[今日の絵] 4月前半

[今日の絵] 4月前半

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1 カリアティードの乙女 アクロポリス神殿

「カリアティードCaryatid」とは建築の支えとなる柱の彫刻のこと、頭にはバスケットがあり、アテナやアルテミスの神聖な饗宴に供するものを容れたとされる、カリアティードはやはり、アクロポリス神殿のように天に近い高所にこそ似合う

 

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2 Praxiteles : Apollo the Python-Slayer, c. 350 BC

「トカゲを殺すアポロン」というタイトルはプリニウスに由来するらしい、銅と石の象眼細工が施されたブロンズ像、プラクシテレスの大理石の「トカゲのアポロン」も腰を傾けた動性があるが、こちらはさらに躍動的な身体の傾きが美しい

 

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3 The head from a bronze statue of Apollo AD2~3ce

アポロンは、アフロディーテ(ヴィーナス)やアテナと同様、たくさんの彫刻が作られた。ギリシア人にとって、男性の肉体は女性と同様に美しいと感じられたのだろう、顔だけのこのアポロンも高貴な美青年だ。ブルガリアのソフィア考古博物館蔵

 

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4 Aphrodite, 400-200 BC

このアフロディーテ像は、全身の動性、そして上半身の流れるような傾きが美しく、顔の表情もある、粘土を素焼きしたテラコッタ製、アメリカのクリーブラント博物館蔵

 

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5 Mourning Athena

「歎きのアテナ」として有名なレリーフ、BC470年頃の作、高さ50cm強の大きさ、アテネ考古博物館蔵、アテナは知性、芸術、織物など多くのものの女神、哲学の神でもある、そのアテナがコリント式の兜を付け、深い歎きの中にある、何を嘆いているのか

 

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6 Bellini and Titian : The Feast of the Gods, 1514/29

たくさんの画家が「眠る女」を描いている、魅力ある主題なのか、文学でも『失われた時を求めて』はアルベルチーヌの寝姿を詳細に記述している。この絵はベッリーニの原画にティツィアーノが加筆した「神々の祝宴」の一部、ニンフであるロティスが、酒を飲み過ぎがのか、眠ってしまった、男の神の手が彼女の裾へ

 

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7 Henry Nelson ONeil : Pleasant Dreams, 1852

ヘンリー・ネルソン・オニール(1817~80)は、イギリスの画家で風俗をたくさん描いた、この少女はただ寝ているではなく「楽しい夢」というタイトル、きっと物語を読んでいるうちに寝込んでしまい、その夢を見ている、「眠る女」を描いた絵には「夢」というタイトルが多い

 

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8 Boldini : The Countess de Rasty Lying 1880

ラスティ伯爵夫人、横たわってはいるが、顔の表情や両手の感じからして眠り込んではいないようだ、片胸ははだけているが、首に巻かれたショールなど、身体の全体にどこか上品な感じがある

 

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9 Serebriakova : Sleeping Nude with a red shawl, 1930

セレブリャコワは女性のヌードをたくさん描いている、モデルはたぶん娘たち、これは1912年生まれの長女タチアナだろう、彼女はバレリーナとして活躍した人、しどけない姿だけれど、安心しきった寝姿は、母の娘への愛情を感じる

 

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10 Matisse : The Dream, 1935

これも「夢」と題されている、かなりアップの姿だが、両腕、上半身、顔が逆三角形を作る建築的均衡は、まさにマティスならではのもの、マティスの描く女性は他のどの画家にもない美しさがあるが、構図と色彩のバランスがその美しさの源泉であることが分る

 

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11 Suchitra Bhosle : Going to dream ...

こちらは現代インドの女性画家と思われる、眠っているのは20世紀の普通のOLか、一日の勤務を終えて疲れたのだろう、ベッドで一服したあと、その着衣のまま眠ってしまった、こういう「眠る女」は比較的新しいかも。  [明日から少し「今日の絵」を休みます]

今日のうた(131)  3月ぶん

今日のうた(131)  3月ぶん

少し狂って少し毀れてラジオ体操 (加藤久子『矩形の沼』、音楽+掛け声とともに行われるラジオ体操には、どこか不自然な感じがある、教師と大勢の者との「教練」関係が含まれるからだろう、このようにラジオ体操への批判的な視点は、川柳ならでは) 1

 

風景が動いていっただけの旅 (松永千秋、バスの団体旅行だろうか、あるいは新幹線の往復だけで時間の大半を消費した旅なのか、いずれにせよ、こういう旅も大いにありそう、作者は1949年生まれの川柳作家) 2

 

