[演劇] 平田オリザ 『眠れない夜なんてない』

[演劇] 平田オリザ 『眠れない夜なんてない』 吉祥寺シアター 2月1日

(写真↓はポスター、劇の本質をよく象徴している。昔のうらぶれた銭湯のようなところの靴箱だろうか、でもよく見るとパスポートと札束があり、ごく普通の人の人生にも、それぞれ違った過去があり(個々の箱は記憶の在り処)、それを深く身体に内面化して現在を生きていることを示している、そしてラカン的に言えば、この靴箱は、「無意識のうちにランガージュ化され構造化された自我であり、他者のシニフィアンによって解凍されるのをまっている」姿、ということになる)

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いかにも平田オリザらしい傑作。アリストテレス「三一致の法則」を守り、一幕一場、場所はマレーシアにある日本人退職者居住用のリゾート施設のラウンジ。客席の110分の時間の流れが、舞台にも同じ110分間の出来事として生起する。いろんな人がラウンジに来て、ちょっとした会話をして、それぞれ去ってゆく。それだけ。でも、どうってことのない普通の人の一人一人の身体には、何と多様で個性的でそれぞれに重い過去の時間が内面化されていることだろう。そして、「今ここ」にいる彼/彼女が、ポツリと語る言葉からそれが分るのだ。一人の人間の人生には、喜びと悲しみが一杯に詰まっている。彼/彼女がそのように生きているという、ただそれだけのことが、なぜこんなに愛おしく感じられるのだろう。演劇は、私たちが、「今ここ」の時空を生身の俳優たちと共有することによって、人間が生きることの愛おしさの感情をともに分かち合い、共感するためにある。アリストテレスの言う、「生の再現(ミメーシス)」、しかも「必然性のある可能態としての再現」、これが演劇だ(『詩学』)。そして、さらに付け加えるならば、わたしたちはそのような劇場という時空の場を共有することによって、癒される。そう、演劇において私たちは、カウンセリングや精神分析のように、一人一人が自分の心と向き合って癒されるのだ。通常これは、悲劇における「カタルシス」として説明されてきたが、しかし別に悲劇ではなくても、たとえばチェホフや平田オリザのような、かすかな喜劇、静かな喜劇においても、同様な心の癒しが起きている。私たちはこうした共感によって、互いに癒し合うことができるから、夜もやすらかに眠ることができる。「眠れない夜なんてない」とは、そういう意味だろう。そして本作では、各人が自分が見た「夢」のことをたくさん話す。まさに、精神分析そのものなのだ。

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今回、平田オリザの演劇は小津の映画によく似ていることに気づいた。上の写真の左端は、マレーシアに移住した60歳の日本人の元サラリーマン(山内健司)。その右は父を尋ねて日本から来た娘。父は娘に結婚しろと勧めるが、娘は結婚を嫌がり「お父さんのそばに一緒にいたい」という。父は、どういうわけか日本に帰りたくない。その理由は本人にもよく分からないのだが、おそらく戦争体験と関係がある。「今」は1988年の暮れ、昭和天皇重態のため日本ではコロナ禍と同様、「自粛」が強制されている。だから、マレーシアにいても、過去の戦争の心の傷がかすかにうずく。写真↑中央の黄色いシャツの男は70歳くらいの元サラリーマン。そして、その妻と、やはり日本から尋ねてきた二人の娘。彼も癌かなにかの病気なのだが、日本に帰りたがらない。二人の男は、静かに談笑するだけだが、突然、感情を乱して軍歌を歌ったりする。私は『秋刀魚の味』を思い出した。そういえば、平田の劇も小津と同じくすべて家族劇・茶の間劇で、科白も、小津の「えぇ・・、まぁ・・」「そうでもないですよ」「そうなのかな・・・」「そうですよ、おとうさん・・」といったボキャ貧の会話とよく似ている。そのボキャ貧のさりげない会話の中に、その人の人生のもっとも本質的な部分が、そう、彼/彼女の現存在そのものが、喜びや悲しみの感情を伴って、スッと現れる。 

