美と愛について(8) ― 恋に陥る瞬間、トーマス・マン『すげかえられた首』

美と愛について(8) ― 恋に陥る瞬間、トーマス・マン『すげかえられた首』

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 『魔の山』で知られるトーマス・マンに、『すげかられた首Die vertauschten Köpfe』(1940)というインドの古伝説に取材した小説がある。ナンダとシュリーダマンという二人の若い青年と、シーターという美しい娘をめぐる物語である。ある日、二人の青年は山奥にある神聖な沐浴場を訪れた。そこで沐浴し、神に祈りをささげようというのである。秘境でひと気のないはずの沐浴場に着くと、驚いたことに、一人の若い娘がそこで沐浴していた。二人は気づかれないように物陰に身を隠し、娘の沐浴を眺めているうちに、そのあまりの美しさに、魔法にかけられたように彼女に恋してしまった。その場面を、岸美光訳から引用しよう(光文社古典新訳文庫、太字は植村)。

 

>若い娘は、沐浴の祈りを捧げようとしているところだった。娘はサリーと胴衣を、水に降りる階段の上に脱ぎ捨て、丸裸でそこに立っていた。首にはわずかな鎖を飾り、ゆらゆらと揺れる耳輪をつけ、たくさんの結び目を作った髪に白いリボンを巻いているだけである[上の挿絵↑]。その体の愛らしさは眩いばかりで、夢まぼろし(マーヤー)からできているようだった。この上もなく魅力的な肌の色は暗すぎず白すぎず、むしろ金色に輝く鉱石のようで、ブラフマー[=ヒンドゥ教の最高神]の思うまま輝かしく作られていた。加えて、幼さを残す肩は甘美の極み、嬉しげにカーブを描く腰は腹の前面の広がりを生み、胸は処女の固さを保って蕾のよう、尻は誇らしく張出し、上に向かって匂やかに軽みを増しながら、ほっそりした華奢な背中に続き、娘が蔓草(つるくさ)のような腕を上げたり、首筋で両手を組んだりすると、そこに柔らかなくぼみが現れ、また繊細な腋の下が暗く開かれるのであった。これほどにすべてが見事であるのだが・・・。(p166f.)

 

ここで、「娘が蔓草(つるくさ)のような腕を上げたり、首筋で両手を組んだりすると、そこに柔らかなくぼみが現れ、また繊細な腋の下が暗く開かれる」とあることに注意しよう。女性の胸や腰にエロスを感じるというのは普通のことだが、ここで描写されているのは、女性が自分の髪をかきあげたり、首の後ろに触れたりする時に、彼女の腕が上がり、肩がむき出しになる、その美しさである。女性のこの仕草は、実は、トーマス・マン自身が女性にもっともエロスを感じ、魔法のように魅せられる瞬間なのである。というのは、彼女が首の後ろに触れるため腕を上げて肩までむき出しになる瞬間は、次回に見る『魔の山』のショーシャ夫人や、『トニオ・クレーゲル』の美少女インゲボルク・ホルムにおいても、まったく同様に記述される決定的なシーンであり、主人公の男性が恋に陥る瞬間だからである。『すげかえられた首』をさらに続けよう。

 

>娘は、(祈りが終ると川に入って)水浴を楽しみ、そうしたことをやり尽くすと、水滴をたらしながら、冷えた美しい体で乾いた所に上がってきた。しかしこの場所で二人の友人に与えられた幸運は、これで終わらなかった。水浴の後、身を清めた娘は階段に腰を下ろし、日の光を浴びて体を乾かしたのだが、その際、誰もいないと思いこんで、その体の優美な自然が求めるままに、気持ちよくあの姿勢、この姿勢をとり、それもやり尽くすと、ゆっくり服を着て、川の階段を逆に上がって、聖堂の方に姿を消した。(p171)

 

