[演劇] 安部公房原作・ケラ脚本『砂の女』

[演劇] 安部公房原作・ケラ脚本『砂の女』 ケムリ研究室公演 シアター・トラム 8月27日

(写真は舞台↓ 砂の穴に落ちた男[仲村トオル]と砂の穴に住む謎の女[緒川たまき])

f:id:charis:20210828103325j:plain
f:id:charis:20210828103257j:plain
実験的・前衛的演劇を試みるために、劇作家演出家ケラと俳優緒川たまきの二人が作ったユニットが「ケムリ研究室」で、その第二弾。ケラはこれまでもマジック・リアリズム風の演劇を作ってきた人なので、安部公房の傑作小説『砂の女』を演劇化したのは理解できる。小説『砂の女』は、安部を一時ノーベル文学賞候補にさせた名作だが、主題の見事さだけでなく、その文体こそが内容の表現を可能にしている作品なので、演劇化は難しいようにも思われた。しかし、安部の脚本で勅使河原宏が監督した映画版は、映画として素晴らしいものだったから、当然、演劇にもできるはずだ。カフカの小説が演劇化に向いているように、実は20世紀の演劇は、多かれ少なかれ不条理劇化している。

f:id:charis:20210828103432j:plain
チェホフから演劇が不条理劇化したと私は考えているが、不条理劇がそれ以前の演劇と違うところは、人と人とは究極的に互いに理解し合えない存在だとみなして、それを前提に、そこから出発して物語を作る点にある。そのように見れば、今回の舞台は大成功で、まさに不条理劇としてのストレート・プレイになっている。「砂の女」は最後まで謎の女でありつづけ、砂の穴の中に一緒に住むようになった男も、観客の我々も、彼女がどういう女なのか、何を考えているのか理解できない。穴から逃げ出すことはいくらでもできそうなのに、彼女はなぜそうしないのだろうか。しかし、この「砂の穴」は一種のメタファーであり、極限状況という点ではシュールだけれど、実は我々の現実世界にたくさんある、リアルな「穴」なのではないか。

f:id:charis:20210828103540j:plain

f:id:charis:20210828112510j:plain

原作『砂の女』では、穴の中で暮らすうちに、男の意志に反して、男と女の間に不思議な「絆」が生まれるのだが、それが「愛」であることは仄めかされるだけで、明確には書かれていない。しかし、ケラの演劇版は、原作にない場面を幾つも作って、そこを前景化している。原作では「愛」について示唆されているのは、最後に、女は、子宮外妊娠の疑いで入院のため穴から吊り上げられていくが、吊り上げられながら「[自分の]視線が届かなくなるまで、涙と目ヤニでほとんど見えなくなった目を、訴えるように男にそそいでいた。男は見えないふりをして、目をそむけた」(p264)、とあるだけである。こんなに微妙な状況は演劇では表現できない代わりに、舞台では、男は残された縄梯子に気づいたあと、うずくまって激しく号泣する。『砂の女』とは、砂をかむどころか、砂に埋まってしまうような荒涼とした人間の世界に、ほんのかすかな、しかし明らかな生の希望である「愛」が生まれる「愛の物語」なのだ。私はベケットの『幸せな日々』を思い出した。ケラがプログラムノートで言っているように、男を演じた仲村トオルは映画版の岡田英治より「断然いい」。女を演じた緒川たまきも、謎の女の不思議な色気がよく表現されていたが、映画版の岸田今日子があまりにも素晴らしかったので、夫のケラもさすがに「岸田今日子より断然いい」とは言わないだろう。

f:id:charis:20210828103631j:plain

f:id:charis:20210828103701j:plain

 

