないのではないか。戯曲はかなり長く、多数の登場人物の人間関係と利害関係が複雑にからんだ、ある意味でイプセンらしい劇だが、それを約100分間の楽しい喜劇にまとめている。人間関係の複雑さを、お面を頻繁に取り換えるミュージカル風のパフォーマンスで簡略化し、青年ステンスゴールが婚約に大失敗するという笑劇の部分がうまく前景化されている。俳優が一人何役もやらざるをえないからかもしれないが、大地主モンセンと元資本家ダニエル・ヘイレをともに女性に変えたので、全体が明るくなった。終幕の新聞屋の科白「土地の作法が全部でさあ」から分かるように、ノルウェーの地方の町を牛耳る守旧派の権力者たちと、よそ者である若い弁護士ステンスゴールとの戦いが主題の政治劇と言える。その点では、後年の『人民の敵』とも共通する。だが、「土地の作法」に無頓着な強引で独善的なステンスゴールが、「策士、策に溺れて」あっという間に失脚するところが喜劇なのだ。とりわけ、結婚を自分の政治的地位を強化するための手段としか考えていない彼は、同時に3人の女と婚約したつもりになって大失敗するが、それが劇の中核ともいうべき笑劇になっている。地元の人脈に明るい商人未亡人、大地主のおとなしい娘、「侍従」という貴族称号をもつ鉄工場主の大富豪の娘、この三人の女のいずれかと結婚するつもりになっている彼だが、「侍従」氏の誕生日パーティの席で、同時に、この三人の女とそれぞれの婚約者が現れてしまい、大恥をかいて終幕。この経過が、よく分かるように舞台化されている。(写真↓は、1986年に作られたノルウェーのTV映画から)

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 この作品を現代日本で上演する意義は、やはりその政治劇の側面だと思う。地方の町の政治経済を牛耳る権力者たちの生態と、彼ら守旧派の「土地の作法」がとてもよく表現されている。そして、それらと対決する新興ブルジョアジー自由主義者たち。この対決は、その現象形態は多様でありつつも、おそらく現代の世界のさまざまな場所で再演されているのかもしれない。そしてイプセン自身が、政治権力は世襲ではなく選挙で議員が選ばれる議会制民主主義に、熱い理想を抱いていたことも分かる。しかし、本作では、自由主義者として守旧派と戦うステンスゴールがあまりにも薄っぺらな人物なので、まったく共感できない。『人民の敵』のストックマン博士にも私は共感できなかったが、しかしイプセンの主旨はむしろ、議会制民主主義が「衆愚政治」に陥ることを示したかったのだろうか。すぐ熱狂する「大衆」は本作でも強調されており、この作品を「ポピュリズム」政治家への批判と取ることもできるかもしれない。しかし、それにしてはステンスゴールがあまりにも矮小な人物で、彼はポピュリズム政治家ですらありえないだろう。その意味では、見終わったあとに何とも言えない空虚感というか「後味の悪さ」が残る。しかしイプセン劇はどれも「後味が悪い」ところがその特質であるとすれば、本作も、この上演も成功していると言えるのかもしれない。(左から二人目、ステンスゴール、そして終幕)

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1986年にノルウェーで作られたTV版の動画が↓。

https://tv.nrk.no/serie/fjernsynsteatret/1987/FTEA00002686

近松門左衛門 『心中天網島』

[文楽] 近松門左衛門 『心中天網島』 国立劇場 9月7日

(写真下は↓「河庄の段」、小春(吉田和生)と、治兵衛の兄の孫右衛門(吉田玉男))

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 やっと『心中天網島』を通しで見ることができた。この作品は、一人一人の人物造形が細部まで完璧で、感情の揺れ動きが深く表現されており、全体の構成も素晴らしい。最初の「河庄の段」も、ち密な構成によって、内容の濃い、起承転結も含んだ、それ自体で完成度が高いものになっている。まず「河庄の段」が90分、そして30分の休憩をはさんで、残りの三段連続で110分という上演だった。「河庄」では、悲しみに沈む小春は終始うつむいてばかりで、とても暗い。太兵衛と善六のいやらしさと下品さもすごい。そして、治兵衛の愚かしさと対照的に、兄の孫右衛門は、弟だけでなく小春にも深い思い遣りをかけており、情もあつく倫理もしっかりしている人物だ。太兵衛と善六が箒を三味線にみたてて治兵衛をからかう「口三味線」のシーンはとても面白い。シェイクスピアの「劇中劇」と同じ発想なのだが、このシーンや、ダジャレなど言葉遊びで笑わせることができるのも、太夫の優れた語りがあればこそ可能になる。近松門左衛門は字余り字足らずが多く、語りも、それに三味線をうまく添わせるのも難しいらしいが、言葉のリズムの破調にも、たぶん近松作品の秘密があるのだろう(写真下は↓、太兵衛と善六)