腕を上げて髪をかきあげる仕草もそうだが、女性のエロスがもっとも美しく輝くのは、身体が静止しているときではなく、さまざまな姿勢を取るその動態的な様相である。青年の一人は、過日、ある祭りの儀式で、その娘をブランコに乗せて限りなく高く漕がせるブランコ漕ぎ手を務めていた。

 

>この前の春、おれがあの村に行ったとき、あの娘は太陽の処女に選ばれていた。おれはお日様の手伝いをして、あの娘を揺すってやった。天まで届けと高く、上からあの娘の悲鳴がほとんど聞こえないくらいにね。どのみちみんなの金切り声でかき消されたんだけど。(ナンダ、p172) 

>おまえはついていたね。・・あの娘がぶらんこに乗って、空に舞い上がる様が目に浮かぶよ。ぼくの想像の中の飛ぶ姿が、ぼくらがさっき見た立ち姿と混じり合う、直立して祈り、敬虔に身を屈めたあの姿が。(シュリーダマン、同)

 

美しい娘のエロスが輝くのは、ぶらんこに乗って空に舞い上がったり、金切り声で叫んだり、直立して祈ったり、敬虔に身を屈めたりする、身体の動態的な様相においてである。二人の青年は、彼女のエロスの輝きに深く感動した。だが、このエロスの体験について、二人の青年は異なった受け止め方をする。18歳のナンダは、いけないものを見てしまったように感じ、こう語る。

 

>ああいう美しい姿は心を捉えて離さない、と言われるよね。でもどうして捉えて離さないんだろう。それは、あの姿がおれたちを望みと喜びの世界に縛りつけ、それを見た者をいっそう深く輪廻(サンサーラ)の呪縛に巻き込むからだ。だから造られた生き物であるおれたちから澄んだ意識が消えていく、ちょうど息が絶えるようにね。それがあの姿の作用なのだ、[娘が]意図したことではなくてもね。・・・美しい姿は与えられたものだ、望んで受け取ったものではない、だから祈る必要もない、なんて勝手な言いぐさだよ。<与えられた>と<[望んで]受け取った>との間にほんとの区別なんてない。あの娘もそれがわかっているから、きっと、自分が人の心を捉えてしまうことの許しを求めて祈るんだろう。(p173)

 

ナンダにとって、自分が娘シーターのエロスに魅せられることは、「ちょうど息が絶えるように、澄んだ意識が消えてゆき、輪廻の呪縛に巻き込まれる」こと、つまり死へといざなわれることである。シーターも自分のエロスがそのような力を持つことを知っており、だから許しを求めて祈っているのだ、と彼は考える。しかし21歳のシュリーダマンは、それに反論して言う。

 

>・・・ぼくらは美しいものの実体を尋ねもせずにその姿をただ楽しんでいる時に、やはりその美しいものに対して責任を負っているのだ。特に、ぼくらだけが一方的に見ていて相手から見られていない時には、特に深く、その責任を負っている(p175)。・・・なにしろ美には美の現れる姿に対して義務があるのだから。あの娘は美の義務をはたすことによって、もしかしたら、ただ人の気持ちをかき立て、自分の魂を探らせようとしているだけなのかもしれない(p176)。・・・どうしてお前[=ナンダ]は、あの美しい姿を非難することができたんだろう。あの娘の美しさのせいで、被造物である人間たちが否も応もなく呪縛され、意識の息が消えていく、なんてね。それは、ものごとを罰すべき一面性でしか見ていないということだし、真実で完全な存在がこの上なく甘美な姿で顕われたのに、それにすっかり心を満たされてはいないということを暴露するものだよ。というのは、あの娘はすべてであって、ただ単にそれだけのものではないからだ。生と死であり、妄想と知恵であり、呪縛者であり解放者なのだ。・・・つまり、あの娘がぼくらに与える陶酔は、同時に感激でもあって、これはぼくらを真理と自由に導くものだ。なぜなら、縛るものは同時に解き放つものでもあって、感覚の美と精神を一つに結ぶものは感激であるということ、これこそがその秘密なのだ。(p178f.)

