今日のうた (111)

[今日のうた 111] 7月ぶん

(挿絵は、志太野坡1662~1740、芭蕉の弟子で、蕉門十哲の一人)

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  • 噴水の立ち上がりざまに見えているあれは噴水のくるぶしです

 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、噴水の水が立ち上がり始める瞬間、もこもこもこっと盛り上がってくる先端に、丸みを帯びた奇妙な形がいくつか見えた、「あれは噴水のくるぶし」なのでしょう) 7.1

 

  • 水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として

 (穂村弘『手紙魔まみ』、地球上の水のほとんどは、雲になったり川になったり海になったり、いつも動いている、でも水準器の中の水は、あの小さなチューブの中にずっと閉じ込められたまま。いやじゃないんだろうか、「あの中に入れられている水は、すごいね、水の運命として」) 7.2

 

  • 夏になる私たちだけ2進数繰り返すキス繰り返すキス

 (梅田桃代・女・17歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「キス」、「真っ直ぐな恋の歌ですね。オンとオフだけの「2進数」という捉え方が新鮮。「繰り返すキス繰り返すキス」という繰返しの響きも素晴らしい」、と穂村弘評) 7.3

 

  • ユミちゃんがひとりで先に腕の毛を剃ったのプール開きの前に

 (浪江まき子・女・28歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「女子」、「それまでは何でも一緒だったのに、女子の世界の新しい扉を「ユミちゃんがひとりで先に」開いてしまったんだ」と穂村弘評、作者はJKかと思ったが、意外にも(?)大人女子) 7.4

 

  • 道の辺の木槿(むくげ)は馬に喰はれけり

 (芭蕉1684、「馬上吟」と前書があり、馬に乗っているのは芭蕉自身、「木槿の美しく咲いた樹を通りかかったら、突然馬がパクッと花を食べてしまった」、人を喰ったような俳諧の味で、木槿の花の美しさを詠んだ、我が家の近くの花も咲き出した) 7.5

 

 (志太野坡1662~1740、作者は芭蕉の高弟、梅雨時には川や池が溢れて、魚が手づかみでも獲れたのだろう、子供たちのいかにも得意そうな顔が眼に浮かぶような句) 7.6

 

  • 時鳥(ほととぎす)雨のかしらを鳴いて来る

 (浪化1671~1703、作者は芭蕉の弟子で、浄土真宗の僧侶、「あっ、黒い雨雲がぐぐっと近づいてきた、雲の先頭に立つように飛んできたホトトギスが鳴いた、と思ったら雨がザーッと降りだした」、「雨のかしらを・・・」が上手い) 7.7

 

  • おろし置く笈(おひ)に地震(なゐふる)なつ野哉

 (蕪村1768年6月20日、「笈」とは、旅などで、ものを入れて背中に背負う箱↓、「夏野で笈をおろして休んでいると、突然笈が振動し始めた、あっ地震だ、怖いな」、野原では普通は地震は感じにくいが、「笈」の揺れを真っ先に捉えた鋭い句) 7.8

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  • 山艸(やまくさ)に目をはじかれな蝸牛(かたつぶり)

(一茶、1813、『七番日記』、草叢を、カタツムリが触角をぐーんと上方に伸ばして動いているのだろう、触角の先端には目玉がある、草の葉に触れて眼を痛めないようにね、と一茶) 7.9

 

  • 海底(うなぞこ)に眼のなき魚(うを)の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり

 (若山牧水『路上』、「光のない深海に棲む魚には眼のない魚もいるという、そんな魚が羨ましい」、早大生だった21歳の牧水は、人妻である園田小枝子に恋をした、しかし5年に及ぶその恋は破綻、その苦しみを歌った歌) 7.10

 

  • 草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ

 (斎藤茂吉『あらたま』、「草づたふ」が重要、茂吉自身の解説によれば、「朝、草のうへに、首の赤い螢が歩いてゐる。夜光る螢とは別様にやはりあわれなものである」、螢の命は短いが、同様に人の命も短い) 7.11

 

  • 睡蓮の花さく水にゐる魚の緋のかげは追憶に似てひらめけり

 (上田三四二『湧井』、1972年の作、「花影」と題した歌群の一つ、「大きな池の睡蓮の下に緋鯉がいるはずなのだが、ちらっと見えたと思ったら、もう見えなくなった、逃げ去る記憶が「ひらめいた」かのように」) 7.12

 

