美と愛について(1) ― はじめに

美と愛について(1) ― はじめに 

 皆さん、明けましておめでとうございます。今年は私のブログ「charisの美学日誌」に、「美と愛について」というテーマで週に一回くらい連載したいと思います。一年くらいは続けられそうです。

f:id:charis:20200101020249j:plain(フィガロの結婚)

 私はモーツァルトのオペラが好きで、21作品ほぼすべてを見たし、『フィガロの結婚』は実演だけで50回以上見ました。モーツァルト以外でも、パーセル『ディドとエネアス』、リュリ『ファエトン』、ヴェルディ『椿姫』『リゴレット』、ワーグナー『指環』、シュトラウスばらの騎士』、ベルク『ルル』、プーランクカルメル会修道女の対話』などはよく見ます。演劇もたくさん見るのですが、オペラにしても演劇にしても、どうも私は同じ作品を繰返し見るようです。

 それはなぜだろう、と考えるのですが、これらの作品においては、美と愛が深く結びついて一体になっているので、そこに私は惹かれるのだと思います。デカルト『情念論』によれば、「愛」は六つの基本感情の二番目に重要なもので、その「愛」は、「よいものへの愛」と「美しいものへの愛」の二種類あります。またプラトン『饗宴』では、「エロスは美に対する恋である」と言われ、アウグスティヌスは「私たちは美しいものしか愛さない」(『告白』『音楽論』)と言います。これほど深く、美と愛は結びついています。

 それはなぜだろう? そして美と愛はどのように結びついているのだろう? これがこれから私が考察するテーマです。オペラ、演劇、短歌・俳句などについては、私はブログにたくさん書いてきたので、これから「美と愛について」で書くのは、哲学的考察です。私の考察は、「美」については、主としてカント『判断力批判』における「自由な美/付属的な美」にもとづいていますが、「愛」についての考察はなかなか難しい。というのも、「愛」は、愛/恋愛/恋/エロティシズム/性愛/友愛/家族愛/隣人愛/ナルシシズムアガペー/カリタス/与える愛/贈られる愛など、多様な姿をとるからです。「愛」については、プラトンアリストテレスアウグスティヌス、トマス、デカルトフォイエルバッハキルケゴール本居宣長九鬼周造などの他に、フロイトラカン等を参照します。そしてダーウィン『人間の由来』に始まる進化生物学の「性選択」の理論も重要です。なぜなら、ウグイスやクジャクは求愛のために美しい声や羽を持つに至ったわけで、ヒトの身体の毛が抜けて裸になり、男女ともに美しい身体になったことは、美と愛の根源的結びつきを示唆するからです。

 ニーチェは、芸術は、人間の生の最高の肯定、祝福であり、我々の生をギリシア神話にみられるような神の生に高めるものだと述べました。すなわち、「芸術における本質的なものは、芸術が人間の生存を完成させること、芸術が完全性と充実をもたらすことにある。芸術は、本質的に人間の生存の肯定、祝福、神化である」(『残された断章』)。

 私は、ここで言われる「人間の生の最高の肯定、祝福、神化」は、美=愛であると考えます。なぜなら芸術や文学のもっとも主要なテーマは、美と愛だからです。私の考察は哲学的なものですが、芸術や文学のたくさんの素材を使います。次回から、まずはピーパー『愛について』における、愛は受動的な感情であり「贈られるもの」である、という話から始めたいと思います。そしてその次に、デカルトやトマスの「愛」の概念を考察します。

 初回の最後に、美と愛が最高に一体となった例として、『魔笛』の最後「パ、パ、パ・・・」のyou tubeを一つ貼ります↓(7分間)。とても面白い舞台で、もも引き姿のキモい中年オッサンのパパゲーノと、ズロース姿のオバサンのパパゲーナ。普通ならけっして美しいとは言えない二人の性愛が、このうえなく美しく輝き、私たちは大笑いして涙ぐみます。何という快い涙! そう、死を賭けたパパゲーノに贈られた恩寵の愛の美しさは、「人間の生の最高の肯定、祝福、神化」であり、ここには「永遠の今」の浄福があるからです。

https://www.youtube.com/watch?v=AFTpT7REua4 

今日のうた(104)

[今日のうた] 12月ぶん

(写真は山中智恵子1925~2006、前川佐美雄に師事し、幻想的で前衛的な歌を詠んだ)

