[演劇] チェホフ『桜の園』 ジャンヌトー演出

[演劇] チェホフ『桜の園』 ジャンヌトー演出 静岡SPAC 11月23日

(写真↓は、左から、近所の地主ピーシク、商人ロパーヒン、ラネフスカヤ、その兄ガーエフ、そして舞台全景)

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ジャンヌトー演出を見るのは、『ガラスの動物園』についで二度目。『桜』の舞台も、リアリズムではなく、「なにもない空間」で、当時の衣装はまったく用いず、人間を剥き出しに晒すような、現代演劇の空間になっている。チェホフの遺作『桜』は、他のどの作品にも増して、大きく不条理劇の方へ踏み出しているので、この舞台は適切だ。(写真↓は、左端が、ドイツ人家庭教師のシャルロッテ)

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俳優は日本人とフランス人との混成で、科白も二か国語なのは、会話と応答がつねにズレてゆき、コミュニケーション不全が大規模に生じている『桜』にふさわしい。コロナのせいで、俳優がマスクをしているのも、よかったのかもしれない。ギリシア悲劇や能のシテなどは、素顔を見せないから、演劇の舞台に素顔は必要ないのかもしれない。『桜』では、誰もが少しぶっ飛んでいる人で(シャルロッテは完全かつ全面的にぶっ飛んでいる)、そこが喜劇でありかつ悲劇であるというチェホフ劇の特性なのだが、その意味では『桜』はチェホフ劇の完成形といえる。ラネフスカヤも少しぶっ飛んでいるし、いつもビリヤードのマネをしている兄のガーエフ、杖や傘を握って人を脅す養女ワーリャ、そして召使いや下男たちも、それぞれぶっ飛んでいる。女中のドゥナーシャもお嬢様ふうで変だし、若い従僕のヤーシャは「ロシア人は教養がなくて困る、俺はパリへゆくぞ」とか偉そうに言うし、事務員エピホードフは大の読書家で哲学的な人生論を語る。つまり、皆が普通ならありそうにないことを語ったりしたりするのだ。そういう不条理的な、いかにもなさそうな人間の様態が、いかにもありそうな人間の様態と、つまり失う家を悲しみ、人との別れを悲しみ、何とか恋も成就させようとじたばたしながら生きていることと共存しており、その両方が高いテンションで共存しているのが、まさに『桜の園』なのだ。演出によっては、ラネフスカヤとロパーヒンの間の恋愛感情を見せるものもあるそうだが、この舞台ではそれは感じられなかった。ただ、二人は同じ「桜の園」で生まれ育ったという幼馴染の共有点はある↓。そういえば、ロパーヒンと87歳の従僕フィースルは、ぶっ飛んだところのない普通の人だ。(下の写真↓中央がフィールス)

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チェホフ劇の肝である「さあ生きていきましょう、私たち生きていかなくては」は、『桜』にもある。娘アーニャははっきり「新しい生活が始まるのよ!私、勉強して資格を取って、働くわ」と言うし、他の人々も多かれ少なかれ「桜の園」を出て新しい生活が始まることに期待をもっているように見える。結局、『桜』の核心は、兄ガーエフの次の言葉にあるのかもしれない(第四幕、終り近く)、「これで万事めでたしだ、桜の園が売られる前は、我々はみなおそろしく動揺し、苦しみ、悩んでいた。だが、その問題が最終的に解決され、もうあと戻りはできないとなると、そのとたんに皆落ち着きを取り戻し、陽気にさえなったくらいだ」(小田島雄志訳、p151)

動画もありました

https://twitter.com/_SPAC_/status/1457278474213728259

[演劇] 倉持裕『イロアセル』

[演劇] 倉持裕『イロアセル』 新国小劇場 11月20日

(写真は舞台、誰もが、しゃべった言葉や書いた文字は色になって雲のように広がり、同時にスマホのような「ファムスター」にすべて表示される、人物が手に持って見ているのがそれ)

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非常にユニークな主題をもつ作品だが、物語の展開がやや難しい。緩急に乏しく、すべての場面が「動」と「急」ばかりの2時間10分休憩なしで続くので、やや疲れる。ある離れ島では、しゃべった言葉がすべて色の雲になり全体に伝わるので、人の悪口は言えないし、発言は建前ばかりで本音は言えない。しかしその島はそれでうまくいっているようにみえるが、本土から一人の囚人と看守を伴う留置場が移転してきたことによって、状況は一変する。その留置場だけは↓、しゃべった言葉が色にならないのだ。黒と白しか存在しない。