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 しかし『心中天網島』が大傑作であるのは、何と言っても、小春とおさんという二人の女性の友情を核に据えたこと、そして、二人の女性を愛の主体として描き切っていることにあると思う。さらに言えば、二人の女性は、「情」としての男女の愛と、男女の愛における「倫理」とを、ぎりぎりまで両立させようとしたからこそ、小春は死に、おさんは離縁させられた。人間として何と立派な生きざまなのだろう! 二人とも正しく生きたからこそ、こういう結末になったのだ。おさんが、治兵衛に小春を身請けさせようと全財産を捨てるシーンは、ありそうもない人間行動だと批判する人もいるが、ここが『心中天網島』の一番の肝であり、おさんのこの行動という一点に、この作品のすべてが賭けられている。「小春を身請けして家に連れて来たらお前はどうするんだ」という治兵衛の問いに対して、おさんが「アッアさうぢゃ。ハテ何とせう、子供の乳母か、飯(まま)焚きか、隠居なりともしませう」と叫んで泣き沈むシーンは、終幕における小春と治兵衛の別行動の心中よりも、さらにそれ以上に、作品全体のクライマックスである。ここには、小春とおさんの友愛が賭けられており、宣長が『源氏物語玉の小櫛』を書いて儒者に反論したように、愛における「情」と「倫理」の葛藤と苦しみが、最高の水準と緊張において提示されているのだ。(写真下は↓、炬燵の横で対決するおさん(吉田勘彌)と治兵衛) 

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 今回の上演では、終幕の「道行名残の橋づくし」の段は、科白が原作よりも切り詰められていたが、これが普通の上演型式なのだろうか。しかし、疑問もある。小春が「自分は治兵衛と心中はするが、おさんとの約束を破りたくないから、それぞれ別の場所で死にましょう」という科白がカットされている。原作では、小春は「その文(=私は治兵衛と別れる、彼を心中させない、という小春のおさんへの手紙)を反故にし、・・義理知らず偽り者と世の人千万人より、おさん様一人の蔑み、恨み、妬みもさぞと思いやり、未来の迷いはこれ一つ。私をここで殺して、こなさん(=貴方)どこぞ所を変え、ついと脇で」と語るが、この上演では、「私をここで殺して・・」以下がカットされている。だがこの科白には、「二人が」心中するのではなく、それぞれが別の場所で死ぬことによって、おさんとの約束を守りたいという、小春のおさんに対する友愛が賭けられている。カットしてはまずい。あと、治兵衛と小春がともに髪を切って、法師と尼になったつもりになるシーンも、カットすべきではなかった。人形の被り物で表現したのかもしれないが(写真下↓)。

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今日のうた(100)

[今日のうた] 8月分

(写真(1948)は中村汀女1900~1988、虚子門下で活躍した、家庭生活や子どもを詠んだ優しい句が多い)

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  • 水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る

 (金子兜太1946、出征したトラック島からの引き揚げ船で詠んだ句、たくさんの同僚の兵士が死んだ、トラック島の現地には墓といってもごく簡素な「墓碑」があるだけ、それさえも「水脈の果てに置き去りにして」帰国の船中にいる) 8.1

 

  • 浴衣着て農夫に土の匂なし

 (寺山修司「山彦」1953、17歳の作、夏祭りの夜か、それとも普通の夜だろうか、知人の農民がさっぱりした「ゆかた」を粋に着こなしている、一瞬の違和感、でもすぐに、農民だからいつも「土の匂い」がなければならないわけではないと苦笑する) 8.2

 

  • 灯をともし潤子のやうな小さいランプ

 (富澤赤黄男『天の狼』、1938年頃だろうか、作者は動員され中国の華中を転戦中の句、すぐ前の句には「銃聲がある」とある、長女の潤子は小学校1年生くらい、句群の前書きに「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ」とある) 8.3

 

  • 隼人(はやひと)の名に負ふ夜声(よごゑ)のいちしろく我が名は告(の)りつ妻と頼ませ

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「夜中に来て私の名を呼んだ貴方に対して、私は、宮廷警備の兵士の隼人が出すあの大声にも負けずに、はっきり自分の名を叫んだわ、この声は私よ! さあ私を妻にして!」) 8.4

 

  • 心がへするものにもが片恋はくるしきものと人に知らせむ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「僕の心を、貴女の心と、取り換えてください、ああ、そうすれば、片思いに僕がどんなに苦しんでいて、もうほとんど死んでしまいそうなのが、貴女に分かるでしょう」) 8.5

 

  • 白露の玉もて結へるませのうちに光さへ添ふ常夏の花

 (高倉院『新古今』巻3、「とこなつ」は今の「なでしこ」、「ませ」とは低い垣のこと、「白露の玉で結ったように、白露がたくさんついている低い垣に、なでしこの花が咲いている、白露の光も花に一緒に寄り添って、なんて美しいんだろう」) 8.6

 