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  • わが額を天狼星に覗かせて夜々くだけ散る恋の思ひは

 (山中智恵子『夢之記』、作者1925~2006が67歳のときの歌、亡くなった夫の思い出だろうか、熱い「恋」だったのだろう、冬の夜はシリウス(天狼星)が美しい) 12.1

 

  • 冷えやすき女のからだひたひたと雨を溜めゐるふくらはぎあり

 (小島ゆかり『六六魚』2018、雨傘をさすと、雨が顔に当たらないように傘をわずかに前に傾けてしまうので、「ふくらはぎ」に相当する部分が濡れる、ズボンの男性は気づきにくいがストッキングの女性はそこが「冷える」のがすぐ分かる) 12.2

 

  • 冬の日の校門ひらかれ戦争に行けるからだの男(を)の子らの見ゆ

 (栗木京子『ランプの精』2018、体格のいい男子高校生たちを見て、作者は不安を感じた、自衛隊は高校卒業生の入隊勧誘を強化している、安倍内閣の法制化で海外派兵が現実化し、皮肉にも自衛隊入隊者が減ったからだ) 12.3

 

  • 旧姓を筆名として捨てざるを誤魔化しと思ひ来し三十年

 (米川千嘉子『牡丹の伯母』2018、作者は、歌人としては旧姓の「米川千嘉子」を使うが、それ以外は結婚後の改姓を使っているのだろう、でも改姓をどこか後ろめたく思う気持ちが残る) 12.4

 

  • 夢見るか夢見しあとか冬わらび

 (青柳志解樹、「冬わらび」とは、高さ10~15センチのシダ類で、枯野などに今頃ふっと現れる↓、とても地味だが、この句は「夢見るか、夢みし後か」と問いかけているのがいい) 12.5 

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  • オリオンと店の林檎が帰路の栄(はえ)

 (中村草田男『長子』1936、冬の夜、一日の仕事を終えて帰宅する夜空にはオリオン座が輝き、果物屋の店先には林檎が電灯に照らされて光っている、どちらも自分を祝福する「栄(はえ)」のように感じられる) 12.6

 

  • 外套を脱ぎしが壁の影も脱ぐ

 (加藤楸邨『颱風眼』1940、少し前の句に「外套の襟立てて世に容れられず」とある、寒い夜、家に帰って外套を脱ぐ、豊かな暮らしではないだろう、電球の光で自分が外套を脱ぐ姿が壁に映る、それが何とも侘しく寒々としている) 12.7

 

  • 寒鯉の魚籠(びく)にひかりて月ありぬ

 (水原秋櫻子『葛飾』1930、寒鯉とは、寒い冬に、水中であまり動かない鯉のこと、魚籠も水につければ中の魚は生きているから(活かし魚籠)、寒鯉もひょっとしてまだ生きているのか、その寒鯉が月光を浴びて浮かび上がるように光っている) 12.8

 

  • 電話する インターネットで調べればすぐにレシピが分かる料理も

 (落合きり『角川短歌』11月号、作者は大学一年生か、初めて家を出て独り暮らしになったのだろう、寂しいのでお母さんとしょっちゅう電話で話をする) 12.9

 

  • 田舎から引きずる過去もぶつかつた肩もゆるしてくれる東京

 (網谷計以介『角川短歌』11月号、作者1985~は地方から東京に出てきて暮らしているのだろう、東京の生活は快適だ、他者との距離感も作者にとってちょうどよい) 12.10

 

  • 触れたなら光ってみせて遠くまでとどく光じゃなくたっていい

 (梶山志織里『角川短歌』11月号、作者1993~は恋をしているのだろう、デート中に彼氏に軽く触れたのか、それとも彼氏が作者に触れたのか、彼は愛情の表現が苦手で、もじもじしているのだろうか) 12.11

 

  • 炎吐くことをためらう臆病な恐竜みたいな寝息に眠る

 (堀静香『角川短歌』11月号、新婚の妻が夫を詠んでいる、隣りに寝ている夫は優しい人なのだろう、そういう夫を見詰める作者も優しい) 12.12

 

  • 熱を出す 会えなくなった人たちの声が笑って足音みたい

 (椛沢知世『角川短歌』11月号、熱を出して横になっている作者、夢うつつなのか、高熱にうなされているのか、「声が笑って足音みたい」に聞こえる、というのが鋭い) 12.13

 