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人間というものは、ただ生きているだけで、何と愛おしいのだろう。人間の自我というものは、ラカンによれば、無意識のうちにランガージュ化されて構造化されており、それが他者のシニフィアンに触発されることによってのみ、「心」として現実化される。それが「人間が生きる」ということなのだ。平田や小津の作品は、それを見事に「再現」している。そして今回あらためて、山内健司松田弘子がすばらしい役者であることに感嘆した。人間は、こんな状況で、他者のこんなシニフィアンに触発されれば、こんな感情が生起し、こんなシニフィアンを他者に返す。それを「必然性のある可能態」として「再現」できるのが、すぐれた役者なのだ。文学がエクリチュールシニフィアンによって「再現」するのに対して、演劇はそれに加えて役者の生身の身体「対象a」(ラカン)が存在するだけ、より豊かな「再現」が可能になるわけだ。(写真↓、右端が松田弘子)

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[演劇] エンダ・ウォルシュ 『アーリントン』

[演劇] エンダ・ウォルシュ 『アーリントン』 KAAT  1月30日

(写真↓はポスター、部屋に散乱している服は、アウシュビッツ収容所でガス室に送られた人々が最後に脱ぎ捨てた衣服の隠喩だろう、人類の文明が滅び、二人の男女は人類の最後に生き残った二人だと、私は想像した)

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 部屋に一人の人間が存在しているという具体的事実があるだけで、状況が非常に抽象化されているので、一体何が起きているのかは、観客がそれぞれ自分の想像力で物語を作らなければならない。その意味ではカフカ的な寓話の世界だ。しかも110分間の舞台の最後の5分間で状況が全部逆転し、絶望から希望へ、死から生へと転換するので、私はベケット『しあわせな日々』を思い出した。そして終幕は、チャペック『ロボット』によく似ていると感じた。最後に生き残った二人がロボットではなく人間である点が違うが、二人の新しいアダムとイヴ、そして二人の愛によって、滅亡が必然だった人類に、新しい歴史が始まる希望が垣間見える。人類はたった二人になってしまったけれど、二人に愛がある限り、希望がある(写真下↓は終幕)。

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私が舞台から想像し創作した物語によれば、人類の文明は行きつくところまで行き、人々は大都市の高層ビルに生活しており、超管理社会になっている。一人一人が個室に住んでいるが、疎外が究極にまで達した一人一人の人生は、精神的な拷問を受けているような日々であり、ガス室の処刑を待つ待合室にいるようなもので、一人一人の囚人番号が壁に提示されると、人々はガス室に赴くが、それを待てずに、高層ビルの窓から飛び降りて自殺する人も多い。人生にはたくさんの選択肢があるかのように、みな思い込んでいるという点で、新自由主義も究極に達している。高層ビルの窓から「木の葉のように落ちていく」人々の姿は、新自由主義の最先端・マンハッタン貿易センタービルですでに現実のものとなった。『アーリントン』もまた、戦士たちの墓地の名前であり、現実の世界に存在する。21世紀の今日、「この世の終わり」はすでに始まっているのだ。物語の最初に、この部屋にいるのは一人の少女アイーラ。彼女の家族はすべてばらばらになり、一人暮らしの彼女は、閉じ込められた部屋で空想と妄想に生きている。等身大の人形を抱きしめて、架空の恋人を妄想する彼女は痛ましい。そして、その人形は、抱きしめているうちに、手がもげ、首がもげ、ばらばらになってしまう。しかし、彼女を監視している青年(写真↓左)が、彼女に愛を感じることによって奇蹟が生じる。ついに壁に囚人番号が表示され、彼女は服を脱ぎ下着姿で部屋を出て、別の高層ビルに移ってゆく。しかし青年は彼女をこっそり追跡し、彼女を救うために、都市から拉致して森へ連れてゆく(もちろん、その場面は一切なく、観客が想像するしかない)。

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アイーラがいなくなったあと、別の少女がこの部屋に引っ越してくる↓。彼女に名前はない。人類のone of themだから、匿名なのだろう。しかし人間の疎外は、アイーラの時より一段と進んでおり、彼女はもはや自分の生きている拷問の生を言葉で表現することはない。ロック調の音楽に合わせて、狂ったように踊るだけ。そしてアイーラのように処刑を待つことなく、窓から飛び降りて自殺してしまう。