  • 万緑の真中でうつつ見失ふ

 (田頭玲子、柏市、「朝日俳壇」7月12日、高山れおな選、「万緑の圧倒的な力にふと日常を忘れる」と選評、コロナ自粛で家に籠っている人には、外の万緑は、よりいっそう衝撃度が大きいかもしれない) 7.13

 

  • そら豆の莢を割りつつ自粛の日

 (さがたさとこ、東京都練馬区、「東京新聞俳壇」7月12日、石田郷子選、コロナ自粛で家にいる時間が長いと、料理や家事にかける時間も長くなるのか、いつもは特に意識されない「そら豆の莢を割る」作業も、より丹念になって、それと意識される) 7.14

 

  • この空間あなたのものでないですと監視し合へる車内のまなこ

 (藤井啓子、神戸市、「朝日歌壇」7月12日、佐佐木幸綱選、「電車に乗り合わせた者が互いを意識する微妙な空気。コロナ騒ぎではじめて味わった「まなこ体験」」と選評、たしかに電車内で近くにいる人の顔を「見る」ようになった) 7.15

 

  • 夏の観覧車崩れれば冬の観覧車生まれるような万華鏡欲し

 (鍵丘ノア、大津市、「東京新聞歌壇」7月12日、東直子選、「万華鏡の中で偶然できる形に観覧車、それも夏と冬の違いがあるものを見い出そうとする繊細な美的感覚。たった一人の瞳の中の儚さと華やかさ」と選評) 7.16

 

  • 郭公(ほととぎす)いまだ旅なる雲路より宿かれとてぞ植へし卯花

 (式子内親王『前斎院御百首』、「旅の途中で雲の間を飛んでいるホトトギスさん、どこかで休んで宿を取りたいでしょう、我が家にどうぞ、白い花が上から見えるように、卯の花を植えました」) 7.17

 

  • 麻苧(あさを)らを麻笥(をけ)にふさすに績(う)まずとも明日着せさめやいざせ小床(をどこ)に

 (よみ人しらず『万葉集』巻14、「君は本当によく働くね、麻を紡いで箱一杯に積み上げようとしてる、でも明日お召しになるわけじゃないでしょ、もうやめて早くおいでよ、僕が待つこのベッドへ) 7.18

 

  • 今しはとわびにしものを蜘蛛(ささがに)の衣にかかり我をたのむる

 (よみ人しらず『古今集』巻15、「もうこの時間だもの、ダメだわ、貴方は来てくれないのねと諦めたけど、あっ、蜘蛛が一匹私の着物に這い上ってきた、まるで貴方が来るかのように、だからもうちょっと待ってみよう」) 7.19

 

 (橋本多佳子『海燕』、句集の最初に「昭和十年以前」と分類の前書、1926年から俳句を始めた作者1899~1963の初期の句、葛の花が咲いている中をぐんぐん歩いている作者、茎がはじけて露が「とびかかる」ように私に向かってくる) 7.20

 

  • 雲の峰祭の夜をうつくしく

 (飯田龍太『百戸の谿』、「昭和二十年以前」と前書にあり、作者1920~2007の初期の句、まだ宵の口だろう、美しい夕焼けになっている「雲の峰」、その夕焼けが、ふもとの村祭りを一層うつくしいものにしている、今年は各地の祭りは中止か) 7.21

 

  • 妹とゐて俳諧の夏たのしけれ

 (山口誓子1928、誓子1901~94が27歳の時の句、その年10月に結婚したから、「妹」とは婚約中か、俳句は短歌と違って「愛」を詠むのはむずかしいが、誓子にもこういう句がある、しかし何だか説明的で、名句とはいえない) 7.22

 

  • 田舎馬車乘りおくれたる螢かな

 (虚子1903、当時の「田舎」にはまだ馬車が使われていたのだろう、「夜、止まっていた馬車が動き出すと、そこに螢が浮かんでいた、やぁ、螢くん、乘り遅れたのかい」) 7.23

 

  • あかるさや蝸牛かたくかたくねむる

 (中村草田男『長子』1936、「夜が明けて明るくなったよ、ん、そこにカタツムリがいる、でも動かない、まだ「かたくかたくねむって」いるのかな」) 7.24

 

  • 携帯メール打つとき思ふ縦書きに愛をささやく女男(めを)減りをらむ

 (佐藤モニカ『夏の領域』2018、携帯メールで「愛をささやく」とき、たいがいは横書きだろう、だが縦書きメールも可能なのか? それとも、ラブレターを便箋に書いた頃のことなのか) 7.25