 

ナンダとシュリーダマンの対話は、エロスが惹起する倫理問題の核心に迫っている。私はもちろんシュリーダマンが正しいと思うが、しかしプロテスタント神学者などは、エロスをそれ自体として善いものとは認めない。エロスとアガペーの切断と連続は、美と愛をめぐる問題の核心なので、これからも繰返し考えてゆきたい。次回は、トーマス・マンの『魔の山』を扱う。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、前回と同じく『フィガロの結婚』の第2幕、ケルビーノの「着せ替え」シーン、ルチア・ポップのスザンナとG.ヤノヴィッツの伯爵夫人(3分)。こちらは前回のザルツブルク音楽祭ほどエロくない。

https://www.youtube.com/watch?v=v5_uaPyj6E8

近松半二:新版歌祭文/近松門左衛門:傾城反魂香

[文楽] 近松半二:新版歌祭文/近松門左衛門:傾城反魂香  国立劇場 2月17日

(写真は↓、新版歌祭文のお染と久松)

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「新版歌祭文」野埼村の段と、「傾城反魂香」土佐将監閑居の段の二つを見た。前者は悲劇、後者は喜劇で対照的だが、どちらも非常によくできた作品だと思う。18世紀初頭、大阪でお染と久松の心中事件が実際にあり、それをネタにたくさんの作品が作られたが、そのあとまた作ったと言う意味で、「新版」とタイトルにある。「心中天網島」と同様、二人の女が主人公で、純情な田舎娘のおみつが、結婚相手の久松を諦めて、都会娘の美人のお染に返すのが悲しい。結婚の盃を交そうと、父が花嫁衣裳になった娘おみつの帽子を取ると、下は毛を切って尼になっている。老母の介護をしている孝行娘のおみつが、結婚できると大喜びしたのに、お染と久松が心中覚悟と知って、結婚を諦めるまで約1時間。「嬉しかつたはたつた半時」とおみつは嘆く。しかし実は、おみつが結婚を譲ったとしても、実家に連れ戻されたお染は、別の結婚を強制され、結局は久松と心中する、と我々観客は知っている。だから、大阪へ二人が連れ戻される最後の舟と堤のシーンはとても悲しい。しかしそれにしても、久松は、終始うつむいて、めそめそしているばかりで、ほとんど何も言わないのは一体何だろう。「心中天網島」と同様、女二人は<愛の主体>として決然と行動するが、男はだらしがなくて本当にダメだ。男が愛の主体になれないというのは、近松門左衛門だけでなく近松半二もそうなのか。(写真下のみは↓10年前のものだが、やって来たお染と争うおみつ)

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傾城反魂香の方は、とにかくめちゃ面白い喜劇で、吃(ども)るダメ絵描きの又平が、奇蹟的に凄い絵を描き、吃りが直るというメデタシメデタシの話。彼の吃りと、それが直ってすらすら語り出す移行が面白いので、義太夫の語り芸が最高度に発揮される作品だ。今回は、六代目竹本錣(しころ)太夫の襲名公演なので、この作品が選ばれたということなのだろう。人形の動きも圧巻で、とにかく面白く、分りやすい喜劇だ。(写真↓は、上から、逃げ出した虎[左]、次が、奇蹟の絵、そして一番下の左が、竹本錣太夫)

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美と愛について(7) ― 恋に陥る瞬間、ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』

美と愛について(7) ― 恋に陥る瞬間、ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』

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(本の表紙↑、二人はどちらも手先を触れ合っている)

