今日のうた(116)

[今日のうた] 12月ぶん

(写真は長谷川櫂、朝日俳壇選者をつとめる)

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  • 冬の日の白堊かがやく灯台を十年(ととせ)へて今日見つる親しさ

 (上田三四二1970『湧井』、三浦半島観音崎にて、灯台というのは独特の趣があるが、それは海という自然の中に人工物が突出しているからだろうか、「十年前」にここに来た作者は「今日、再び見る親しさ」を覚える) 12.1

 

 (上床順子「朝日歌壇」11月29日、「大阪都構想否決。何も変わらずうどんに柚子を。政治社会を詠う時の距離の取り方が絶妙」と、永田和宏選評」) 12.2

 

  • 猫よけのペットボトルを胸のなか仕舞い込むから光ってしまう

 (toron*「東京新聞歌壇」11月29日、「住宅地の中でふいに光って悪目立ちする、あのペットボトル。猫を除けるように何かを拒絶する心理を比喩的に表現したのだろう」と、東直子選評) 12.3

 

 (砂狐「東京新聞俳壇」11月29日、「コロナ禍を救うという神、アマエビの仮装の人が、魔法使いやゾンビの中にいるのが、今年のハロウィーンだ」と、小澤實選評) 12.4

 

  • 我がために太陽回る日向ぼこ

 (森木道典「朝日俳壇」11月29日、高山れおな/長谷川櫂選、「天上天下唯我独尊の恍惚」と、高山選評。たしかにそんな気持ちになることはある) 12.5

 

  • 愛(うつく)しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解(と)くらく思へば

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「貴方は今きっと、私のことを愛しいと思ったのね、だって貴方が「忘れるなよ」と言って結んでくれた下着の紐が、自然にほどけちゃったんだもの」) 12.6

 

  • 君や来(こ)しわれや行きけむおもほへず夢かうつつか寝てか覚めてか

 (よみ人しらず『古今集』巻13、「業平さん、昨晩は貴方が私のところへ来たのかしら、それとも私が貴方のところへ行ったのかしら、分らなくなっちゃった、夢なのかしら現実なのかしら、寝てたのかしら覚めてたのかしら」) 12.7

 

  • つらきをも恨みぬわれに習ふなよ憂き身を知らぬ人もこそあれ

 (小侍従『新古今』巻13、「貴方に捨てられたのに恨まない私って、珍しい女よ、でも女はみんなそうだなんて思わないでね、捨てられた辛い自分を諦めきれず、ただただ貴方を恨む女だっているんだからね」) 12.8

 

  • いかにせん千草の色はむかしにて又さらになき花の一本

 (式子内親王『家集』、「ああ、もうどうしようもないのね、たった一本の花さえもないのね、百花繚乱の花が美しく咲いていたのは、もうずっと前のことなのね」、「又さらになき」は式子のここにしか用例がない強い表現、と註) 12.9

 

  • あらぬ方に冬日の影の逃げてゐし

 (高濱虚子1931、午後2時頃をすぎると、よく経験することだが、ぐっと日が落ちるために、ものの影が、つい先ほどとはまるで違う方向と長さに遠ざかっている、「逃げてゐし」という表現が卓越) 12.10

 

  • 凩の白雲ひとつ光(て)りてゆけり

 (橋本多佳子1936、晴れ渡った快晴の日に、強い木枯らしが吹いているのだろう、青空に浮かぶ「たった一つの白雲」が「光りながら」高速で動いていった) 12.11

 

  • 葱抜くをんな寒の夕焼炉のごとく

 (飯田龍太1949、すっかり日が暮れて周囲はとても暗いのに、寒い畑で女が葱抜きの作業をしている、山並みをなぞる夕焼けが、炉の火のように真っ赤に燃えている) 12.12

 

  • 永く居て薄き冬日にあたたまる

 (中村草田男『長子』1936、おそらく暖房のない室内のガラス窓の近くだろう、「薄い冬日」だが窓辺はかすかに暖かいので、少し「永く居て」しまった、畳の部屋にはまだ炬燵や火鉢くらいしか暖房がなかった時代) 12.13

 

  • 肺に肺を押し付けられて乗り込めば湿原は湿度を増すばかり

 (高山由樹子「灯台を遠く離れて」、『歌壇』2019年2月号、作者1979~は第30回歌壇賞受賞、朝に通勤する東京の地下鉄車内を詠んだもの、「湿原」はどんどん「湿度を増すばかり」、密閉、密集、密接の「三密」なんてもんじゃない) 12.14