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島民たちはこぞって留置場に「面会」と称して訪れ、そこでは安心して本音をたくさんしゃべる。その発言を囚人が文字に起こして島の新聞に投稿するので、皆の本音が島民に筒抜けになってしまい、島は大混乱に陥る。最後は、島の住人が囚人を襲い、指を切り落とすことによって囚人も傷つく。そうこうするうちに、島民の発言ももはや色が付かなくなってしまう。多くの島民は、言葉の機能が一変したことによって困惑し、島を去る、という物語。(写真↓は、島の町長の女性と町会議員、指さしている機械は「ファムスター」の本局)

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2011年に初演の作品で、ツイッターなどSNSによって、発言が瞬時に広まることの危険性が主題なのだ。たしかに、本来「つぶやき」というのは、発言者のすぐ近くにいる人にしか届かないものだが、それがツイッターとなると何万人もに一気に聞こえてしまう。つまり、人類がこれまで経験したことのない仕方で、人と人とが繋がってしまう。とても重大な事態だと思う。本作は、離れ島ではそういう異常事態が平常のデフォルトだったのに、それがなくなる転換が起きるという、逆方向からの物語になっている。物語を作るのが非常に難しいはずだ。この舞台は、「フルオーディション」でキャスティングしたせいか、俳優の誰もが個性的で、非常にうまい。特に、看守(伊藤正之)と囚人(箱田暁史)は圧巻だった。

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よい動画がありました。

https://twitter.com/nntt_engeki/status/1461863733681135624

[今日の絵] 11月前半

[今日の絵] 11月前半

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1 Degas : ヴァルピンソンのホルテンス嬢の肖像 1871

ドガは生涯を通じて、幼馴染のポール・ヴァルピンソンのノルマンディーにある田舎の邸宅をよく訪れた、これは、ポールの長女で唯一の娘ホルテンス、彼女のテーブルなのだろう、可愛い小物をたくさん掛けている

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2 Manet : ネグリジェ姿の若い女性 1882

こういうタイトルだが、この顔はマネの絵によく出てくるような気もする、起きたばかりのぼんやりした眼差し、乳首が片方見えているのか、全体のフワッとした感じが美しい、「ネグリジェnégligé」はフランス語で「だらしない」という意、ズボン式のパジャマよりずっと歴史は古い

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3 William Merritt Chase : マイベイビー(居心地がよい) 1888

ウィリアム・メリット・チェイス(1849~1916)はアメリカの画家、日本の着物を着た絵も描いている、この絵は自分の息子か、「居心地がよい」となっているが、帯でぐっと結んであるように見える、本人にはこの服、はたして「居心地がよい」のかどうか

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4 Lautrec : In Bed, The Kiss, 1892

ロートレック(1864~1901)はフランスの画家、この絵は二人の女性が抱き合ってキスをしている、同性愛がまだ禁忌だった時代、この絵はかなりの衝撃を与えたのではないだろうか、ロートレック自身も28歳

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5 Cassatt : The Barefoot Child, 1897

メアリー・カサット(1844~1926)はアメリカの画家、若い時フランスに行き、ピサロに師事、ドガも友人、後半生に母と子の絵をたくさん描いた、どの絵も、子どもが生き生きとして生命感に溢れている

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6 Benson : 太陽の光の中にいる子ども 1899

F.W.ベンソン(1862~1951)はアメリカの画家、家族の絵をたくさん描いた、多くの場合、女性や子どもは白い服を着て、太陽光のもとにいる、ふんわりとした感じがとても美しく、この子もそうだ

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7 Jacob Jordaens : 画家と家族の肖像1622

ヤーコブ・ヨルダーンス(1593~1678)はバロック期のフランドルの画家、ギリシア神話や聖書の絵が多いが、これは自分と妻と娘が描いた、ぶとうの蔓、果物、花々、オウム、犬など、古くからの伝統である「愛の庭園 (Jardin d'amour)」の寓意も描かれている

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8 Louis Le Nein : 幸福な家族 1642

ルイ・ル・ナン(1593~1648)はバロック期のフランスの画家、「ル・ナン三兄弟」と言われ、アントワヌ、ルイ、マウチの三人とも画家、農民の絵をたくさん描いたことで名高い、この絵は別名「洗礼からの帰宅」、割と裕福な農民なのか、一人一人の表情がよく描かれている