 ゲーテ『若きヴェㇽテルの悩み』は23歳のゲーテの実体験をもとに書かれている。「純愛小説」として名高いが、青年ヴェㇽテルがロッテという美しい娘と恋に陥ってゆく過程がきわめて的確に描かれている。前回までに見た『ロミ・ジュリ』『真夜中の恋人たち』などでも、恋に陥る身体の先兵は、掌、指先、つま先、唇などであったが、『ヴェㇽテル』ではそれが一層先鋭に表現されている。また、恋愛を論じたユニークな書であるロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(1977、三好郁郎訳1980、みすず書房)では、一番多く扱われているのが、ゲーテ『ヴェルテル』である。そちらも合せて検討しよう。以下、ゲーテの引用は旺文社文庫(井上正蔵訳)から、それ以外は、バルトの本から引用する(「ウェルテル」という表示もバルトの訳書に従う、どちらも数字は訳書頁)。

 

まず、ウェルテルが初めてロッテを見た時のことは、こう書かれている。

>・・・玄関に足を踏み入れたとたんに、今まで見たこともない、うっとりするような光景が目に入った。玄関のホールに子供が六人、見るからに美しい中肉中背の娘のまわりに群がっていた。その娘は清楚な白いドレスを着て、腕と胸にピンクのリボンを付けていた。(29)写真下↓

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 そして、ウェルテルは一瞬にして恋に陥り、それ以来、しげしげとロッテの所に通う。二人はまずダンスパーティで一緒に踊った。

>三回目のイギリス舞踏のとき、ロッテと僕は二番目の組になった。列の中を踊りぬけ、僕は言い知れぬ嬉しさにひたって、ロッテの腕に、そしてあふれるばかりの純粋な喜びをありありと浮かべている瞳に心をうばわれていた。(36)

  そして、ウェルテルの指先やつま先が、ロッテのそれに触れるとき、彼は「火にさわったように」感じるようになった。

ふとこの指があの人の指にふれるとき、この足がテーブルの下であの人の足に接するとき、僕は全身の血がわななく。火にさわったときのように、急に身を引いてしまうのだが、不思議な力が僕を前に引き寄せ、僕の全感覚がもうろうとしてしまう。ああ、それなのに、彼女の無邪気さ、彼女の天真らんまんな心は、こうしたひょっとした親しみが、どんなに僕を悩ますか知らないのだ。それどころか、話し合っているうちにその手を僕の手に重ね、話に身が入ると乗り出して、あの唇の清らかなすばらしい息吹が僕の唇に触れそうになるとき、僕は雷に打たれたときのように、今にも倒れそうになる。(59f)

  ロッテは、小鳥を飼い、可愛がっている。

「口うつしでも餌を食べますわ」と言って、ロッテは、パンくずを少し[自分の]唇にのせて小鳥に与えた。その唇は、無邪気にほほえんで、愛の歓びにあふれているばかりだった。僕は、思わず顔をそむけた。ああ、こんなことをしなくたっていい!こんなにすばらしい無邪気な幸福の場面を見せつけて、僕の想像力を刺激するなんて!(126)

あやうく彼女の首に抱きつこうとしたことが、何度あっただろう! 愛らしい仕草を次々に見せつけられながら、手を出してはいけないなんて。こんな気持ちは、ああ、けだかい神さましか分るまい。(133)

 そしてウェルテルは、ロッテを描いた影絵(シルエット)を、自分の部屋の壁に飾った。物語の最後、彼は自殺の直前に、ロッテに当てた手紙でこう書いている。

>なつかしい影絵(シルエット)!これは形見としてあなたに残します。ロッテ、どうか大事にしてください。僕は外に出るときも、家に帰ったときも、いつもこの影絵に何千回となく口づけをし、何千回となく挨拶の目くばせを送ってきたのです。(199)

 

 以上が、ウェルテルがロッテに恋に陥ったときの状態であるが、掌、指先、つま先、唇の生き生きした動き、そしてロッテの身体が影絵というフェティッシュな広がりをもっていることが分る。ロラン・バルトはこれを下記のように分析する。