 

・ 抜歯して埋めようのない喪失感 歯はたましいの一部ならねど

(杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、たしかに抜歯したあとの、あの「埋めようのない」変な感じは独特のもの、それを「たましいの喪失」みたいと感じたのが面白い) 12.15

 

  • ほぼ四つ七十代のバイトあり介護・外食・警備・清掃

 (今出公志「朝日歌壇」12月13日、馬場あき子・高野公彦選、駅の清掃、工事現場の交通整理、道路工事などは、高齢男性がやっていることが多い、若者はもっとペイのいい仕事に回り、こうした仕事は高齢者に残されているのか) 12.16

 

  • 日常の舟にあなたが乗り込んで、最初は少し傾くけれど

 (加藤ふと「東京新聞歌壇」12月13日、東直子選、「恋人と日常をともにすると最初は違和感や戸惑いを覚える。そのことを舟に人が入ったときの揺れで表現した。「けれど」で止めた余韻がいい」と選評) 12.17

 

  • 夕空の色をほどきて毛糸編む

 (鹿沼湖「東京新聞俳壇」12月13日、石田郷子選、「「夕空の色」でどんな色を連想するだろう。夕焼けの朱色、澄んだ群青色。それらが混じり合った複雑な色合い。壮大な夕空を手元に引き寄せた」と選評) 12.18

 

  • 冬銀河経済回す夜の街

 (多田敬「朝日俳壇」12月13日、長谷川櫂選、冬銀河が大きく広がる星空の下に、「夜の街」のネオンが灯っている、バーや飲食店も含めて、そこで働いている人々は生きていかなければならない、コロナ禍のなか、切ない光景だ) 12.19

 

  • 没日消え冬木の高さのみとなる

 (加藤楸邨『寒雷』1939、かすかに残っていた夕日の明りもスーッと消えて、気が付くと周囲はとても暗い、真っ黒な影絵になった「冬木の高さのみ」となる) 12.20

 

  • 冬の午後十六時は真(しん)の夜のごとき

 (山口誓子1932『黄旗』、東日本は日暮れが早い、曇りの日など、午後4時すぎにはまるで夜のように暗くなる、今日21日は冬至) 12.21

 

  • 霜夜二人子熟睡(うまい)してはや寝息なし

 (森澄雄、1950年頃、著者は30歳少し過ぎか、九州から上京して都立高校で社会を教えるようになったばかり、二人の子はまだとても幼い) 12.22

 

  • 雪嶺よ女ひらりと船に乗る

 (石田波郷『鶴の眼』1939、正面には、日本アルプスのような連峰が真っ白に高く聳えているが、作者のすぐ眼の前には川か湾があって、船が出ようとしている、今、「ひらりと一人の女が船に乗った」、高い雪嶺と「ひらり」が呼応する面白い構図の句) 12.23

 

  • 雪の戸の堅きを押しぬクリスマス

 (水原秋櫻子『葛飾』1930、作者はサンタクロースになった気分で自宅の戸を開けたのだろう、医者である作者はクリスマスの日も仕事、何とか夕食に間に合って帰宅、雪で堅くなった戸を押す、奥では小さな子供たちが待っている) 12.24

 

  • 茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠(とほ)のこがらし

 (斎藤茂吉『つきかげ』、茂吉の最晩年の歌、たまに意識がぼんやりする時があるのだろう、「心の中が茫々としている」のがそれだが、戸外の「遠いこがらし」はむしろ鮮明に聞こえている) 12.25

 

  • 星たちのなかに孤独に移りゐる人工の星ひかりさやかに

 (佐藤佐太郎1960『群丘』、人工衛星は、夜空の星が星座となって止まっている中を、ゆっくりゆっくり動いているのが見える、それを「孤独に移りゐる」と詠んだのが卓越) 12.26

 

  • 濃紺の重きスカートの丈測り硬き屈辱に百人を終ふ

 (米川千嘉子『夏空の櫂』、1986年の作か、作者は20代半ばで女子高校の若い教師だった、生徒管理の一環として制服検査が厳しい(今はどうなのだろう)、教師も生徒も「硬き屈辱」のうちに検査を終えた) 12.27

 