  • 夜もすがら契(ちぎ)りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき

 (中宮定子1001『後拾遺集』、23歳で亡くなった中宮定子が一条天皇に宛てた辞世の歌、「夜もすがら契しこと」とは、生前の定子が一条天皇と七夕の夜に交わした愛の誓い、道長が長女の彰子を強引に「中宮」にさせたため、追われた定子の最晩年は苦しかった、今日は七夕) 8.7

 

  • 白露のなさけ置きける言の葉やほのぼの見えし夕顔の花

 (藤原頼実『新古今』巻3、「白露[=男性]が愛の言葉をかけたのかな、ほんのりと白い夕顔の花[=女性]が見えたよ」、『源氏物語』の夕顔の歌を踏まえる、植村は今日から山籠もりするので、しばらく「今日のうた」は休みます) 8.8

 

・桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだような初恋

 (田丸まひる『硝子のボレット』2014、作者1983~は、自分の高校生の頃の初恋を回想しているのだろうか、「胸キュン」なんてそんな小さなものじゃなかった、「桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだようになった」な、私は、あの時) 8.16

 

  • ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挟んだままのノート硬くて

 (永田紅『日輪』2000年、作者1975~は生物学研究者、京大大学院修士の頃か、夜遅くまで実験室で実験をしているが、ふと、彼のことが気になって窓辺へ行く、実験ノートを手放さず硬く握りしめながら) 8.17

 

  • 沖あひの浮きのごとくに見えかくれしてゐるこころというけだものは

 (辰巳泰子『紅い花』1989、歌集の刊行時、作者は23歳、この歌は失恋の歌らしい、「見えかくれしてゐる沖あひの浮き」とは、失った彼氏なのか、それをまだ獲物として狙っている作者の「けだもののようなこころ」とも重なるのか) 8.18

 

  • 海を見てきましたといふ葉書など少女らに書きながき夏の日

 (永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』2000、作者1951~2000は孤独に生きた人、しかし、たくさんのもの、こと、人を、この人らしく愛した人、淡い恋を詠んだ彼女の歌は美しく悲しい、この歌も彼女らしい歌)  8.19

 

  • きみとの恋終りプールに泳ぎおり十メートル地点で悲しみがくる

 (小島なおサリンジャーは死んでしまった』2011、作者1986~の失恋直後の歌か、気持ちを鎮めようとプールでひたすら泳ぐ、深く潜ってプールの底を凝視しながら進む、十メートルの印が見え、突然突き上げる悲しみ) 8.20

 

  • 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車

 (堂園昌彦『やがて秋茄子へと至る』2013、作者1983~の彼女はバレーを踊っているのだろうか、彼女の体がゆっくりと滑らかに回転する、まるで「うつくしい胸にしまわれた機械で駆動」しているかのように) 8.21

 

  • 「ぼくネ」を「俺さ」とあわてて言いかえる <男の美学>は似合わないのに

 (林あまり『MARS ☆ANGEL』1986、作者1963~の学生時代の歌だろうか、彼氏はきっと可愛い男の子なのだろう、そんな彼氏を作者は大好きなのだ、[植村は山籠りで少し休みます]) 8.22

 

  • 冷蔵庫、お前のようにどっしりと構えていたい(精神の比喩として)

 (佐藤りえ『眠らない樹vol.2』2019、冷蔵庫が擬人化されているのが面白い、しかも「どっしりと構えている」というのがその美徳となっている、自分の家の冷蔵庫をそんな風に見る人はあまりいないだろう) 8.26

 

  • 邪魔ものを乗りこえるとき掃除機が子犬のような抵抗をする

 (杉埼恒夫『パン屋のパンセ』2010、「掃除機で床を掃除してるんだけど、床には大小さまざまなモノがあって、そういう<邪魔もの>のせいでなかなか進めない、掃除機本体も、子犬のようにまとわりついて、抵抗する」) 8.27

 

 (高濱虚子、アサガオは日没8~10時間後に咲くので、普通は早朝に咲く、「しらじらと夜が明け始め、空には星が一つ見えるだけになった、もう開いた紺色のアサガオが美しい」) 8.28

 

  • 朝顔や星のわかれをあちら向

 (加賀千代女1703~75、昨日の虚子の句「暁の紺朝顔星一つ」のように、アサガオは早朝に咲く、この句も「星のわかれ」とあるから早朝だろう、わずかに空に残っている星との別れのはずなのに、アサガオの花は「そっぽを向いている」) 8.29

 

  • 下り立ちて芙蓉の蜘蛛を拂ひけり

 (椎花、「あっ、庭に咲いている芙蓉の花に蜘蛛がいるぞ、いかんいかん、すぐ、庭に下りて蜘蛛を拂ったよ」、わざわざ「下り立ちて」と言ったのがいい、作者は、昭和の冒頭の頃、東大俳句会にいた虚子門の人か、今、我が家の近所の芙蓉が美しい) 8.30

 

  • 稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ

 (中村汀女、子どもたちが「あっ、また光った」と言って、なかなか寝ないのだろう、「ゆたかなる」と詠んだのが、作者らしい優しさを感じる) 8.31