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9 Hals : 風景の中の家族グループ 1647

フランス・ハルス(1582~1666)は、たくさん家族を描いている、これは遠足に行った一家か、一人一人がとても生き生きしており、全体が幸福感に溢れている、当時のオランダは西洋でもっとも先進国で、豊かな市民階級がたくさん生み出されたことが、この絵からも分る

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10 Monet : 庭の女たち 1866

225cm×205cmの大きな絵、25才のモネのこの絵は、「主題と物語が弱い」としてパリサロンから拒否された、たしかに三人の女性は無関係に見えるが、右側の女性は滑るように歩いている、何か物語がありそうではないか、まだ印象派的ではないが、光が溢れ、白い服が美しい

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11 Frédéric Bazille : 家族の集い 1867

フレデリック・バジール(1841~70)は、フランス印象派の画家、若くして死んだ、この絵の左端が画家本人、手前が両親、残りもみな家族がモデルで、モンペリエの名門バジール家の人々だ、郊外の母の実家を別荘として、夏には一家が集まった、明るい光に溢れた幸福な家族

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12 Ludwig Knauss : 子どもたちのパーティー 1868

ルードヴィッヒ・クナウス(1829~1910)はドイツの画家、子どもを含む多人数が集まっている家族の絵をいくつも描いている、これは「子どもたちのパーティー」、大人は給仕だけ、本当にこういう会があったのだろう、とても楽しそうだ、動物もいる

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13 Mary Cassatt : 5時のお茶 1880

メアリー・カサット(1844~1926)はアメリカの画家、母と子をたくさん描いた、これは母と娘だろうか、それとも姉妹か、5時のお茶ということは、夕食はゆっくりめなのだろう、カップは同じだが、お茶を入れる銀のポットは形が違う

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14 Renoir : 画家の家族 1896

中央の女性が妻アリーヌ、左端が長男のピエール、白い服の子供は二男のジャン(映画監督で名高い)、ジャンを支えているのは子守のガブリエルで、アリーヌのいとこ、そして、ルノワールは非嫡出の娘が二人いるので、右端はたぶんその一人ではないか、全体の色彩バランスがいい

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15 Gauguin : 食事(バナナ) 1891

ポール・ゴーギャン(1848~1903)は、1891年に最初のタヒチ島滞在、そのとき描いたのだろう、生活はバナナが主食ということでもないだろうが、この「食事」はバナナが中心であるように見える、何よりもゴーギャンの絵は色彩がすばらしい

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16 Balthus : 三人の姉妹 1964

バルテュス(本名クロソウスキー1908~2001)はフランスの画家で、独学で絵を学んだが、ピカソに評価された、兄のピエール・クロソウスキーは作家、1967年に日本人女性と結婚、少女の絵を多く描き、批判もされているが、この絵は三姉妹、家族だが何となくよそよそいしい、画家とどのような関係なのか

[オペラ] ベッリーニ《カプレーティとモンテッキ》

[オペラ] ベッリーニ《カプレーティとモンテッキ》 日生劇場 11月13日 

(写真は舞台、主題はロミオとジュリエットの純愛である以上に、キャプレット家とモンテギュー家の対立だから、剣がつねに舞台にある)

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グノー《ロミ・ジュリ》、ヴェルディ《オセロ》《マクベス》《ファスルタッフ》はすべてシェイクスピア原作だが、ベッリーニの本作は違う。シェイクスピアは、(1)ダンテに由来する民話群→(2)フランス語訳→(3)英訳の、(3)をもとに演劇『ロミ・ジュリ』を創作したが、ベッリーには(1)から本作を創った。だから物語は大きく違い、ロミオはモンテギュー家の当主であり、家と家との対立を収拾するために敵一家のジュリエットに結婚を申し込み、断られる。ジュリエットは体が弱く、自分の死を予感しているので、ロミオのことが好きだが、「父親は裏切れない」と従弟?のティボルトと結婚しようとする。だから、ダンスパーティの出会いも、バルコニーの対話も登場しない。物語としては、両家の対立が主題なのだ。(写真↓は、ロミオ[メゾソプラノの山下裕賀]とジュリエット[ソプラノの佐藤美枝子])