  • 祖母の背と母の背似るをさびしめるわれをうしろから誰か見てをり

 (小島ゆかり『希望』2000、「うしろから誰か見てをり」がいい、作者の娘はたぶん中学生、祖母、母、私、娘の四世代が同じ部屋にいる、たぶん祖母、母、私の三人の背は似ているのだろう) 12.28

 

  • にんげんにこよなく近き歴史にて木にも肌あり力瘤あり

 (今野寿美『世紀末の桃』1988、木を見ていて、ふと、この木は何歳くらいなのだろうかと思った、「にんげんにこよなく近き歴史」なら、作者とあまり年は違わないのか、自分と同じように「肌があり力瘤がある」) 12.29

 

  • 分別(ふんべつ)の底たたきけり年の昏(くれ)

 (芭蕉、「借金返済の時期である年の暮れは、みんな苦労するよね、ない知恵を無理に絞り出すようにして、なんとかやり繰り算段するからさ」、ユーモア句、「底たたく」は「全部を出し尽くす」の意) 12.30

 

  • ふさはしき大年(おほどし)といふ言葉あり

 (高濱虚子、「大年」とは、「大みそか」「大つごもり「大蔵(たいさい)」と同じ意、「大年越し」とは、「まるごと一年の全体が終る」という感じか、この句は「ふさはしき」という表現が卓越、言葉を詠むことによって事柄を詠む、皆さまよいお年をお迎えください) 12.31

[美術展] 第45回・白日会会員選抜展

[美術展] 第45回・白日会会員選抜展 日本橋三越・美術特選画廊 12月25日

(写真↓は、河野桂一郎1966~「My No.6」と、伊勢田理沙1988~「ひだまり」)

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 ホキ美術館で写実の絵に惹かれたので、今日は、やはり「写実の絵」を標榜している美術団体「白日会」の会員展に行った。徹底した写実の絵は、描かれた人も動物も花も、とても美しい。河野の絵は自分の娘だろうか、モデルにされてちょっと緊張している感じの表情がとてもいい。そして、娘に対する父親の愛情が、画面一杯に溢れているように感じる。伊勢田は若い人だが、猫が大好きなのだろう。この絵も、描かれた猫に対する愛情が溢れている。

 あと、いい絵が幾つもあった。小さな画像しかみつからないが、一応貼っておくと、下は岡田高弘1959~の「化身」↓。おそらく同じ「道化」の絵を何枚も描いているのだろう。その下は、今回の会場のものではないが、「アトリエの道化師」(2018) 

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曾剣雄1962~の「スリランカの青年」↓もとてもよかった。この人は中国人で今は日本在住のよう。

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最後に、画像がなかったので貼れないが、山本大貴1982~の「湖畔にて」は、黒白の簡素な少女の絵だが、とてもいい。山本の絵はホキにもあった記憶があるが、少女がとても美しい(写真下↓は、「Reminiscence」=追憶)。山本だけでなく、ホキや白日会の写実の人物画には、フェルメールの影響が感じられる。

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[美術展] ホキ美術館ベストコレクション展

[美術展] ホキ美術館ベストコレクション展 千葉・ホキ美術館 12月21日

(写真↓は、渡抜亮「照らされた影」2010)

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 キケロは「人間にとって人間以上に美しく見えるものはない」(『神々の本性について』)と言った。ホキ美術館の絵を見るのは今年の6月以来、これが三度目だが、すばらしい風景画、静物画がたくさんある中で、私はどうしても人物画に惹かれる。今回の展示で初めて見た絵の中から、心惹かれた絵を何枚か挙げてみたい。渡抜亮1981~はドイツでファン・エイクの祭壇画を研究模写してきた人らしいが(「照らされた影」という絵の題名は、ヘーゲルの著作から採ったという)、彼の描く少女は、映画女優やファッションモデルのような美しさではなく、それが存在するだけでもうすでに十分に美しい、そういう美しさだと思う。ということは、現実に存在するすべての少女が、渡抜亮のような視線によって発見されるならば、誰もがこのように美しい表情を持ちうるはずだ。アリストテレスは、芸術の本質は「再現(ミメーシス)」であり、現実に存在する人間を、歴史学は現実態として再現するが、芸術は、「必然性のある可能態として」再現するのだと言う(『詩学』)。写真が、どちらかというと現実を現実態として再現するのに対して、絵画は、現実を「必然性のある可能態」として再現するのだと思う。(下も↓今回見た渡抜亮の絵)