 

  • 娘とは腕組むこともなきままに来たこと今に思いいたりぬ

 (竹村公作『歌壇』2018年2月号、娘の結婚式で、娘と腕を組んでバージンロードを歩いている作者、「そういえば、娘と腕を組んで歩いたことって、今までなかったな」と一瞬感慨が、でも、まぁ、父親って普通そういうものでしょう) 7.26

 

  • 玄関でおかあさあんとわれを呼ぶ給食袋を忘れたように

 (中川佐和子『花桃の木だから』2017、作者の娘の結婚式の前後の歌、なにかで娘がちょっと駆け戻ってきて、玄関で「おかあさあん」と大声で呼んだ、小学生のときと同じように。娘の結婚は母にとってはとても寂しい) 7.27

 

  • 奔馬結核により死す」とあり作家の見し夢駆けつづけゐむ

 (栗木京子『南の窓から』2017、樋口一葉は24歳で死去、死因は「奔馬結核」、急激に悪化するタイプの結核を当時そう呼んだらしい、人生最後の14か月を「奔馬」のように創作に駆け抜けた彼女にふさわしい病名) 7.28

 

  • 白芙蓉暁けの明星らんらんと

 (川端茅舎、「明けの明星が「らんらんと」輝いている、夜明けはまだ暗い、だが、その暗さの中に真っ白な白芙蓉の花がはっきりと浮かび上がった」、我が家の近所でも芙蓉が美しく咲いている、芙蓉は秋の季語) 7.29

 

  • 祭笠いただき栄(は)えてわたし守

 (水原秋櫻子『葛飾』1930、「多摩川の夏」と前書、「そうか、今日はこのあたりの祭りなんだ、多摩川渡し船の船頭さんも、きれいな飾りを付けた笠をかぶって、嬉しそうにしているよ」) 7.30

 

  • 冷奴隣に灯(あかり)先んじて

 (石田波郷『風切』、1942年の句、波郷は29歳、新婚直後だと思われる、つつましい暮らしだったのだろう、妻と二人の夕食、「ひややっこ」を食べるのがうれしい、いつもはほぼ一緒に「灯りがつく」隣家より一足早く夕食にしよう) 7.31

[映画] キム・ボラ 『はちどり』

[映画]  キム・ボラ 『はちどり』 渋谷ユーロスペース 7月27日

(写真は↓、主人公ウニと、漢文塾の教師ヨンジ、彼女は14才のウニが初めて心を開き、人と人とが繋がることができることを知った初めての人である、だがヨンジはソンス大橋の崩落であっけなく死ぬ)

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『パラサイト』に比べると、地味で、まったく娯楽性のない映画だが、<友愛philia>という我々にとって困難な試練に取り組んでいる主題性の深さからして、映画史に残る傑作だと思う。原題は『House of Hummingbird』だから、「はちどりの家」、つまり家族を描いている。私は台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を思い出した。どちらも14才の少年少女が主人公で、彼らの愛と友情とその家族が描かれる。少年少女の恋という小世界の抒情詩でありながら、彼らの生の歴史的状況が深く開示される叙事詩的拡がりをもっている。人と人とが心を開いて繋がることは、とても難しいことで、親密圏の核をなす家族においてさえそうなのだ。人はそのことを自分の体験として初めて知るのがたぶん14才ぐらいなのだろう。それは精神分析の観点からしても必然性があり、人が愛の可能性や困難さを知るのは、(1)まず家族において、(2)次に友情において、(3)そして家族外の相手との恋においてである。家父長制の中で父に冷たくされ兄に殴られる少女ウニは、14才のときそれを一度に体験するが、(2)と(3)はまだ分化していない。まず何よりも、愛は困難な試練であり、人の生において愛が完全に成就することはないとしても、それでも人は生きていかねばならない。「はちどり」とは、そのように、もがきながら羽ばたいている少女ウニのことである。彼女はグレてしまいそうになり、万引きをして捕まる。でも『はちどり』には一筋の希望が描かれており、それは、ほとんど奇蹟のようにみえるウニとヨンジの師妹愛である。ヨンジはソウル大学(大学院?)を長い間休学して塾教師をしている30歳過ぎの女性で、本来はエリートのはずだが孤独に生きてきたことが分る。学生運動で挫折したのだろうか。彼女は教師だが、ウニを子供扱いせず、対等な人格として接する。ウニはヨンジに、「先生は、自分が嫌いになったことある?」と尋ねる。ヨンジは長い沈黙のあと、「あるよ、何度も・・」と優しく応える。彼女のその応答(=他者に対する責任responsibility)から、彼女がこれまで繰り返し自己嫌悪と自己否定と戦い、そして現在の自己肯定があることをウニは感じる。ヨンジが漢文の教師として黒板に書いたのは、「相識満天下 知心能幾人(たくさんの顔見知りの中で、心が分るのはどれくらい?)」という問いかけである(写真上↑) 。彼女はウニに、「他者に簡単に同情してはいけない、他者の心はそんなに分るものではないから」、とも言う。ヨンジはウニに、人と人とは互いにどのような応答責任(responsibilityレヴィナス)があるのかを教え、そして自らそれを果たしながら生きている。ヨンジに接することで、ウニは人と人とが心を開いて繋がることを初めて知る。二人の師妹愛は、友愛の高貴な姿を示している。ウニがヨンジと接するのもつかの間のことで、ウニの耳の手術の入院中にヨンジは漢文塾をやめて、少し後にソンス大橋の崩落事故で死ぬ。彼女はウニに愛を贈与して、死んだのだ。魂を救済されたウニは、今後まっすぐに生きていくだろう。そして、彼女もまた誰かに愛を贈与して、死んでいくだろう。愛は、家族愛も友愛も恋愛も、我々にとって困難な試練である。しかし愛は、繰返し引き裂かれ、ボロボロになりながらも、このように他者に贈与され、蘇生し、生き続けてゆく。(写真下は、ソンス大橋で祈るウニと姉と姉の彼氏。そして、友愛、恋愛、家族愛、そして、もがき羽ばたくはちどり)