  • 氷点下の雨よ世界に生殖器を植物だけが曝(さら)け出しつつ

 (渡邊新月『角川短歌』11月号、何の花だろう、花が生殖器であることは、たとえば水芭蕉や開ききったチューリップなどで感じることがあるが、「氷点下の雨」でこそそれを感じるという作者2002~、まだ高校生か) 12.14

 

  • 人に家を買はせて我は年忘れ

 (芭蕉1690、「弟子の乙州[大津の人、豪商]が買ったばかりの立派な新宅に、私や俳句の友人たちが招かれて、とても楽しい忘年会になった、うれしいなぁ、ありがとさん」) 12.15

 

  • 家の子に酒許しけり年忘(としわすれ)

 (士喬、作者は摂津灘の有名な酒造りの一家で、蕪村の友人、たぶん酒屋全体の忘年会が盛り上がっているのだろう、自分の子や酒屋で働く少年たちに、「お前たち、今日はまぁ特別だ、飲んでいいぞ」と酒を許す) 12.16

 

  • 裾(すそ)に置いて心に遠き火桶かな

 (蕪村1768、「寒いなあ、足元に火桶を引き寄せて手を暖めているけれど、心までは暖かくならないよ」、「心に遠き」が鋭い、私たちは、心が温まってこそ体も温まったと感じるのだ) 12.17

 

  • 鍬の罰(くわのばち)思ひつく夜や雁の鳴く

 (一茶、1807年冬、弟と亡父の遺産分割交渉をする為に一茶は故郷の信州柏原に戻る、その時の句、「鍬の罰」とは、働かないでのらくら暮している者への天罰のこと、定収入のない貧乏俳諧師は故郷に帰っても肩身が狭かった、交渉も不調に終る) 12.18

 

  • 風寒み木の葉晴れゆくよなよなに残るくまなき庭の月影

 (式子内親王『新古今』巻6、「枝にあった木の葉が木枯らしに吹き飛ばされて、どんどんなくなってゆく、月は夜ごと夜ごとに、ますます庭の隅々まで照らすようになってゆく」) 12.19

 

  • 冬枯れの杜(もり)の朽ち葉の霜の上に落ちたる月の影のさやかさ

 (藤原清輔『新古今』巻6、「冬枯れの森は、木の葉がすべて地面に落ちて、朽ち葉になった、その朽ち葉一杯に霜が降りている、それをくまなく照らす月の光、なんて美しいのだろう」) 12.20

 

  • 淋しさに煙をだにも断たじとて柴折りくぶる冬の山里

 (和泉式部『後拾遺和歌集』巻6、「なんて淋しい冬の山里なの、煙が細々と出ているけれど、それも、せめて煙だけは絶やさずにおかないと寂し過ぎるから、雑木を折ってくべているだけなのかな」) 12.21

 

  • 柚子湯よりそのまま父の懐へ

 (長谷川櫂、小さな子供の可愛らしさを詠んだ句、母親と一緒にユズ湯に入っていた息子(娘?)が、出るとそのまま拭かずにダーっと走ってきて作者の胸に抱きついた? それとも湯船から赤ちゃんを抱きあげるように受け取った? 今日は冬至) 12.22

 

  • 雪の野へ吾子(あこ)がゆあぶる音ゆけり

 (渡辺白泉1940、三省堂勤務で26歳、新婚の作者に長女が生まれた時の句、赤ん坊の産湯の音が雪の積もった家の外まで聞こえる、だが早産だったので一か月後に死亡、作者も数か月後に京大俳句事件に連座して警察に連行される) 12.23

 

  • 青菜つづく地平に基地の降誕祭

 (飴山實1954、まだ日本が貧しかった頃、今日も休まず農作業が行われている青菜畑の向こうには、鉄条網で囲まれた米軍基地があり、クリスマス行事が盛大に祝われている、日本人は休めないが基地はお祭り気分で盛り上がっている) 12.24

 

  • 力なく降る雪なればなぐさまず

 (石田波郷1949、作者は生涯に結核で何度も入院している、この句は35歳の時、病室で脱力状態の作者には、窓の外に「力なく降る雪」は少しも慰めにならない、そこに脱力の自分を見るようだから) 12.25

 

  • これからはすこしの秘密許してと高校の娘(こ)が母に告げおり

 (菅原豊人「朝日歌壇」1971、後藤美代子選、彼氏ができたのだろう、恥ずかしいので黙っていたが、信頼している母にだけは仄めかした、母はそれを父に告げ、父は短歌に投稿して載った、この歌はきっと娘の高校で話題に) 12.26