  ロッテにはすでにアルベルトという婚約者がいる。つまり、ウェルテルのロッテへの恋はまったく希望がない。ウェルテルはどうするのか。バルトは語る。

>おまえはシャルロッテを愛している。少しでも希望があるのならおまえは行動する。まったく希望がなければ行動しない。「健全」なる主体のディスクールとはそうしたものなのだ。要するに、あれか、これか、なのである。ところが、恋愛主体はこう答える(ウェルテルがそうしているように)、私は二つの選択肢の間に滑り込もうとするのだ、と。つまり、希望はまったくないけれど、それでもなお私は・・・あるいはまた、私は断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでも続けるのだ。(93)

 [つまり、ウェルテルの恋は、「あれか、これか」の間に滑り込み、漂流する恋となる]

『若きヴェルテルの悩み』のテキストは、こうであった。

>世の中には、あれかこれかで片付くことはめったにない。感情と行為の間には、いろんな度合いのニュアンスがある。・・・僕が、あれかこれかの間をすり抜けようとつとめても、悪く思わないでくれたまえ。(67)

  では、指先と指先、つま先とつま先の接触はどうだろうか。バルトは語る。

>ウェルテルの指がうっかりとシャルロッテの指に触れ、二人の足先がテーブルの下で出会う。ウェルテルは、こうした偶然のもつ意味など考えずにすますこともできたはずだろう。かすかな接触地帯に肉体的な注意を集中し、あたかもフェティシストのごとく、相手の反応のことなど気にもかけず(フェティッシュとは、神 ― それが語源なのだ ― のごとく、答えを返すことのないものである)、そうした指の一部、動かぬ足先の一部を享楽することもできたはずであろう。ところが、ウェルテルはまさしく倒錯者ではない。彼は恋をしているのだ。そこで彼は、たえず、いたるところで、まったく何でもないものについてまで意味を創り出す。そして、そうした意味こそが彼を戦慄せしめている。彼は意味の炎に包まれている恋する者には、あらゆる接触が、答えやいかにとの問いを惹起する。肌には答えを返すことが要請されているのだ。(100)

[直接にロッテの指に触れるとき、ウェルテルはフェティッシュではない。ロッテの肌から答えを返してもらいたいのだから。恋する者は肌で対話する。でも、ロッテの肌に触れていないとき、ウェルテルはフェティッシュになる、バルトは語る]

 >ウェルテルはいくどとなくフェティシズムの身振りを繰返している。誕生日にシャルロッテから贈られた飾紐に口づけ、彼女がよこした手紙に口づけ(インクを乾かすために撒かれた砂が唇につくのも厭わず)、彼女の手が触れたピストルに口づけている。愛する人が放射する力をさえぎるものなどありはしない。わずかでも触れられたものは、たとえまなざしを向けられただけでも、この力の浸透を受ける。・・会えない日、ウェルテルは召使を彼女のところにやっている。[戻ってきた]召使は、シャルロッテのまなざしを向けられたので、彼女の一部となる。・・・このようにして聖別された(神域に祭られた)オブジェは、どれもみな、昼間の光を吸収して闇の中でもひとりでに輝くという、あのボローニャ石のごときものとなるのだ。ラカン(そうしたオブジェは、「母親」に代わって「ファロス」をそなえる。これと同一化するのだ。ウェルテルはシャルロッテに贈られた飾紐といっしょに埋葬してほしいと望んでいる。つまり墓の中のウェルテルは、まさしくそこで呼びさまされる「母親」と添い寝するのである)。(260)

[ラカン的に解釈すれば、自殺するウェルテルにとって、ロッテはまさしくそこで「添い寝する母親」なのである]

 