f:id:charis:20201222021303j:plain絵画の窓

f:id:charis:20140518183753j:plainスペキエース

 下に貼った↓、最新の作である、三重野慶「僕が見ているあなたをあなたは見れない」(2020)、藤田貴也「台の上に立つ人物」(2020)も、惹かれるものがある。三重野の描く女性は、目がすばらしいというか、絵を見る者の心の底まで届くような視線で、こちらを見ている。藤田の描く女性は、体全体が作り出す体勢の美しさ、身体がたまたま今そのような仕方で空間を占めることによって可能になる、体の表情の美しさが感じられる。

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f:id:charis:20201222021625j:plain藤田

 下は↓、若手ではなく大家のもので、野田弘志「掌を組む」(1998)。上に挙げた絵と違って、身体の衣服との調和、すなわちファッションモデル的な美しさを描いているように思われる。

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[演劇] ニコラス・ライト 『ミセス・クライン』

[演劇] ニコラス・ライト『ミセス・クライン』 シアター風姿花伝 12月19日

(舞台↓は、左からポーラ、メラニー・クライン(那須佐代子)、メリッタ、3人とも実在の女性、その下の写真は、メラニー・クラインと娘のメリッタ、息子のハンス)

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1934年のロンドン、ドイツから逃げてきた三人の精神分析家のユダヤ人女性が、たまたまメラニーの家で会い、メラニーの息子のハンスの死をめぐって激しく葛藤する。34歳のポーラはポーランド出身の優秀な精神分析家で、メラニーの信奉者。メラニーは彼女を自分の助手にしようとしている。娘のメリッタは、「ドクター・シュミットバーク[夫の姓]」と呼ばれているように博士号を持っているが、メラニーは博士号をもっていないので「ミセス・クライン」と呼ばれている。ハンスの死で動揺しているメラニー(母だから)のところにやってくるハンスの姉メリッタは、彼の死は自殺と考えている。もし自殺であれば、まめに手紙をやり取りしているメラニーとしては、それに気が付かなかっただけでも精神分析家として大失態になる。メリッタは、母は自分たち姉弟精神分析の観察材料として徹底的に利用しただけで、自分たちは母にぜんぜん愛されていなかったと思っているので、ハンスの死は、この母娘の愛/憎が一気に爆発するきっかけになる。実際は、ハンスは事故死だったから、それが劇の最後に分るという部分は、二人の葛藤を大きく前景化するための、劇作家のフィクションだろう。(写真下は、メラニーのいない隙に、ハンスの死を自殺と告げたメリッタの手紙を探し出そうとするポーラとメリッタ、この手紙をメラニーはまだ開封していないので、メリッタは彼女に読ませまいと、自分が出した手紙を探しているのだ)