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『はちどり』は、どちらかというと汚い街や家や室内が映っているのに、映像が非常に美しい。これは、人間という存在が美しいから、彼らが生きる世界も美しいのだ。ロベール・ブレッソンの映画がそうであるように。

 

短い動画。静かな対話ですが、ここがこの映画のクライマックス。

https://eiga.com/movie/92566/video/

[演劇] エンデ『願いがかなうぐつぐつカクテル』

[演劇] エンデ『願いがかなうぐつぐつカクテル』 新国・小劇場 7月21日

(写真下は、ポスターと舞台、左が魔女ティラニア、右が魔術師イルヴィッツァー、舞台では二人とも可愛いキャラになっているが、それがいい)

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M.エンデ『魔法のカクテル』をエンデ自身が戯曲化したものを、小山ゆうな演出で上演。この作品は、小説よりも演劇の方がインパクトが感じられて、日本で上演できて本当に良かった。『魔法のカクテル』は、恩寵としての奇蹟が主題で、教会の鐘の音の中の「たった一つの音譜」が「地獄のカクテル」の呪いを無効化する。その恩寵を引寄せるのは、知恵ある人間ではなくて動物の想像力であり、私は、モーツァルト魔笛』でグロッケンシュピールが鳴って奇蹟が起きるのを思い出した。両方とも奇蹟は「鐘の音」によって生起し、グロッケンシュピールの所有者パパゲーノのキャラは、本作の猫とカラスのキャラと似ているし、魔女たちにも共感できるという点も、似ている。そして『魔法のカクテル』の魔女は資本主義の、魔術師は科学の、それぞれ神話的アレゴリーであり、世界の破滅を救うのはもはや恩寵の奇蹟しかないというのは、いよいよ「近代の終わり」を感じさせる。舞台は、猫が歌う「終わりよければすべてよし」で終幕するけれど、しかし全体の通奏低音は、明らかに終末論的である。(写真↓はカラスと猫、二人とも口が、コロナ対策のプラスチックマスクに)