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最後、監視人だった青年がこの部屋に住むことになり、彼もまた精神的拷問を受けるような生が続く。やはり人間の疎外は一段と進んでおり、彼は、処刑の時刻が迫るなかで、前の人々が脱ぎ捨てた服のどれかに何度も何度も着替えようとするが、どの服も彼に合わず、着替えが終らないうちにカウントダウンは終り、天井が爆発する。監視人である彼の死は、もはや彼個人の死ではなく「人類の終わり」かもしれない。だが、奇蹟がおこって、彼は助かる。そして、破壊された部屋に戻ってきたアイーラとの新しい生が始まる(写真下↓)。舞台に登場する生身の人物三人のうち、アイーラだけが名前を持っているのは、新たな人類の歴史はアダムではなく新しいイヴから始まるということだろう。以上は、私が舞台から想像し創作した物語だが、それは劇作家エンダ・ウォルシュの意図とは違うかもしれない。しかし、デリダが「引用」概念によって示したように、言語の「意味」を立ち上げるのは、語り手の意図のみではなく、語り手と聞き手の双方が作るコンテクストが「意味」を立ち上げる。だから演劇の観客は、舞台に参与観察している当事者として、自由に「意味」を立ち上げてよいのだ。

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今日のうた(117)

[今日のうた] 1月ぶん

(写真は高柳重信1923~83、多行書きの俳句を提唱し、金子兜太とともに戦後の前衛俳句の指導的な一人) 

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  • 雪けつて屋根うつりせり初鴉

 (森婆羅1877~1970、作者は高知県俳人ホトトギス派、「初鴉」とは、「元旦に鳴き声を聞いたり、姿を見るカラス」のこと、「初日の出」「初空」なら分るが、「初鴉」とは面白い言葉、カラスって、そんなにめでたい鳥だったか) 1.2

 

  • 年玉(としだま)や抱ありく子に小人形

 (黒柳召波1727~72、「お年玉」という習慣は江戸時代にはもうあったのだ、「親に抱かれて外出した小さな子供が、もらったお年玉の小さな人形を握っている」、正月特有の微笑ましい光景だ、私も小さな孫娘二人にお年玉をあげました) 1.3

 

  • 新暦(にひごよみ)もつとも白く懸(かか)りけり

 (笹谷羊多樓、「新暦」とは「初暦(はつごよみ)」のこと、新年に初めて掛けるカレンダー、まだ外出予定がまったく記入されていない白紙状態なのか、今年はコロナ禍のせいで、これに近い初暦の人もいるだろう) 1.4

 

  • 冬の蜘蛛眉間をはしり失せにける

 (加藤楸邨『寒雷』1939、おそらく作者は朝、蒲団の中だろう、額のあたりから眉間をカサッと蜘蛛が動いたのを感じて、目を開けたが、蜘蛛はもう「はしり去って」逃げてしまっていた、寒々とした冬の朝) 1.5

 

  • 面(おも)忘れいかなる人のするものぞ我れはしかねつ継(つ)ぎてし思へば

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「貴方は来てくれないけど、まさか私の顔を忘れたんじゃないわよね、私は貴方の顔を忘れるどころか、いつもいつも思い浮かべているのに、ひどいじゃない」) 1.6

 

  • 色もなき心を人に染めしよりうつろはむとは思ほへなくに

 (紀貫之古今集』巻14、「私の純粋無垢な心は、貴女という美しい色ですっかり染め上げられてしまいました、その美しい色がさめるかのように、私が心変わりするなんて、どうしてありえましょう」、貫之らしい美意識の歌) 1.7

 

  • うちとけて寝ぬものゆゑに夢を見てもの思ひまさる頃にもあるかな

 (小野篁『新古今』巻15、「貴女は共寝させてくれない代りに、ちょっとだけ逢ってくれた、僕は今、もうどうしようもなく貴女を愛しているのにさ」、「夢を見て」は「ちょっと逢う」の比喩、実際に作者が恋人に送った歌といわれる) 1.8

 

  • さびしさは宿のならひを木葉(このは)敷く霜の上にも眺めつるかな

 (式子内親王『家集』、「独り暮らしの私は、さびしさには慣れているわ、でもやっぱり、庭に散り敷いている木の葉の上の霜をしみじみと眺めていると、さびしさがつのってしまう、誰も歩いた跡がないのだから」) 1.9

 

  • 皆出(い)でて橋を戴(いただ)く霜路(しもぢ)かな

 (芭蕉1698、「新大橋ができたよ、都心が近くなってありがたいな、皆で一斉に繰り出し、手を合わせて感謝しながら、まだ足跡のない霜を踏みしめながら一緒に橋を渡る」、深川の芭蕉庵の近くから隅田川を渡る新しい橋の、渡り初めの時の句) 1.10