 

  • とし若き父のノミ跡なつかしく古き校舎の敷石を買う

 (在賀彦一「朝日歌壇」1971、宮柊二・前川佐美雄選、小学校が廃校か建て替えになったのだろう、旧校舎の敷石は作者の父が若いときにノミで削って造ったものだ、それはただの石ではなく、石工だった亡き父の懐かしい思いがこもった石) 12.27

 

  • 航海灯一つ灯して沖ゆくは今急患と夫乗りし船

 (角光子「朝日歌壇」1971、近藤芳美選、作者の夫は漁村の医師なのだろう、夜中に「急患です」という呼び出しがあり、小さな漁船で沖へ出てゆく、心配そうにずっと海辺で見送る妻、海は少し荒れているのだろう) 12.28

 

  • わら屋根のつららきりりと凍る夜に胸に手あわせシリウスを見る

 (清水研一「朝日歌壇」1971、前川佐美雄選、都会ではなく農村の夜道だろう、夜空の美しいシリウスを見て作者が思い出したのは、今は亡き友だろうか、それとも家族だろうか、作者を空から見守っているシリウス) 12.29

 

  • 大安の日を餘(あま)しけり古暦(ふるごよみ)

 (高濱虚子、大晦日ごろになると、新しいカレンダーに取り換えたくなる、でもたまたまその年のカレンダー(=古暦)の大晦日は大安なのだろう、せっかくの大安がなくなるのはもったいないような・・) 12.30

 

  • 極月(ごくげつ)も大つごもりの移民かな

 (丁木、「極月」とは師走のこと、「大つごもり」は大晦日、作者については分らないがたぶん戦前の俳人、「移民」というのがいい、大晦日に故郷へ帰郷する人は当時も多かったことが分る) 12.31

ラジブ・ジョセフ『タージマハルの衛兵』

[演劇] ラジブ・ジョセフ『タージマハルの衛兵』 新国立劇場・小H 12月21日

(写真は↓、二人の衛兵、左がバーブル(亀田佳明)、右がフマユーン(成河)、二人は性格が非常に違うので、それが面白い)

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演出の小川絵梨子が設定した「ことぜん(個と全)」というシリーズ・テーマに、私はやや違和感を感じていて、10月のゴーリキーどん底』も、どこが「個と全」なのかよく分らなかったのだが、この『タージマハルの衛兵』はたしかに「個と全」そのものを主題にしている。タージマハル城を建設している巨大権力に二人の衛兵が苦しめられる物語で、(1)巨大権力によって個人がとことん分断されること、(2)巨大権力に歯向かう/歯向かわないという二人の性格の違いの面白さを、この作品は描いている。このような状況は現代にきわめて普遍的であり、私は二人を、アウシュビッツ収容所で「淡々と働く」職員に見立てながら観劇していた。休憩なしの95分なのだが、もっと長く感じた。(写真下は、タージマハル城を超える美しい建築が二度と造れないように、王の命令で二万人の建設要員の手を切り落とすという理不尽な作業を終えた二人、後ろには切り落とした手が瓶に盛られている)

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よく出来ている作品だと思うし、俳優の演技もよかったが、二人がしゃべる科白がどうも分りやす過ぎるのではないか、という印象をもった。『ゴドーを待ちながら』と比べると分かるのだが、このような状況に衛兵が二人だけで置かれたら、もっと支離滅裂なことをしゃべるのではないか。フマユーンが「権力には従った方がよい」と考えるのは分かるが、こういうストレートな言い方をするだろうか。もっと間接的で、もってまわった言いかたをするか、あるいはうまく言えないのではないだろうか。「俺たちは何も考えなくていいんだ」と彼は何度か言うが、実際の人間はこんな科白を言うだろうか。恐怖のあまり、考えたくても考えられなくなってしまうのではなかろうか。フマユーンが「俺たちは何も考えなくてもいいんだ」と口に出して言うから、全体が説明的になり、状況の怖さが減ってしまった。バーブルが「自分は美を殺してしまった」と悩むのも、建設要員の殺害と関連づけたのだとすれば、牽強付会のまずい説明ではないだろうか。こういう極限状況では、人間が語る言葉は、極端に即物的か極端に抽象的かの両極に分裂し、適切な抽象度を保てなくなると思うからだ。この城から逃げ出して二人でジャングルの奥で暮らしたい、というのも分りやす過ぎる夢想だ(写真↓)。