[オペラ] ヴェルディ《アイーダ》

[オペラ] ヴェルディアイーダ》 METライブ Movixさいたま 8月5日

f:id:charis:20210806075400j:plain
2018年10月6日のMet公演、アイーダ(ネトレプコ)、アムネリス(ラチヴェリシュヴィリ)、ラダメス(アントネンコ)の三人が素晴らしい。ワーグナーと同様、歌い手の異様な声量が要求される作品なので、ほとんど絶叫に近いが、声がよく通る。Metの広大な舞台、巨大な舞台装置がセットされて、威圧的で権威主義的なエジプトの宮殿が圧倒的な迫力で迫ってくる。トーマス・マンが『魔の山』の中で、《アイーダ》の野蛮で威圧的な権力性や凱旋行進曲を厳しく批判していたことを思い出した。オペラ《アイーダ》はその成立からして、特別な事情がある。1869年のスエズ運河開通を記念して、エジプトの太守からの作曲依頼、破格の作曲料、1871年の初演はカイロの歌劇場だったから、エジプト王朝を否定的に描くことはできなかっただろう。しかし啓蒙主義的な立場からは、野蛮なエジプト王朝が肯定的に表現されているという批判が当時からあった。特にワーグナーのように大政治を主題にしているという点で、この作品は、当時のイタリアやフランスの「ワーグナー嫌悪」と重なったのだろう。たしかに男たちの半裸の踊りなど、野蛮な印象を受ける↓。

f:id:charis:20190302053659j:plain

しかし私は、あの凱旋行進曲には激しく心を揺さぶられたし、アイーダ、アムネリス、ラダメスの美しい「愛の三角形」という主題が、エジプト王朝の権力性によって毀損されているとも思わなかった。終幕、地下の牢で死んでゆくアイーダとラダメス↓の二重唱と、地上の宮殿に立って、涙にむせながら二人の愛を讃えるアムネリスの歌は本当に美しい。エジプト王朝の威圧的な野蛮性は王や王女アムネリスではなく、主として神官たちに表現されているし、エチオピアが(アイーダはエジプトでは女奴隷だが、本来はエチオピアの王女)、まるでユートピアの楽園のように描かれていることからして、ヴェルディは決して古代エジプト王朝を無条件で肯定しているわけではないと思う。権力性と純愛との葛藤が作品の真の主題であり、純愛が勝利するのが《アイーダ》である。アイーダ姫はエチオピアの王女であり、非ヨーロッパ的で異国的な神秘性にあふれているから、ネトレプコは本当に適役だと思う。

f:id:charis:20210806075507j:plainf:id:charis:20210806075600j:plain

f:id:charis:20210806075642j:plain
凱旋行進曲のところ、9分の動画がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=xxgOIwOd_5I

今日のうた(123) 7月ぶん

[今日のうた] 7月ぶん

(写真は永井荷風1879~1959、浅草など下町を愛した荷風は、下町の風情を俳句に詠んだ)

f:id:charis:20210730102848j:plain

  • 夏空へ嵌め殺し窓壊さうか

 (佐藤勝美「東京新聞俳壇」6月27日、石田郷子選、「誉め殺し」は知っていたが、「嵌め殺し」は初見、でもよく分かる、最初から作り付けで、開けることのできない窓が最近は多い、広がる夏空へ向かって、「ああ、窓を開けたい!」) 7.1

 

  • 太陽は独身ならむ浜ビール

 (春日重信「朝日俳壇」6月27日、高山れおな選、独りで海岸に来ている作者、カップルたちが楽しそうに遊んだり泳いだりしているのを見ながら、一人黙々とビールを飲む、そして、ふと思う、「そういえば、頭上の太陽くん、君も独身なんだっけ?」) 7.2

 

  • 「復興」の掛け声徐々に薄れきて「やるためにやる五輪」となりぬ

 (白鳥孝雄「朝日歌壇」6月27日、馬場あき子・永田和宏選、オリンピックは金儲けのための巨大なイベントになった、それで儲けている人が世界中にたくさんいるのだろう、だから「やるためにやる五輪」となった) 7.3

 

  • 浅く胸を上下させつつ霧雨のように静かにあなたはねむる

 (森本有「東京新聞歌壇」6月27日、東直子選、「浅く胸を上下させて」眠っているのは彼女だろうか、「霧雨のように」がとてもいい、『失われた時を求めて』の主人公に寝姿を見守られるアルベルチーヌを思い出す) 7.4

 

  • 色町につゞく空地や夏相撲

 (永井荷風1938、下町に住む荷風が、夕焼けが美しい夏のある夕方、ふと通りかかった近所の空地で相撲が行われている、直ちに、「そうか、ここは色町につゞいている空地なんだ」と連想が働く) 7.8

 

  • 炎天の巨きトカゲとなりし河

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、「阿呆の大地」と題する句群の一句、当時作者は中国戦線にあり、華中(=黄河揚子江の間の地域)を転戦中だった、大きな河が一瞬「巨大なトカゲ」に見えた、荒涼とした自然景だが、それは戦争による心の荒廃でもある) 7.9