 

  • 嫁入りの徒(かち)で吹かるる霰(あられ)かな

 (向井去来、「真っ白な霰がはげしく吹き付ける中、嫁入りの行列がゆっくりと歩いている、車も使わないで徒歩なんだね、おめでとう、どうかお幸せにね」) 1.11

 

  • 雪ふるか燈(ともしび)うごく夜の宿

 (野沢凡兆、「冬の夜、外の見えない室内に一人で座っていると、本当に静かで物音一つしない、灯火の炎のかすかな揺らぎが少し増したようだ、外に雪が降り出したからだろうか」、凡兆らしい研ぎ澄まされた感覚の句) 1.12

 

 (一茶1807、「柏原に入る」と前書、45歳の一茶は久しぶりに故郷の信州・柏原に帰郷した、雪の日だからか故郷の人たちは「ぶあしらひ」、つまり、ろくに歓迎してくれない、いや天気のせいではなく帰郷そのものが歓迎されていないのだ) 1.13

 

  • 一しきり矢種(やだね)の尽(つく)るあられ哉

 (蕪村、雨や雪とちがって、霰は、バラバラっと短時間、集中的に降って、すぐ止むことが多い、止んだ後は何事もなかったかのように静かになる、それを「矢種が尽きたのね」とユーモラスに詠んだ) 1.14

 

  • 十方に降る雪野ゆけ少年の日のよろこびのよみがへるまで

 (上田三四二1971『湧井』、久しぶりに本格的に雪が降り、作者の住む東京の清瀬あたりには「雪野」ができた、「雪野を行け」と自分に言い聞かせている、でも癌を病む作者は「少年の日に」歩いたようには速く歩けないのか)  1.15

 

  • 雪ふぶく丘の篁(たかむら)するどくも方靡(かたなび)きつつゆふぐれむとす

 (斎藤茂吉『小園』、終戦直後の歌で、疎開先か、丘の大きな竹藪が強風をともなう強い吹雪で、「するどく一方の側に靡いた形のまま、夕暮れが迫っている」、猛吹雪を「するどく方靡く」竹藪の形で表現した) 1.16

 

  • おもむろに葦(あし)の根ひとつ移りゆく遠近のなき水の明るさ

 (佐藤佐太郎1970『開冬』、作者は利根川のほとりにいる、川べりの水溜りになったところは水の動きがとても遅い、それでも澄んだ水が、水中の「葦の根ひとつ移りゆく」のが見える、広大な河原の至近距離の情景をアップ) 1.17

 

  • 「三十年経ったら楽になるのかな?」「どうかな、お酒次はどうする?」

 (遠藤紘史「東京新聞歌壇」1月17日、東直子選、夫と妻だろうか、友人同士か、小さな飲み屋で客と主人なのか、三十年経ってもたぶん楽にはならないだろう、それを分かっているから、このように答えるしかない) 1.18

 

  • 誰か住み夕餉の仕度する頃か君と暮した坂の上の家

 (杉野順子「朝日歌壇」1月17日、佐佐木幸綱永田和宏共選、昔「君」と暮した「坂の上の家」を見上げながら、「君」のことを想う作者、「君」は今ここにいないだけでなく、もうこの世にいないのかもしれない、切ない恋の歌なのか) 1.19

 

  • 初夢のそのつゞきこそ見たかりし

 (辻美彌子「朝日俳壇」稲畑汀子選の2020年度朝日俳壇賞の句、「良い夢だったに違いない。続が見たいという気持ちがうまく描けた」と選者評、でもその良い夢は途中で終わってしまった) 1.20

 

  • 着ぶくれておばさんというカテゴリー

 (戸田鮎子「東京新聞俳壇」1月17日、小澤實選、作者は若い女性なのであろう、「着ぶくれて」しまったので、自分が「おばさん」に見えるのではと感じている、「カテゴリー」という語の使い方が卓越) 1.21

 

  • 魔物たちも少しまじっている冬の色分けされた通路を進む

 (東直子東京新聞歌壇」1月17日、選者の歌、「魔物たち」というのはコロナウィルスか、ソーシャルディスタンスを取るために、通路が色分けされ、そこに並びながらゆっくり「進んで」ゆく、「魔物たちも少しまじっている」がいい) 1.22

 