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現実を良く見て賢く振る舞うフマユーンが生き残り、現実がよく見えず夢想ばかりしているバーブルが自滅するのは、私は自分がバーブルタイプの人間なのでとても良く分り、バーブルには共感できる。二人の性格の違いもとてもよく造形されているが、しかし考えてみれば、この対照も劇を分りやす過ぎるものにしてしまっているのかもしれない。演劇という虚構の中で不条理をリアルに見せることの難しさについて考えさせられた。

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ヘンデル『リナルド』

[オペラ] ヘンデルリナルド』 北とぴあ 11月29日

(写真は舞台、左から総大将ゴッフレート、英雄リナルド、ゴッフレートの弟エウスターツィオ、そして誘惑するサイレンたち)

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オケは、寺神戸亮指揮のレ・ボレアード。1711年、ヘンデル26歳の作品。男性はバリトンが一人いるだけで、カウンターテナーが活躍する作品。カウンターテナー中心のオペラは初めて見たが、とてもよかった。マッチョであるはずの総大将ゴッフレートもメゾソプラノの小柄な女性(布施奈緒子)なので、全体が男なのか女なのかよく分からない不思議な作品。昨年見た『アルチーナ』(ヘンデル)もトランスジェンダー作品で、男の役をほとんど女が歌う宝塚のような不思議な作品だったが、『リナルド』も似たところがある。『リナルド』は、オケの音楽が腰が据わっているというか、構造がしっかりして、全体が通奏低音のようなので、カウンターテナーたちの高音域の歌とよくマッチする。反対にリュリのオペラでは、オケの音楽全体が抒情的な旋律となって、ふっと流れる感じがあるが、ヘンデルのオケの音楽はどこまでもやや低音域の通奏低音的な感じだ。それがまた歌と対照的でとてもよい。そしてチェンバロの旋律が、オケの音楽の中からふっと浮かび上がることがあるが、その旋律は澄んで明るく天国的で、ものすごく美しい。物語はタッソー『解放されたエルサレム』にもとづいているそうだが、よくあるお姫様の救出物語で、別にどうということはない。主役の英雄リナルドやアルミレーナ姫が、どちらかというと凡庸な役柄であるのに対して、敵のサラセン軍の魔女アルミーダ(湯川亜也子)がすばらしい。アルミーダこそ本当の主役ではないかと思ったが、それは歌手がよかっただけでなく、アルミーダは主役たちと違って恋人に裏切られて激しく苦悩するからだと思う。『アルチーナ』もそうだったが、前半は話がなかなか進まずやや退屈だったが、後半は大いに盛り上がって、ほぼ完璧な構成といえる。マッチョ役を女性やカウンターテナーが歌うことによって、全体がやや“倒錯的”ではあるけれど、いや、そうだからこそ、このうえない美が現出するのだ。そこが『リナルド』や『アルチーナ』の魅力なのだろう。(写真下は、魔女アルミーダとアルミレーナ姫、その下はサイレンに誘惑される英雄リナルド)

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今日のうた(103)

 [今日のうた] 11月ぶん

(写真は吉屋信子1896~1973、少女小説で名高い作家だが、俳句や短歌も詠んだ)

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  • 秋しんしんからだの奥に霧ながれトランクはわが紺いろの馬

 (小島ゆかり『六六魚』2018、作者にしては難解な歌だが、詩的な美しさがある、駅か空港で、お気に入りの紺色のトランクに腰かけているのだろう、秋の空気の冷たさを「からだの奥に霧ながれ」と形容した) 11.1

 

  • 解読不能のメールを真夜くれて夫はいづくに酩酊すらむ

 (松山紀子『わたしの森も末端である』2019、これはいかにもありそうな情景、いつも残業などで遅くなる時は丁寧なメールをくれる夫が、今夜は「解読不能の」メールを送ってきた、少し心配する妻) 11.2

 

  • 女子トイレの多さは少女(をとめ)のあきらめし夢の数なり大劇場の午後

 (栗木京子『ランプの精』2018、作者は宝塚を見に劇場にいるらしい、宝塚は女性ファンが多い、トイレに並ぶ彼女たちを見て、この中には、少女のころ自分も宝塚に入ることを夢見た人たちもたくさんいるだろうと感じる) 11.3