 

  • 嫁ぐ妹と蛙田を越え鉄路を越え

 (金子兜太『少年』、1942年の作か、東大生の兜太はごく短期間、郷里の秩父に帰る、妹の結婚の直前、兄妹の二人は、蛙の鳴く田を越え、線路を越え、家の近くをひたすら歩く、それだけのことだが、兄も翌年には入隊、万感のこもった散歩だったろう) 7.10

 

  • 夏の海水兵ひとり紛失す

 (渡辺白泉1944、作者は応召を受け、横須賀海兵団に入隊、水兵として監視艇隊に配乗していた、戦場ではなく日本近海だが、乗船していた同僚の水兵が突然行方不明になったのだろう、それを、なにか物が「紛失した」程度にしか受け止めないのが軍隊という所) 7.11

 

  • 森で逢びき正方形の夏の蝶

 (寺山修司『花粉航海』、修司は青森高校の三年間、たくさんの俳句を詠んだ、これはその中の一句、二匹の蝶が森の木の枝で交尾している、二匹が重なり合ってちょうど「正方形に」見える、交尾しても形は曲線のはずだが、「正方形」と詠んだのが鋭い) 7.12

 

  • たらちねの母に知らえず我が持てる心はよしゑ君がまにまに

 (よみ人しらず『万葉集』第11巻、「お母さんに知られないように、貴方からの求愛に対する私の気持ちはずっと隠してきたけど、もう隠せない、いいわ、どうなったって、私も貴方が大好き、私を貴方のすきなようにして!」) 7.13

 

  • 天雲のよそにも人のなりゆくかさすがに目には見ゆるものから

 (紀有常の娘『古今集』巻15、「空の雲が風にのって忙しく動くように、貴方は私の所に来ても(泊まらずに)すぐ帰ってゆく、まだ私の目に見える所にはいるけれど、なぜそんなによそよそしいの、業平さん」、彼の返しは明日) 7.14

 

  • ゆきかへり空にのみして経(ふ)ることはわがゐる山の風早みなり

 (在原業平古今集』巻15、「僕が貴女の所へ、雲のように行ったり来たりして、うわの空に過ごしているのは、僕が泊まるべき貴女という山には、冷たい風が強く吹いていて降りられないからさ、もっと優しくしてよね」) 7.15

 

  • 夢とても人に語るな知るといへば手枕(たまくら)ならぬ枕だにせず

 (伊勢『新古今集』巻13、「忍びたる人と二人臥して」と前詞、「ねえ、今晩のこと、絶対に人にしゃべらないでね、枕は秘密を知っちゃうというから、私は手枕しかしないの」) 7.16

 

  • 見えつるか見ぬ夜の月のほのめきてつれなかるべき面影ぞ添ふ

 (式子内親王『家集』、「はたして月は見えたのでしょうか、貴方に逢えない今夜の月は、ほのかに見えたけれど、その月に影のように添って見えたのは、まちがえなくそっけない貴方のお顔です」) 7.17

 

  • 月をこそ眺め慣れしか星の夜の深きあはれをこよひ知りぬる

 (建礼門院右京大夫、「いつも月を眺めるのが好きで、心を動かされてきたけれど、でも今夜は、月はないけれど星が月のように明るく光る星月夜(ほしづきよ)、星月夜もいいなあ、こんなに素敵なんだ」) 7.18

 

  • 空席にくうせきさんがうずくまる

 (佐藤みさ子、「空席」とは初めから「無」ではない、そこに座る可能性があった誰かが欠席し、替りに「くうせきさんがうずくまった」から「くうせき」になった、「無」がそこに来なければ「無」にはならないのだ、作者1943~は宮城県の川柳作家) 7.19

 

  • 行き過ぎてあれは確かに鳥の顔

 (海地大破1936~2017、『魔笛』のパパゲーノのように、「鳥の顔」のように見える人間の顔というものはある、すれ違った時は人間の顔「として」見えていたが、一瞬のちに「?」と思い、思わず振り返ってしまう、とても個性的な顔だった) 7.20

 

  • いつもセクシーな猫がいる非常口

 (加藤久子1939~、雌猫にも雄猫にも「セクシーな猫」はたしかにいる、そういう猫は人間がむんずとつかんで抱きしめるかもしれない、猫セクハラから逃げられるように、「セクシーな猫はいつも非常口に」いる) 7.21