  • 一枚の名刺や冬の濁流越え

 (寺山修司『わが金枝篇』1973、山口誓子「冬新聞全紙浸り浮く」を思い出させる句だが、小さな「一枚の名刺」が「濁流を越えて」流されているなら、そこに激しい上下の動きを感じさせる) 1.23

 

  • 冬森を管楽器ゆく蕩児のごと

 (金子兜太1959頃、冬の森の中を、管楽器を吹きながらゆっくり歩いている男がいる、一人でオケの練習をしているのか、それとも歩きながら吹くのが好きなのか、「蕩児」のように見えるというのがいい、作者が日銀長崎支店勤務のころの句) 1.24

 

  • をとめらはをとめの色のマスクかな

 (高柳重信、コロナの光景ではない、1943年前後、作者が二十歳ごろの作、戦時中だが、若い女性たちは美しい色のおしゃれなマスクを手作りしていたことが分る) 1.25

 

  • じゃないのがいるね今年も神様が責めない口調で舞を受け取る

 (志方由佳・女・45歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「童貞または処女」、作者は若い女性とともに巫女として舞を舞ったのだろう、「神様という視点が面白い。巫女は処女に限るというルールが前提になっているのでしょう。「じゃないのがいるね」という口調もいいですね」と穂村弘評) 1.26

 

  • 十五の春三十の私に宛て書いた手紙を破く二十歳の私

 (マチコ・女・36歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「手紙」、「意外な結末。三人の登場人物がすべて「私」というのが、なんとも面白い。時間が経つと別人になってゆくんだ」と穂村弘評) 1.27

 

  • 父親を威嚇するには生理用ナプキン視界に入れるのがよい

 (よしむら・女・17歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「夏休み」、「なるほど、母親には効果がなくても父親には効果がありそう。見せるとか突きつけるではなく「視界に入れる」という言葉の選び方がいい」と穂村弘評、でも、なぜ夏休みに父親を威嚇するの?) 1.28

 

  • コロナ禍が程よく上司をディスタンス

 (サラリーマン川柳第一生命保険発表、2021年1月、「ディスタンス」という語は奥行きが深いですね) 1.29

 

  • 我が部署は次世代おらず5爺(ファイブ爺)

 (サラリーマン川柳第一生命保険発表、2021年1月、「5爺」=「5G(=第5世代移動通信システム)が卓越) 1.30

 

  • テレワークいつもと違う父を知る

 (サラリーマン川柳第一生命保険発表、2021年1月、子どもは職場でのお父さんを知らない、テレワークで知って少し尊敬するようになったのかな、それとも)  1.31

今日の絵(1) 1月ぶん

[今日の絵1] 1月ぶん

ほぼ毎日、FBとツイッターに投稿している「今日の絵」をまとめて、適宜ブログに貼ることにします。

 私は、10年前から、「今日のうた」で自分のアンソロジーを作ってきましたが、好きな「絵」のアンソロジーもほしくなったので。1月ぶんは10点を貼ります。

 

・Paul Cezanne : The Artist's Mother, 1867

徴兵を忌避したCezanneを探しにきた憲兵隊をごまかすために、母はこっそり隠れ家を用意して彼をかくまった。

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Pierre-Auguste Renoir : A Needlewoman 1876

ルノワールフェルメールの「レースを編む女」が大好きで、自分も「編み物をする女」を幾つも描いている

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Edouard Manet : Portrait of Faure as Hamlet, 1877

人気のオペラ歌手Faureはマネの絵のコレクターだった

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・Berthe Morisot : Woman with a Fan (aka Head of a Girl), 1876

モリゾはマネの弟の妻、女性や子供の絵をたくさん描いた

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・Lilla Cabot Perry : Angela, 1891

Perry (1848 – 1933)はアメリカの画家で、ヨーロッパでモネに師事、日本にも来た

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・Edgar Degas : Giovanna and Giulia Bellelli, 1866

姉妹だろうか、二人の共通性と差異がよく描けている

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・Claude Monet : Portrait of Pere Paul, 1882

モネが泊まった宿のレストランのシェフ、少ない筆致で見事な人物描写

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・Giovanni Boldini : Portrait of Mlle de Gillespie - La Dame de Biarritz, 1912

Boldini (1842-1931)はパリ社交界の名士で、社交界の女性を数多く描いた

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・Amadeo Modigliani : Portrait of Jeanne Hébuterne, 1918