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メラニーの部屋で偶然三人が会うのは、劇作家のフィクションであろうが、三人は精神分析家なので、人間としての普通の会話(非常に激しいそれだが)の中に、互いに相手の精神分析をする過程がごちゃまぜに入り込んでいるというのが、本作の醍醐味だろう。そこが一番面白かった。実在のメラニーは自分が何度も深刻な鬱状態を経験している人だが、ハンスの死によってまた鬱状態がぶり返そうとしている。だから、この場面では、メラニー自身がメンタル的にかなりおかしい。本人が非常にハイになっており、ものすごく高圧的で、機関銃のように一方的に喋りまくる。しばしば相手の発言をさえぎるだけでなく、精神分析な問いを投げたかと思うと、相手が何か言う前に、瞬時に自分で「正解」を言ってしまう。精神分析家が分析を行うときは、こういう語り方はありえないわけで、メラニー自身が機関銃のように喋りまくるのは、彼女自身がバリアーを作って自分を閉ざそうしており、それ自体が防御機制になっているのだ。娘メリッタの方も、ハンスの死をきっかけに、母への憎しみが一挙に爆発したので、母とうまく対話することがもはやできない。母が一方的にまくしたてるのをじーっと聞いていると思うと、突然立ち上がって、激しく叫んで母を罵倒する。メリッタも精神分析家だから、母に対して精神分析的な探りを入れようとするのだが、それがぜんぜんできなくなっているのだ。ポーラは、メラニーの心酔者ではあるが、今は一応、二人からメンタル的に距離を取れるので、二人を冷静に見守っている。しかし最後、ハンスは自殺ではなさそうだとメラニーにわからせようとするのに、メラニーがよく理解できない場面で、ポーラも立ち上がって「あんた馬鹿よ!」とメラニーを激しく罵倒する。要するに、精神分析家も、ここまで愛/憎の激しい自分の問題となると、精神分析的対話ができなくなってしまうのだ。この劇はそれを示したかったのだと思う。だから終幕、ハンスの死を受け入れ、メンタル的に和解できたメラニーが冷静な自分にもどり、ポーラをカウチに座らせて本来の精神分析を行うシーンは非常に感動的だ。ポーラは、もともと自分がメラニー精神分析を受けたいので、メラニーに近づいてきた人なのだ。メラニーも本来の冷静な分析家に戻り、ポーラと静かな対話をするなか、シューベルト弦楽四重奏が流れ、幕となる。劇中に、メラニーがコンサートに行ってきたという発言があるから、実在のメラニーシューベルトが好きだったのだろう。この舞台で、タクシーが迎えに来たり来客のベルが鳴ったときに、メラニーが言った「外の世界を待たせておく」という言葉は、メラニー・クラインが精神分析の本質として述べた言葉らしいが、非常に含蓄が深い。他者に対して自分を開かざるを得ない人間の「自我」は、外界の嵐によって傷つきやすい脆弱なものであるから、「外の世界をしばらく待たせて」、自我を守るのが精神分析の使命だ、ということだろうか。今回は娘とうまく対話できなかったけれど、要所要所で本質的なことを言うメラニーが優れた精神分析家であることは、劇のはしばしから読み取れる↓。(その下の写真は、1908年ごろ)

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[演劇] ソン・ギウン(チェホフ)『外地の三人姉妹』

[演劇] ソン・ギウン(チェホフ)『外地の三人姉妹』 横浜KAAT 12月16日

(写真は舞台、アンドレイと結婚するナターシャは一家の中で「浮いている」)

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チェホフ『三人姉妹』を韓国のソン・ギウンが翻案、演出は多田淳之介。1936~43年の日本の植民地、朝鮮の羅南が舞台。ウラジオストックに近く、日本の作った軍事都市。日本軍、軍属、その家族など日本人がたくさん居住。日本人の三人姉妹は、昨年亡くなった高位軍人の父の高級住宅に住む。若い将校が家に出入りするのは原作と同じ。原作の時空を移動し、登場人物の一部の出自を少し変えたが、内容はほぼ原作通り。意欲的な二次創作として評価できる。『三人姉妹』は、開幕から終幕までどのシーンも胸が痛むが、それは誰もが、もがくように生きているからだ。皆もがくように生きているのに、誰も幸福になることはできない。これがチェホフ劇4作に共通するテーマなのだが、『三人姉妹』はあらためてチェホフの(そして現代演劇の)最高傑作だと思う。なによりもその人物造形が深い。誰もが後ろ向きにしか生きられなくなっており、その理由は一人一人違うが、その違いがとても丁寧に描かれている。しかし、抗しがたい強い逆風の中にあって、何とか前を向いて生きようとするのが、三人姉妹や『かもめ』のニーナである。我々には、これだけの逆風の中を、一歩くらい前向きに歩いても、ほとんど意味がないようにも思われる。しかし、それでも彼女たちは、もがき苦しみながら、前向きに歩こうとする。そして、たぶんそう遠くまでは歩けないだろうという予感のもとに、我々は彼女たちを見送らざるをえないのが悲しい。

 本作は原作を、植民地支配と戦争というコンテクストに置いたために、一部の登場人物が背負っている過去と現在が複雑で分かりにくくなった。たとえば兄アンドレイと結婚するナターシャは、朝鮮人有力者の娘であり、彼女が一家の中で「浮いた存在」であるのは原作と同じだが、そこに日本人対朝鮮人、そして日本の植民地支配に協力する朝鮮人とそうでない朝鮮人という、複雑なコンテクストが生じる。またイリーナの婚約者で決闘で殺される男爵トゥーゼンバフは、朝鮮人と日本人のハーフで、支配者である日本の特権階級でありながら、朝鮮人労働者に好意的なヒューマニストという複雑なキャラクターになっている。決闘で彼を殺すロシア軍将校ソリョーヌイは、狂信的な日本主義者の軍人になっているので、また新しい要素が加わった。植民地支配も戦争も、人々が幸福に生きることを妨げる大きな要因だから、コンテクストに加えてもよいが、しかしただでさえ難解な『三人姉妹』を、さらに複雑にしてしまったことも否めない。たとえば、ナターシャが老女中アンフィーサをいじめるのは重要なシーンだが、朝鮮人が日本人をいじめていることになる。最後、原作と違って、立ち尽くす三人姉妹ではなく、トゥーゼンバフを含む4人の朝鮮人で幕を下ろすのは、三人姉妹は東京へ帰るという予感を表現しているのだろうか、よく分らなかった。(写真↓は、左からアンドレイ、イリーナ、ソリョーヌイ、ベルシーニン、オーリガ、マーシャ)