 

  • 美知子さんみちこさんとてわれよりも妻にやさしき母なりしかな

 (山野吾郎『百四本の蝋燭 ― 母を偲ぶ百首』2019、104歳で亡くなった母を偲ぶ歌、作者の妻が「美知子さん」なのだろう、母が妻を呼ぶその声がいきいきと記憶に甦る、作者もかなり高齢のはず) 11.4

 

  • 銀色の高層ビルを仰ぐときおもふ近代断髪の女

 (米川千嘉子『牡丹の伯母』2018、高層ビルが立ち並ぶ都心のビジネス街で、颯爽としたキャリウーマン風の女性たちがビルからたくさん出てきたのだろう、昔、女が勤めに出て働くようになった頃の「近代断髪の女」の苦労をふと思う) 11.5

 

  • 声かかるほどに榠樝(かりん)の色づきし

 (依田明倫1928~2017、カリンの実は武骨な形をしているが、その黄色はよく目立ち、ちょっと「声をかけたくなる」親しみがある、我が家近くのカリンの樹にもたくさん色づいているので、通るとき思わず見てしまう) 11.6

 

  • 切株におきてまつたき熟柿(じゅくし)かな

 (飯田蛇笏、「よく晴れた秋の日、柿の木から捥いだ柿を、大きな切株の上に置いてみた、しっかりと熟した柿は赤く美しく光っている、本当に「まつたき熟柿」だなぁ」) 11.7

 

  • 菊の鉢廻転ドアに抱き悩む

 (吉屋信子、「こぼれんばかりに菊の花が咲いた大きな鉢を抱え持っている私、回転ドアのところにきた、ちょっと立ち止まってしまう、うまく通り抜けられるかしら」) 11.8

 

  • 逢ふことをいづくにてとか契るべき憂き身のゆかむ方を知らねば

 (選子内親王『新古今』巻20、「どこへいけば観音様に逢えるのかしら、どこで契れば(=約束すれば)逢えるのかしら、分んないわよ、だって私、方向音痴だもん、ただ浮き世を漂ってるだけだもん」、釈教歌なのに「逢ふ」とか「契る」とか恋の語彙で詠んでる、観音様は彼氏じゃありませんよ!) 11.9

 

  • 昼解けば解けなへ紐の我が背なに相寄るとかも夜解けやすけ

 (よみ人しらず『万葉集』巻14、「どういうわけかしら、昼間はなかなかほどけなかった私の下着の紐が、夜になると自然にほどけちゃう、そうよね、貴方が来る前触れよね、ああうれしい」) 11.10

 

  • 風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

 (鏡王女『万葉集』巻4、「風の音にさえ恋を感じるなんて羨ましいわ、風の音にさえ彼が来ると心がときめくなら、嘆くことないじゃない」、額田王の「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」に姉(?)が応えた歌) 11.11

 

  • わが恋はゆくへも知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ

 (凡河内躬恒古今集』巻12、「僕の恋は、どこに行くのだろう、どこかで終わるのではなく、永遠に続くのだろうか、あぁ、今はもう、ただひたすら貴女に逢いたい、逢うことが終りだと思うから」) 11.12

 

  • 秋風や模様のちがふ皿二つ

(原石鼎1915年、縁側か、あるいは外に向けて開け放たれた部屋だろうか、秋風が吹く寂しい夕方、そこに置かれた二枚の皿の「模様がちがふ」ことにあらためて気づく)11.13

 

  • 美(よ)きひとの後(あと)吸入をせんとする

  (山口誓子1935、作者は同年、肋膜炎を再発して治療を受けていた、この句も医者のところだろう、誰か知らない美しい女性の後に、酸素吸入の順番が回ってきた、何だか得した気分になっている作者) 11.14

 

  • あるものを着重ねつゝも肌寒し

 (高濱虚子1956、本格的な冬になれば分厚いセーターなどを着るが、秋はまだそこまで寒くない日もあるから、寒い日はつい「あるものを着重ねて」しのぎ、肌寒い思いをする、虚子晩年の句) 11.15

 

  • 焼栗も客も飛び行く夜寒かな

 (内藤丈草1662~1704、秋の夜もすっかり寒くなった、焼き栗を客が買って、「それを抱えて飛ぶように家に帰ってゆく」、江戸時代には焼き栗がどのように売られていたのだろう) 11.16