 

  • やわらかい布団の上のたちくらみ

 (石部明1939~2012、バブルの頃の東京か、「やわらかい布団」はたぶん高級ホテルの一室だろう、久しぶりに彼女とデートの後、夜景の東京湾を見下ろす高層ホテルへ、もう舞い上がってしまって、布団にちょっと足が触れただけで、頭がクラクラ) 7.22

 

  • 縄跳びをするぞともなかは嚇(おど)かされ

 (石田柊馬1941~、「もなか」は皮がとても薄いから、激しく揺さぶられれば中の餡が皮を破って出てきてしまう、「縄跳び」なんかしたらもちろんダメ、人間って、そういう「もなか」にどこか似てはないか) 7.23

 

  • ためらはず遠天(をんてん)に入れと彗星の白きひかりに酒たてまつる

 (斎藤茂吉『赤光』、1910年5月19日頃、ハレー彗星が地球に最接近し、彗星は大きな弧を描いて天上を動いているように見えた、「さあ、ためらはずに、そのまま進もう!」と彗星に呼びかけ、「白い光に、酒をたてまつった」) 7.24

 

  • 楽しくも満ちかへり来る潮(しほ)あれやかの堤防に向ひてあゆむ

 (佐藤佐太郎 1950『帰潮』、戦後、作者は東京でまだ苦しい生活をしていた、荒川か隅田川の河口だろう、満ち潮が「楽しく帰ってくる」ように見える時がある、それが見たくて仕事の後、「堤防に向かって歩く」) 7.25

 

  • 酒のうへの一つ言葉に傷つきて弱きかな月の夜の道かへる

 (上田三四二1964、『雉』、作者は数年前に京都から東京に移り、清瀬の国立療養所に医師として勤務、患者の治療に悩む歌が続く、この歌も、おそらく同僚の医師の一言が胸に刺さったのだろう、愚直なまでに真面目な人柄) 7.26

 

 (俵万智『未来のサイズ』2020、すっかり商業主義のイヴェントになってしまったオリンピックなど、現代は人間のバランスが崩れて、安定感のない「リズムの危うい」時代になっている)  7.27

 

  • 入念に髪撫でている青年にわれは嗜虐(しぎゃく)の笑い送りぬ

 (大和克子『無花果家族』1974、「嗜虐」とはサディスティックなこと、「髪を撫でつけている青年の姿がとても滑稽なので、冷やかに笑ってやった」、作者1921~は戦後早くから塚本邦雄らと前衛短歌に参加、トゲのある歌を詠む人) 7.28

 

  • 記憶とは泥濘(ぬかるみ) 気泡はきながら紅茶のうづへ檸檬が沈む

 (川野芽生『Lilith』2020、何か思い出したくもない嫌なことがあったのか、でもいやでも思い出してしまう、気を鎮めようと紅茶をいれてみたが、レモンが荒々しく「気泡をはきながら」紅茶の「渦」に沈んでゆく) 7.29

 

  • 風景を見てるつもりの女性徒と風景であるオレの目が合う

 (工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』2020、作者は女生徒から無視されているのだろうか、ここにいるオレを工藤くんと知りながら、風景の一部としてしか見ていない、オレはじっと彼女を見詰め続けているうちに目が合った) 7.30

 

  • 夕焼けは鳥の天国ぼくたちの天国と交換してください

 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、歌集のすぐ後の詩からすると、荒川の河川敷のようだが、広い空のあるところなら他でもいい、大きく広がった夕焼け空を鳥たちが飛んでゆく、それは「ぼくたちの天国」以上に美しい天国) 7.31

今日の絵(13) 7月後半

今日の絵(13) 7月後半

 18 Picasso : Olga Picasso, 1923

ピカソは1917年にロシア・バレエ団の踊り子オルガ・コクローヴァと出会い、翌年に結婚、21年には息子パウロ誕生、オルガとの関係は1935年まで続いた、ピカソは1908~15年のキュビズムから離れ、その後しばらく古典的・具象的様式の絵を描いた、このオルガも静謐で美しい