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人間らしく生きることが、こんなに困難になってしまった世界。しかし終幕、原作でオーリガは、二人の妹を抱きしめながら、言う。「ああ、可愛い妹たち、私たちの生活はまだおしまいじゃないわ、生きていきましょう! さあ、生きていかなくては」。そう、私たちがお金と時間を使って、わざわざ劇場までチェホフを見に行くのは、この言葉を聞きたいからだ。だが、本作は、この言葉がやや違っている。(写真は、左からオーリガ、マーシャ、イリーナ)

f:id:charis:20201217095158j:plain前を向いて歩きたいのだが、どちらが前なのかが分らない。(イリーナ)「ねえ、どっちが前なの、私には分からない」、(オーリガ)「私たちが一緒に向いている方向が、前じゃないかしら」

 本作のオーリガを演じたのは伊東沙保。たしか木ノ下歌舞伎の『心中天網島』の「おさん」を演じた人。オーリガは、女として/人間として、何と美しいのだろう! 『三人姉妹』は過去にたくさん見たが、オーリガは今回が最高。それから今回気が付いたことだが、チェホフ劇にはなぜ魅力的な男性が一人もいないのだろうか。アンドレイといい、クルイギンといい、本当にどうしようもなくダメな男ばかりだ。時代が人間をダメにしてしまい、それはまず男にあらわれるとチェホフは考えたのだろうか。近松と同じで、男がぜんぶダメなのがチェホフだ。女は、三人姉妹もニーナも、それぞれまったくキャラが違うが、それぞれが限りなく個性的で魅力的だ。それに対して、男たちのダメさは、ある程度類型化できるダメさでもある。こうしたジェンダーの視点からも、これからチェホフを見続けていきたい。

  チェホフ劇の登場人物たちの多くは、自分の悩みや不満を語るのは熱心だが、人がそれを語るのはちゃんと聞いていないし、共感も同情もしない。自分勝手な人たちなのだが、しかし我々自身も、程度はともかく、そうなのではないだろうか。自分が苦しい時には自分のことで精一杯で、他者にやさしくなれない。電信局で働いて疲れ果てたイリーナも、他者に冷たいことを言う。でも、オーリガは違う。彼女は、自分が辛い時でも他者に優しい。たまたま今回、オーリガと、前に見た『天網島』のおさんとが、ともに伊東沙保だったので、二人が私の中で繋がった。おさんも、夫に愛人ができたという極限の辛さの中で、愛人を死から救おうとする。私たちの多くは、自分が辛い時は、他者にやさしくなれない。なぜなのだ、どうしてなのだ。これも、チェホフ劇が我々に問いかけている先鋭な問いです。前向きに生きる、といっても、それが人間らしく生きることであるならば、その「生きる」は「他者との関係性を生きる」ことでなければならない。幸福とは、他者との関係性を生きることのうちに存在する。これがチェホフ劇の本当の主題だと思います。

  PS :ツイッターの感想に、「最後の演出、私は三人姉妹の物語をメタ化し地面に埋めてしまっているように思えた」というのがあった。その可否はともかく、私もやはり幕切れ直前のあの演出が気になる。立ち尽くす三人姉妹ではなく、汚れてしまった韓国国旗?の周囲を回る四人の朝鮮人で劇を終えたのは、何を意味しているのだろう。劇の細部に、日本と朝鮮の対立というコンテクストが張られているのは私にも理解できたし、それは正当なことだが、最後はやはり、呆然と立ち尽くしながらも、涙を必死にこらえて励まし合う三人姉妹で終わらなければならないと思うので、あの演出は余計だったと感じる。