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ベッリーニを見るのは初めてで、最初は、オケの音楽が単調に聞こえたが、歌が美しいのに感嘆した。アリアも二重唱もすばらしい。そもそもロミオを男性歌手ではなくメゾソプラノにしたのがいい。宝塚的な魅力というか、とにかくロミオが瑞々しいのだ。歌った山下裕賀は藝大博士課程に在籍する新人の若手。私は前から二列目の席だったので、最初から最後までロミオに見とれてしまった。物語の展開はシェイクスピアとは大いに違うが、最後は同じというのは面白い。ロミオに促されて、最初は嫌がっていた駆け落ちをジュリエットも承諾し、キャプレット家の医者であるロレンスの調合した仮死状態になる薬を飲む。しかしロミオは、そのことをロレンスから聞いていないので(ロレンスは謀反を察知され、キャプレット家に幽閉された)、墓場の仮死状態のジュリエットを見て絶望し、自分がつねに持参した毒薬を飲む。幸い、すぐジュリエットは眠りから覚めたので、二人の悲しく美しいデュエットになり、ジュリエットも力尽きて死に、終幕。とても自然な展開なので、台本を書いたフェリーチェ・ロマーニの段階で、物語はここまで出来ていたのか。民話からのシェイクスピアの修正とはまた違う。(写真左↓はロミオ)

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[演劇] 太田省吾 『更地』 杉原邦生演出

[演劇] 太田省吾 『更地』 杉原邦生演出 世田谷パブリックシアター 11月9日

(写真は舞台、原作は「初老の」夫婦だが、この上演では若い夫婦という想定になっている[濱田龍臣南沢奈央])

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太田省吾を見るのは、二年前に『水の駅』(杉原邦生演出)に衝撃を受けて以来、これが二作目。「初老」を「若い」夫婦に変えたことによって、(私の見ていない)原作とは印象が違うはずだが、静かな、しかし深い感動が残る傑作だ。太田が『更地』で表現しようとしているのは、『水の駅』とまったく同じで、<人間は、ただそこに存在するだけで美しく、愛おしい>ということだ。『水の駅』の場合は、水飲み場が一つあってそこを色々な人が利用するだけだから、砂漠のオアシスに人が来ては去ってゆくような光景だ。『更地』の場合は、そこに家があったのだが、今は壊されて更地になっており、かつてそこに住んでいた老夫婦がやってきて、わずかに残された流し台、便器、ブロック、廃材などを懐かしむ、ということだけが舞台で表現される↑。たったそれだけのことなのだが、人間って、何と美しく、愛おしいのだろう!という感慨がこみ上げてきて、思わず涙してしまった。

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舞台を見ながら、私はジンメルの「橋と扉」(1909)を思い出した。太田省吾は読んでいたのかな、とまで思った。「橋と扉」は、道、橋、(家の)ドア、窓などが、なぜ存在するのかを究明したごく短いエッセイだが、ジンメルの最高傑作とも言われている。その内容は、「人間は、(宇宙に向かって開かれている)境界を知らない境界的存在だ」ということである。「家」のような、外部と内部を区切る「境界」を自分で作らなければ生きていけないが、しかし、同時にこの「境界」から自由に外に出てゆく存在だ。家には必ず扉や窓があり、そういう境界点の象徴が「扉」や「窓」である。『水の駅』の水飲み場という小さな空間も、『更地』に記憶として残る家の痕跡も、ジンメルの言う「境界点」だ。「境界」を作って中に籠らざるをえない人間も、その「境界点」を介して宇宙に開かれている。『水の駅』は科白は一切ないのだが、唯一存在する音である、アルビノーニの「オーボエ協奏曲」とサティの「ジムノペティ」は、まるで天上の音楽のように聞こえた。そして『更地』の本上演では、(たぶん戯曲にはない)星散りばめる大空が、終幕直前に映し出されたが、これらはともに「宇宙に対して開かれている」ということを言っている。カントも定言命法を「星散りばめる大空の下に立つ人間」に譬えていた。つまり、星散りばめる大空の下でこそ、人間は自由で美しい存在になるのだ。なぜなら人間は、誰もが「永遠の今」を生きているのだから。

 

この上演では、原作の初老の夫婦が若夫婦に変更され、過去の家を回顧するのではなく、これから家を建てて新しい生活を始めようとしているようにも見える。舞台を見ただけでは、そこは十分に読み取れないが、しかし原作でも、「旅に行こうよ」と夫婦は何度も言い、旅に出ているし、全体でもっとも印象的な場面は、残された窓枠を手に持ち、夫婦が外を見ながら「窓ごっこ遊び」をする場面だから、境界点を自由に行き来する人間が主題だとすれば、これから住む家を想像しながら「ごっこ遊びをしている夫婦」に設定変更することも可能かもしれない。たしかに「更地」は、これまで家があった場所であるが、しかし、これから家がある場所でもありうる。演出の杉原邦生は凄い人だと思う。