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『願いがかなうぐつぐつカクテル』は、登場人物6人のキャラ立ちがとても良く、それぞれに個性的で明快で、誰もが共感できる愛おしさがある。思想性の高い作品だが、子供も大人も楽しめるという点では成功している。とはいえ、最後、魔術師と魔女が地獄からの執行吏に「差し押さえられる」シーンは、ゲーテファウスト』の逆バージョンの残酷さがあり(ゲーテでは神はメフィストとの契約を破ってまで、ファウストの魂を救済する)、「差し押さえ」こそ資本主義における「契約」の残酷さの象徴であり、地獄の本質であることまでは、子供には分らないかもしれない。しかし、魔女も魔術師も最初から悪人なのではなく、地獄の悪魔との契約によって「働かせられている」サラリーマンにすぎず、地獄からの執行吏マーデも、アイヒマンのような職務に忠実な官僚にすぎない。彼らは自分の任務や職務を忠実に果たしている/果たそうとしているという点で、悪人ではなく善人なのだが、しかし「悪」はまさにそこから生じてくるというのが、エンデのメッセージなのだ。終幕、奇蹟の力でいったん「よい」人間に戻った魔女と魔術師が、「差し押さえ」を恐れて、再び最後のカクテルを飲んで悪人に戻るシーンが、悲劇としての本作の頂点だろう。自由意志で悪に回帰する彼らに恩寵は及ばない。三人がともに被雇用者であり、システムの被害者であるというキャラが明確であること、そして恩寵をもたらす聖人シルヴェスターが、厳しさを感じさせないボーッとしたおじいちゃんであることなど、すべての人が愛おしい。それはつまり、物語の演劇化、この上演、そして演出が、十二分に成功しているということだ。

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本作は「奇蹟」が主題だが、私はスピノザを思い出した。スピノザは、「聖書に出てくる奇蹟なんて非科学的でナンセンス」としたデカルト派学者に対して、「宗教における狂信は悪いが、奇蹟は別に悪くない、なぜなら奇蹟はすべて<善いこと>をもたらすからだ」と考えた。恩寵としての奇蹟を引寄せるのは、もはや人間の知性ではなく、動物の想像力であるという点は、スピノザとは異なるが、「奇蹟」は<善いこと>なのだということは、子供にもよく伝わったと思う。

 

この上演の映像は見つからなかったのですが、ドイツでの舞台の映像(Wunschpunsch)がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=YPJOxHLzfZU

[演劇] NTライブ シェイクスピア『夏の夜の夢』

[演劇] NTライブ シェイクスピア『夏の夜の夢』 シネ・リーブル池袋 7月18日

(写真↓、平土間を広くして、その中央に小さな可動舞台があり、妖精たちは空中ブランコで接近、舞台を囲む観客は森の木々に見立てられ、全面的に観客が参加する祝祭劇に)

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上演は2019年、ロンドンのブリッジ・シアター。演出はニコラス・ハイトナー、『夏夢』をハチャメチャに楽しい祝祭劇にした。登場人物全員が、ビートの効いたロック風の音楽に合わせて踊りまくる。平土間席の観客たちも一緒に体を動かす。観客は森の木、森全体がお祭で、とにかく楽しい。ただ、観客は若い男女が多く、科白の言葉遊びの部分に反応しないことも多いから、シェイクスピア劇は初心者か。原作に、アドリブの科白や仕草が付け加わっており、全体が3時間10分と通常より長い。でもサーカスのように動きが多彩なので、飽きさせない。物語を少し変えたところが、面白い。原作では、森の妖精たちの王オベロンが王妃ティターニアに薬を掛けてロバと寝させるのだが、それを逆転して、王妃が王に薬を掛けてロバのボトムを抱かせる。だから同性愛になるわけで、他にも妖精パックは、ライサンダーとディミートリアスに原作以上に薬を掛けるので、彼ら二人の男も同性愛っぽくなる(女たちにも掛けた?レズっぽい?)。要するに森の祭典は、異性愛あり同性愛ありで、豊かな性愛の祝祭なのだ。だからそれと対照するために、冒頭のアテネの公爵テセウスとヒュポリテの婚約式が、修道女のように身を固めたお堅いものになっている↓。テセウスとヒュポリテは、森の妖精の王オベロンと王妃ティターニアと同一人物が演じるから、街ではお堅い夫婦、森ではハメをはずして性的に奔放になる、というお話なのだ。ヒュポリテは本当はアマゾンの女王なのに、ガラス箱に閉じ込められた「箱入り娘」になっていてとても可笑しい。(写真↓、左のスーツ姿がテセウス)

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だれもが若々しく、生き生きしているのが、とてもいい。特にパックとティターニア(写真下↓)。そして、ヘレネもハーミアも現代娘っぽくて、かわいい。

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1分弱の動画が、とても美しいです。

http://ntlive.nationaltheatre.org.uk/media/video/ntlout35-a-midsummer-night-s-dream/CK03N-wKOTk

ヘレナとハーミアの喧嘩シーン、若々しくていい。

https://www.youtube.com/watch?v=N-lbk7j9wYU

[演劇] 三好十郎 『殺意 ストリップショウ』

[演劇] 三好十郎『殺意 ストリップショウ』  シアター・トラム   7月14日

(写真は舞台、彼女がストリップの踊りで表現するのは、激しい怒り、そして否定が肯定に変様するカタルシスである)