 次回は、トーマス・マンの小説から、恋する相手の肉体のフェティッシュな契機について考察したい。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『フィガロの結婚』の、ケルビーノの「着せ替え」シーン、スザンナと伯爵夫人が彼を激しく愛撫、ザルツブルク音楽祭2006のやや過激でエロい演出。シェーファーのケルビーノ、ネトレプコのスザンナ。これだけ演技しながら歌うのは大変だろう(3分半)。

https://www.youtube.com/watch?v=PbdHO3OYpV8 

美と愛について(6) ― 恋に陥る瞬間、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

美と愛について(6) ― 恋に陥る瞬間、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

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 前回の『ロミ・ジュリ』では、and palm to palm is holy palmers’ kissと恋人たちが手を合わせる仕草が美しかった。人は恋に陥る瞬間に手が動くのかもしれない。だが、ロミオもジュリエットもある意味では恋愛強者である。だから初めて互いの姿を認めてからファーストキスまで2分強だった。でも、すべての人が恋愛強者なわけではなく、相手に愛を感じてもそれを表現できない恋愛弱者も存在する。つまり、恋なんてできそうもない不器用な男女もいるのだ。そういう恋愛弱者にとって、「恋に陥る瞬間」はどんな感じだろうか。川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(2011)は、その瞬間を美しく描いている。(引用頁は講談社文庫版)

 恋愛経験もないとても地味な35歳の女性が、主人公の「わたし」。偶然知り合った高校の物理教師の58歳の初老男性「三束(みつつか)さん」に片思いになる。彼から「光」の物理学について教えを受ける。酒を飲まないと男の人と話すことができないほど内気な「わたし」は、悶々と苦しんだあげく、彼の誕生日にお祝いの会食を企画する。食後、夜道に立つ二人のどちらからともなく、手が触れ、「わたしたちは指と指の背をふれあわせたまま、動かなかった」(p320)。彼が指先を握り返してくれる。思わず、「三束さん、わたしは三束さんを、愛しています」と告白してしまう。みるみるうちに涙が溢れ、顔をぐしゃぐしゃにして泣いてしまう「わたし」。「彼は何も言わずに、わたしに手をにぎられたまま、わたしのまえに立っていてくれた」(p322)。口づけがあったわけでもない。でもこれこそが恋なのだ。告白のすぐ直前は、本書で最も美しい箇所なので、引用してみよう。

 

「風が吹いていますね」わたしは手で空気をかきまぜるようにして言った。「夜なのに、こんなに影がはっきりとみえるんですね」

「そうですね」と三束さんは言った。おおきな風がまたひとつ吹いて、三束さんの耳のうえの髪が額に覆いかぶさった。

「三束さん、ここには何もないんでしょうか」わたしは三束さんの顔をまっすぐにみて言った。

「ここというのは」

「ここです」とわたしは三束さんと自分の体のあいだを手で示して言った。

「色々あります」と三束さんは言った。

「手を動かすと、こう、何か感触があるでしょう?」

「あります」とわたしは両手をぐるぐるさせて言った。

「あるでしょう」と三束さんも手で円をかくように動かした。「空気の移動みたいなものを、感じませんか」

「感じます」とわたしは言った。

「粒子に触れてるんですよ」

「粒子に」とわたしは高い声で言った。

「そうです。粒子に」

わたしと三束さんはそのまましばらくのあいだ、上下左右に両手を動かしていた。・・・それからまたおおきく風が吹いた。ひとつの影のなかで、わたしたちはみつめあった。 (p318~320)

 

 二人を隔てている空間の「ここ」は、無のように見えるが、物理学的にはいろいろな粒子で満ちている。両手をぐるぐるさせて粒子に触れる二人。何という美しい愛の光景だろう!川上未映子は、身体の触れるきわめて微細な表現に卓越している。たとえば、「わたしたちはお互いにお互いを構成するものをすこしずつ交換しながら、わたしは三束さんの記憶につまさきをそっと入れてゆく思いだった」(p237)。恋に陥るとき、二人は互いに相手を美しいと感じる。しかしその美しさは、静止した肉体そのものにあるのではなく、生きて動くその様態の中にある。ゲーテに『親和力Die Wahlverwandtschaften』という恋愛小説があるが、「親和力」とは、もともとは化学の概念で、特定の原子や分子が互いに集合し接合する動態的な力を意味する。それをゲーテは男と女が恋において惹かれ合う力に喩えた。真夜中の恋人たちが両手をぐるぐるさせて空気という粒子に触れるとき、二人は、そこに働く「親和力」によって、空気という微粒子を介して互いの身体に触れ合っている。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『魔笛』の三人の天使がパミーナを救うところ、パミーナもパパゲーノも死を賭けるからこそ愛を恩寵として与えられる(5分半)。