Modiglianiがたくさん描いたエビュテルヌは内縁の妻、彼の死の翌日飛び降り自殺

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・Roman Zakrzewski : painted in ca.1995~98

Zakrzewski(1955~2014)はポーランドの画家、Modiglianiの影響があるのか

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[映画] ヘルムート・ニュートンと12人の女たち

[映画] ヘルムート・ニュートンと12人の女たち 渋谷Bunkamuraル・シネマ 1月4日

(写真下は↓、彼の代表作の一つ、4人の女性が衣服と裸体で同じ姿勢を取る、その裸体は、筋肉の動きが透けて見えるような、力のみなぎった運動感がすばらしい、その下も↓、ワーグナー『指環』の女戦士ブリュンヒルデを思わせるようなアスリート的肉体美)

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 H.ニュートンと彼の写真のモデルになった女性たちのインタビュー、そして多数の写真とによって、彼の写真の全体像と彼の人生を90分で紹介する、すばらしい映画だった。特に、彼の写真のモデルとなったシャーロット・ランプリング、グレイス・ジョーンズ、ナジャ・アウアマン、ハンナ・シグラなどの話はとても面白い。言うことがみな違うのだ。「私の魂が撮られていると感じる」という人もいれば、「写っているのは私じゃない、別人格、俳優が役を演じるように」という人もいる。そして当のH.ニュートンは、「私は魂なんか撮っていない、肉体のみを写している」と言っている。そして、彼が写真の現場でもっとも嫌う言葉は、「アートだ」「センスがよい」の二語だという。なるほど、そうなのか。写された女性たちの肉体は、受動的で優美でエレガントなのではなく、能動的で、力がみなぎり、攻撃的で、尖がっていて、見る者の視線を強烈に跳ね返す。そうした肉体の「激しい美」は衝撃的だ。(写真下は↓、シャーロット・ランプリング、獲物を狙う豹のような眼差しは本当に美しい!)

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 今回の写真を見て感じたのは、人間の美しい肉体には、程度の差はあれ必ず倒錯的な様相があることである。「倒錯」というと何か悪いことのように聞こえるが、そうではなく、我々は例外なく誰もが倒錯的であって、あるのは程度の差なのだ。(写真下↓はどちらも、「パリ、オブリオ通り」、二人の女性の裸体と男装という組み合わせが素晴らしく、また男装の女性の圧倒的な美しさ)

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 倒錯的というならば、白鳥に化けたゼウスとレダの「交尾」の写真も凄い↓。モデルになったナジャ・アウアマンによると、パリ自然史博物館から借りた白鳥の剥製を使ったのに、生きた白鳥と錯覚した人がたくさんいて「動物虐待」という抗議が殺到したという。そもそもギリシア神話レダの話を知らない人の方が多いという。そういう人は、ユーモアとしてこの写真を楽しむことができない。この写真を見て、レダも完全にイッちゃってるし、「おお、ゼウス君、やるじゃん」と笑える教養が必要だろう。つまり、レダとゼウスのこの交わりから生まれた子が、人類でもっとも美しい女ヘレネ。そのヘレネの争奪戦がトロイ戦争。だからこの交わりは、歴史的大事件なのだ(笑)。

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 イザベラ・ロッセリーニの話で分かったのだが、H.ニュートンの写真には、レニ・リーフェンシュタールの影響が強いという。彼女がベルリン・オリンピックで撮った、競技を戦うアスリートの肉体の美しさと共通するものが、H.ニュートンにはあり、たしかに戦う肉体の美しさがある。下記の写真↓にも、それが感じられた。モデルはグレイス・ジョーンズだが、これは戦う肉体の美しさであろう。二人が戦士あるいはレスリングの選手だと言われても違和感がない。彼女によれば、「撮られた自分の肉体には、いやらしさがまったく感じられない」という。

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 ハンナ・シグラによれば、H.ニュートンの写真には、ドイツ1920年代の表現主義の影響があるという。確かに下↓など、その雰囲気が感じられる。写真右は、デヴィッド・リンチイザベラ・ロッセリーニ(=イングリッド・バークマンの娘)。

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この映画の一部を紹介した動画がありました。

2分弱の動画

https://www.youtube.com/watch?v=XIfhxVhJCZo

6分半の動画

https://www.youtube.com/watch?v=tU4RmOV2w2s&has_verified=1