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4か月ぶり、やっと演劇を生(き)で観賞。鈴木杏の一人芝居、演出は栗山民也。着席は一つおきだが、満席。三好十郎(1902~58)を見るのは初めてだが、凄い作品だ。娯楽性はほとんどなく、難解な思想劇なので、1950年に発表された戯曲は、三好の生前には上演されず、1977年に劇団・民芸関係の卒業公演と、天井桟敷館の自主公演として上演されただけ。今回、初めてメジャーな形で上演された。2時間、途切れなく早口の科白をただただ独白する鈴木杏も凄いが、何と言っても、この難しい作品を舞台に掛けた栗山民也が称えられるべきだ。主題は、戦前から戦後にかけて「転向」「再転向」しながら、何事もなかったかのようにしゃあしゃあと生きているエリート知識人に対する激しい怒りである。ふとした偶然から、左翼の社会学者山田教授のもとに身を寄せることになった主人公の小娘は、日本が日華事変から戦争へと突入する中で、左翼劇場の端役女優から、皇国女子挺身隊員、そして敗戦で、売春婦に転落、その後それなりに売れるストリッパーになる。彼女は、山田教授が左翼から大東亜共栄圏論者に「なめらかに移行する」のに何の疑問も抱かず、教授を信じて付き従った。しかし、やはり教授の言説を信じていた彼女の最愛の兄は病死、教授の弟である彼女の恋人は学徒出陣で戦死。彼女は、なぜこうなったのか自分では分らず混乱するばかりだが、しかし敗戦後数か月で左翼の理論家に再転向して大受けしている山田教授を知って、激しい怒りと殺意を抱く。教授は権威主義的なところがまったくない人で、リベラルで暖かい家庭をもち、美人の妻、かわいい優秀な子供がいる理想の家庭の主でもある。それが戦前も戦後もまったく同じように続いている。彼女が山田教授の家に行くと、友人もたくさん来ていて、まるで戦争などなかったように、穏やかなよい雰囲気に満ちている。どうしてこんなことが可能なのだろうか。教授を激しく憎悪した彼女は、教授を殺そうと付け回すうちに、教授が、廃墟に住む場末の娼婦に通うのを目撃し、部屋を覗く。娼婦の足の裏を舐め、泣きながら、惨めで、醜い、寒々としたセックスをしている教授。彼は場末の娼婦からさえ冷たくあしらわれている。そうか、皆に敬愛されスター理論家である教授は、こんなにも人間として貧しく醜い人だったのか! 彼女は気づく。しかしその醜さを直視するうちに、時流に合わせてとにかく自分が生きることだけを優先するズルさは、教授だけのものではなく、実は彼女自身も含めて多くの日本人が共有していることに気づく。そして、教授に対する「殺意」はスーっと潮を引くように消え、憎しみと自己嫌悪が浄化されて、否定が肯定に変様するカタルシスを経験する。これだけ深みのある内容を一人芝居で表現できるのは凄い。

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今回の舞台を見て、演劇への自分の理解が一つ深まったように思う。プログラムノートによれば、三好十郎は、作品解説でこう書いている。「[この作品は]ほとんどの人から戯曲ではないと言われるかもしれない。[でも]戯曲ではないと言われても私は一向に困らない。戯曲はまず演劇のために在るのではなく、戯曲自身のために在るものだからだ。私の考えによれば、これが戯曲なのである。上演しようと思えばチャンと上演できる。一つの詩劇として、これは書かれた。」これは、戯曲とその上演との関係についての深い洞察だと思う。要するに、戯曲は言語表現として完結しているから、ラカンの言う象徴界であり、作家も作中人物も戯曲の読者も象徴界を生きている。しかし、それを演劇として上演するということは、生身の俳優が発声し、シニフィアンが舞台に溢れ、観客は俳優の肉体を見るわけだから、それは想像界の出来事になっている。戯曲には(ラカンの言う意味での)記号はあるが、(ラカンの言う意味での)シニフィアンはない。一方、舞台には、シニフィアンと俳優の肉体だけがある、つまりラカンのいう「対象a」だけがある。ということは、演出家と俳優は何をやっているのかと言えば、象徴界から想像界への受肉を行っている。プログラムノートにある栗山民也と鈴木杏のコメントも、三好の発言を念頭においた優れたものだと思う。

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