f:id:charis:20090904185430j:plain

19 Max Pechstein, 休憩中のモデル 1925

ペヒシュタイン(1881~1955)はドイツの画家、表現主義だが豊かな色彩の絵をたくさん描いた、この絵も配色のバランスがよくて、色彩がとても美しい

f:id:charis:20210730033544j:plain

20 Yablonska :  自画像 1945

タチアナ・ヤブロンスカ(1917~2005)はウクライナの画家、仕事をするウクライナの人々をたくさん描いた、この自我像も、画家らしい逞しい腕、鋭い視線、凛とした姿勢、体の輪郭の美しさなど、誇り高い画家その人がよく描かれている

f:id:charis:20210730033607j:plain

21 Degas : 年若い帽子屋さん1882

今日からは、働いている姿を描いた絵を、ドガの人物画はどれも何かをしている人物を描いている、この絵はおそらく、左側が帽子屋の新人で、右側がベテラン、商品のチェックの仕方を教えている、新人のややおぼつかない手つきに、ベテランは厳しい視線を

f:id:charis:20210730033624j:plain

22 Morisot : 休んでいる羊飼いの少女, 1891

羊飼いの少年ではなく、これは少女、寝そべってはいても、少女の身体は健康的でとても美しい、遠方の青い大きな樹木や、黒く小さくみえる人間たち、そして少女の頭の横の白い子ヤギなど、すべての要素が呼応し合って、全体が見事な構図に

f:id:charis:20210730033645j:plain

23 Giovanni Boldini : La cantante mondana,1884

イタリア語のタイトルは「世俗の享楽の歌手」といった意味らしいが、後姿なので顔は分らない、教会ではなく街のカフェかキャバレーで歌っている歌姫だろう、Boldiniがよく通った店なのかもしれない

f:id:charis:20210730033709j:plain

24 Renoir : the page, 1877

服装からして、貴族などに仕える少年「小姓」だろうが、ヴァイオラ(『十二夜』)やケルビーノ(『フィガロの結婚』)の時代ではないので、これは演劇で「小姓」を演じる役者か、舞台の脇に立つ姿は、少女のような少年のような、優美で美しく、そして知的な顔が印象的

f:id:charis:20210730033744j:plain

25 Sorolla : Fisherwoman from Valencia, 1916

ホアキン・ソローリャ1863~1923は、バレンシア出身のスペインの画家、タイトルは「バレンシア出身の女漁師」だから、ここはどこか別の海岸だろう、同郷なので親しみを感じたか、夕日に照らされた彼女は、若くはないが、その細い強靭な身体、日焼けした顔が美しい

f:id:charis:20210730033816j:plain

26 Anders Zorn : A Kitchen Maid, 1919

アンデシュ・ソーン1860~1920はスウェーデンの画家、パリでも絵を学んだ、大きな屋敷の台所で働く若いメイドだろう、逞しい肩、がっしりした太い腕、大きな腰、豊かな胸、重い鍋でも軽々と扱える力持ち、そして主人に媚びてほほ笑んだりしなさそうな無骨なところがいい

f:id:charis:20210730033847j:plain

27 Rubens : Self Portrait, 1623

45歳のルーベンス、画家が人の顔を描く時は、その人の内面も一緒に描かれる、たとえば悲しみに沈んでいれば、それが表情に出る、しかし自画像はそこが微妙だ、一流の画家なら、自己の熟知している内面を、その通り表現しないこともできるだろう、だから自画像は面白い

f:id:charis:20210730033919j:plain

28 Rembrandt : Self-portrait as a Young Man, 1634

17歳のレンブラント、彼の描く人物はどれも、その人格性に由来する深い美しさがある、この絵も少年のようでいて大人の顔だ、デューラーは自分がイケメンであることが自慢で、若い時の自画像はそのように描いているが、レンブラントの自分の顔についての自己意識はたぶん違う

f:id:charis:20210730033949j:plain
29 Frans Hals, Self-Portrait,1650s

70歳代のハルス、ハルスの描く人物の多くは、生き生きとして、表情が豊かで、充実した生を送っている顔だ、たいがいは幸福そうに見える、しかしこの自分の顔はどうだろうか、悲しげで、あまり幸福そうには見えないのだが、年齢のせいなのか

f:id:charis:20210730034045j:plain
30 Degas : Self Portrait,1855

21歳のドガドガは、何かをしている人物を描き、身体や表情の動きがよく分かる絵が多い、これは自己を描いた肖像画だが、表情も十分にあるように感じられる、首から下は顔の向きとずれており、顔は正面を向いているが、襟や、影など、全体に対称性がない

f:id:charis:20210730034117j:plain
31 Manet : Self Portrait with a Palette, 1879

47歳のマネ、ふつう画家は画を描く時にはフォーマルスーツは着ないが、マネは着ている、また彼は左利きではないので、これは鏡像ということになる、画家の自画像は他者を描くのとは違った面白さがある、この絵は2010年にサザビーズで約3000万ドルで売られたとか

f:id:charis:20210730034148j:plain

 