https://www.youtube.com/watch?v=aFxTbwK7I8s

シラー 『メアリー・スチュアート』

[演劇] シラー『メアリー・スチュアート』 世田谷パブリック劇場 2月4日

(写真は↓、メアリー[長谷川京子]とエリザベス[シルビア・グラブ]、そして舞台、舞台には椅子くらいしかないが、光線の使い方がとても上手く、闇の中に人が光るのが美しい)

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 原作はシラーの長大な戯曲で、イギリス人スペンサーが短縮した。カットはしたが科白はほぼ原作のままと思われる。戯曲を読んで思ったが、科白が本当に素晴らしい。シラー『マリーア・スチュアルト』は、古典主義的な美しさをたたえた作品で、フランスの当時の批評家スタール夫人は、「あらゆるドイツの戯曲のうちでもっとも形式が整然とし、最も感動的な作である」と評した(岩淵達治解説)。たしかにこの上演にも、ラシーヌのような構成美を感じる。演劇としては、最後のメアリー処刑は見せず階上の部屋でレスター伯が処刑の音だけを聞いているのが、深みのある舞台。原作は、スコットランド女王メアリーとイングランド女王エリザベス1世の確執からメアリーの処刑までを描いたものだが、内容はシラーが創作したフィクションが多いので、厳密には「史劇」とは言えないだろう。19年間の幽閉の後、メアリーがエリザベス暗殺計画関与を疑われ処刑されたことは史実だが、戯曲では以下はシラーの創作である。(1)メアリーとエリザベスとの会見(実際は両者は一度も会っていない)、(2)レスター伯とメアリーとの恋愛、(3)メアリーを愛し救出しようとする熱血青年モーティマーの創作、(4)死を前にしたメアリーの心の浄化、などである。とはいえ、メアリーは美女で恋多き女であったが政治的判断力に乏しかったこと、逆にエリザベスは生涯独身だったが政治的判断力に傑出した大政治家だったこと、メアリーの処刑にエリザベスが逡巡したこと等は、史実だ。エリザベス1世の後を継いだジェイムズ1世はメアリーの子であるから、二人は一族なわけだ。(写真↓は、処刑直前、カトリック僧に告解するメアリー、彼女が最後までカトリックにこだわったのは史実)

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 本上演は、全体を80分の第1部と100分の第2部に分ける構成。第1部は科白のしゃべり方が一本調子で、白けた感じだったが、両女王の会見で始まる第2部は非常に充実して見応えがあった。両女王以外のキーパーソンはレスター伯であり、彼は、モーティマーとともに二重スパイのように暗躍し、アクロバティックな策謀をこらしつつ、それが破綻しても、モーティマーを殺して自分だけは危機一髪で切り抜け、最後はフランスに逃げる。この見事なドラマはシラーの創作だが凄い。全体にメアリーを肯定的に、エリザベスを滑稽に人物造形しているが、だから面白いわけで、それはいいだろう。ただこの上演では、エリザベスが最初から最後まで絶叫調でしゃべるのがいただけない。この物語であるならば、エリザベスは、落ちついた低い静かな声で、しかしドスの効いた、怖いしゃべりかたをするのでなければならない。もし仮にジュディ・デンチが演じたら、そうなるだろう。しかし本上演では、エリザベスが絶叫調でしゃべるので、とても安っぽい小物の女になってしまった。(写真下は↓エリザベスと、自殺するモーティマー)

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