 

  • 火美(うるわ)し酒美しやあたゝめむ

 (山口青邨、酒の熱燗がうまい時期になった、「あたため酒」とも言うが、酒がうるわしいだけでなく、酒をあたためる火までうるわしい) 11.17

 

  • くらがりへ人の消えゆく冬隣

 (角川源義、冬がもうそこまで来ている、日没も早くなり「くらがり」が増えた、歩いている人が「くらがりへ消える」感じが、なんとも侘しい) 11.18

 

  • 秋深みならぶ花なき菊なれば所を霜の置けとこそ思へ 

(西行山家集』、所を置く=距離を置く、遠慮する、「秋も深まり花はみな枯れて菊だけが残っている、霜よ、せめて菊のある場所をよけて降りてほしい」、西行には理屈っぽい歌も多い) 11.19

 

  • 有明のつれなくみえし別れより暁(あかつき)ばかり憂きものはなし

 (壬生忠岑(みぶのただみね)『古今集』巻13、「せっかく来たのに貴女は逢ってくれなかった、夜が明け、月が空しく照っていた、あれ以来、明け方は僕にはとても辛い」、「来れど逢はず」のふられた歎き、百人一首にも採録) 11.20

 

  • あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「山鳥の尾はとても長いよ、その長い尾みたいに、今夜も長いなあ、ああ、この長い夜を僕はまた独り寝で過ごすのか」、百人一首では人麻呂作とされているが、作者不詳の歌) 11.21

 

  • 待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ今日の夕暮れ

 (和泉式部『日記』、「もし貴方を待っていたら、こんなつらい思いをしたかしら、貴方の代わりに手紙も持たない童が来たなんて、ああ、こんな悲しい今日の夕暮れ」、敦道親王が来なかったのを恨む歌) 11.22

 

  • つらからば恋しきことは忘れなでそへてはなどかしづ心なき

 (馬内侍『新古今』巻15、「私をそでにした貴方が恨めしいなら、貴方への恋しさなんか忘れそうなのに、そうならないだけでなく、どうしてこんなにそわそわしちゃうのかしら私」、昔の恋人に手紙をもらった返し) 11.23

 

  • 流れ出でむ憂き名にしばしよどむかな求めぬ袖の淵はあれども

 (相模『新古今』巻15、「貴方と付き合うと噂が世間に流れるでしょう、それが怖くてためらっちゃうのよ、私の袖の淵には涙が一杯にたまって、身を投げられるほど深いけれど」、噂が怖くて恋しい男と付き合えない歎き) 11.24

 

  • 母と子と拾ふ手許に銀杏散る

 (高濱虚子、母と小さな子が、きれいな落葉を選びながら拾っているのだろう、その「手許に」どんどん新しい銀杏の葉が落ちてくる、銀杏が散り始めると、落葉の量は半端でない) 11.25

 

  • はじめより掃かでありたる散紅葉

 (後藤夜半、「掃いた形跡がまったくなく、散った紅葉がすべて、そのまま地面にある、家の人に何かあったのだろうか」、「紅葉」は秋の季語だが、「紅葉散る」は冬の季語、初冬の寂しさを感じさせる) 11.26

 

  • 水草や水ある方に枯れ残る

 (正岡子規、「このあたりの多くの草は枯れてしまった、水草も少しづつ葉の縁から枯れているが、池の水の一番深いあのあたりは、緑の水草がまだ残っている」) 11.27

 

  • 枯草と一つ色なる小家かな

 (一茶、枯草と同じ色のあの小さな「小家」には、貧しい一家が住んでいるのだろう、そこにいる見えない人々への共感、一茶らしい優しさが感じられる) 11.28

 

  • ごめんごめん俺のでんわは糸電話 鳩がとまると通じへんねん

 (田中道孝『角川短歌』11月号、作者1959~は本年度の角川短歌賞受賞者、建設技師だろうか、工事現場の歌が並ぶ、大きな工事現場に連絡用の細い電線が張られているのか、そこに「鳩が止まった」) 11.29

 

  • わたくしが眠ってしまえばこの部屋は月のみの射す密室となる

 (鍋島恵子『角川短歌』11月号、作者の寝室には月の光が射して美しい、しかし一人でいる孤独のようなものも感じられる、眠ったまま死んでしまっても誰も気が付かない、作者1977~は本年度の角川短歌賞受賞者) 11.30