[オペラ] 高橋宏治《プラットホーム》

[オペラ] 高橋宏治《プラットホーム》 杉並公会堂 7月28日

f:id:charis:20210729095954j:plain

芸大出身の若手ソプラノ、薬師寺典子がベルギー留学中に発案・製作し、同じく若手作曲家の高橋宏治が作曲、1時間の作品。ゲント、ブリュッセルに続いて、これが三回目の東京上演。歌い手は薬師寺一人で、楽器奏者が六人、映像が背景に映し出される。「室内モノオペラ」というジャンルらしいが、プーランク《声》も歌手一人だから、それも立派にオペラなのだ。本作は、「現代オペラ」の可能性を示唆するとても意欲的な作品で、成功している。2016年のブリュッセル地下鉄駅爆破テロ事件が主題で、テロ事件がそもそもオペラの主題になりうるのかと最初思ったが、東京でもオーム真理教の地下鉄テロがあり、ニューヨーク、パリと世界的にも大規模テロは多発しているのだから、爆破テロはもはや現代史の前景であり、当然、「現代オペラ」の主題になりうる。それを強く感じさせる舞台だった。物語を五つに分け、(1)駅プラットフォームに居合わせた元女性警官、(2)爆弾を私室で作る孤独なテロリスト青年、(3)事件を速報するTVの女子アナウンサーの排外主義まみれの報道映像、(4)犠牲者であるレバノンからの移民の少女の故国の母との電話の会話、(5)ともに死者となった移民少女とテロリスト青年との、冥府への列車を待つプラットフォームでの対話、の5シーンからなる。よく考えられた構成で、脚本はセルビア人の若手、ステファン・アレクシッチュ。1時間が緊張の連続で、音楽は現代音楽なのに、少しも退屈しない。

f:id:charis:20210729100431j:plain

ベルギー版のタイトルは、《Amidst dust and fractured voices [(爆破の)塵と引き裂かれた声の間で]》だが、東京版は《PLAT HOME》。地下鉄駅のプラットフォームなのに、わざわざ「プラット・ホーム」にしたのは、コロナ禍における「ステイ・ホーム」すなわち、個人が分断されて孤立している状況と重ねたと、プログラムノートにある。しかし、私はこれはかえって分かりにくくしたと思う。むしろ本当の問題は、爆破テロの現場に居合わせた当事者、それを即時報道するTVアナ、ネットを含めてほぼ直後に知る我々同時代人という、広義の当事者たちがこれほど時空的に近くにいるにも関わらず、何が起きたのか、その出来事の意味が分からないということではないか。最近見た演劇、宮本研『反応工程』は、終戦前の数日間に右往左往する日本人を描き、当事者ほど出来事の意味が分からないという状況が前景化されていた。爆破テロ事件にもまったく同じことが言えるのではないか。プログラムノートには、オペラという芸術においてテロ事件を「再生(ミメーシス)」するのだから、ただちに失われるテロ事件の「記憶」と政治という切り口から、作品を作ったとある。それも分かるのだが、本作では、5つのシーンに当事者たちを分けたことから分かるように、実際には、当事者たちの認知的不協和の方が前景化されていたと思う。

f:id:charis:20210729102219j:plain

あと、映像における文字の多用について、少し気になった。モノオペラだから仕方がないのかもしれないが、オペラにおいて本来は人の声で表現すべきものが、文字の姿で映し出される。だから観客は聞くのではなく読むことが主になる。私は映像を見ながら、大学の教室でパワポで講義を受けているような錯覚を覚えた。声が文字になっているからだ。この問題は、映像を巧みに用いることができる「現代オペラ」の課題だと思う。

 

ベルギー上演の動画が。映像は東京版とは別。

https://www.youtube.com/watch?v=Vs9cX-OxXRY

https://www.youtube.com/watch?v=5jaWF5EBFLM

https://www.youtube.com/watch?v=25WBeEQGG3w