天井の目と目が合わぬようにする (榊陽子、布団にあおむけになっているのだろう、「天井の目」とは、天井の木目模様のある部分が「目」に見えるのか、あるいは、どこからということもないが、天井から自分が見下ろされていると感じるのか、作者は1968年生れの川柳作家) 3

 

干からびた君が好きだよ連れて行く (竹井紫乙(しおと)、「干からびた」と言われているのは人間だろうか、それとも、枯れた花を挿してゆくのか、まさか恋人では・・・、と思わせるところが面白い、作者は1970年生れの川柳作家) 4

 

のびあがる指あるいは手鎖のような管楽にひとは巻かれてうたう (井辻朱美『女性とジェンダーと短歌』2022、オーケストラの指揮者をまず見て、次に、指揮者を視線で追っている合唱団とソリストを見ているのか、指揮者の手指はオケと合唱の間に「鎖のような」絆を生み出している) 5

 

敵に弓引くしぐさに似て傘ひらくふつうに女がやるしかない (飯田有子『女性とジェンダーと短歌』2022、「ふつうに」が凄い、自分のジェンダー歌人はこのように詠う) 6

 

歩くのは地への口づけにほかならず爪先立ちでゆく昼の道 (飯田彩乃『女性とジェンダーと短歌』2022、歩くときは足の裏が地面に触れる、それを「地への口づけ」と捉えるのがいい、作者は大地に恋をしているのか、それとも人に恋をしているのか、あるいはその両方か) 7

 

(その連なりがうただというの?) にんげんの砦はほんとうにつまらない (井上法子『女性とジェンダーと短歌』2022、「にんげんの砦」とは何だろう、東京のような乱雑な都市の家屋かもしれない、それらはいくら「連なって」も、そこに抒情は感じられない) 8

 

どうやってそこに来たのか知らねども/渡りろうかとおるたび みつめる (今橋愛『女性とジェンダーと短歌』2022、前後の歌からすると、作者は小学校?の「渡りろうかを通るたび」に、校舎の端の5m位の高さにいつまでも引っかかっている「紺いろの髪ごむ」を見詰めてしまう) 9

 

海中に逆立つくぢらを助けんと仲間は来たり魚雷のごとく (梅内美華子『女性とジェンダーと短歌』2022、インドネシアのレンバタ島には、モリをもった人間が海中でクジラを殺す伝統捕鯨があり、それを詠んだ、刺されて「逆立つ」クジラに「魚雷のごとく」仲間が助けに来た) 10

 

瀬戸を擁く陸と島との桃二本 (高濱虚子1896、「瀬戸の音戸」と前書、呉市にある瀬戸内海の狭い海峡だ、現在は橋があるが当時は無かったのだろう、陸と島の端にそれぞれ、狭い海峡を抱くように、大きな桃の木が一本づつ咲いている) 11

 

遥かなる春着やこちへ来ず曲がる (山口誓子1946、「春着」は、本来は正月に女性が着る晴着だが、「春に着る衣服」という意味もある、昔は、遥か遠くでも「春着」はそれと分かったのだろう、最近のややユニセックスな洋装にも、「春着」というのはあるのだろうか) 12

 

魚ひかり春潮比重計浸せり (橋本多佳子1939、小豆島の海岸、塩田で詠んだ句、桟橋のような所に、海水の塩分を測定する「比重計」が浮かんでいるのだろう、そこへ「春潮」が寄せて、「魚がひかり、比重計が揺れている」) 13

 

入学試験幼き頸の溝ふかく (中村草田男『長子』、草田男は1933年に31歳で東大独文科を卒業、成蹊学園の教師になった、成蹊学園は当時、小中高校があった、中学を受験している小学生だろう、生徒たちを後から見ている、頭を深く垂れているので襟から「幼い頸の溝が深く」見える) 14

 

ゆく鴨に野のいとなみのはじまれる (加藤楸邨『寒雷』1939、春になると空を「ゆく鴨」に目がいくようになる、そして空から大地へゆっくり視線を戻し、「野のいとなみのはじまれる」と大きく受けとめる) 15

 

生ひ出でてきのふけふなる水草(みぐさ)かな (水原秋櫻子『葛飾』1930、「多摩川の春」という句群の一つ、川岸に近いあたりの水面には、わずかに「生ひ出でた」緑色の水草が、ここにもあそこにもあることに気づく、春の到来は情景を細部から変えてゆくのだ) 16

 

春の街馬を恍惚と見つつゆけり (石田波郷『鶴の眼』1939、1931年の句と思われるが、まだ「街」には馬がゆっくりと荷車を引いたりしていたのか、さっそうとした立派な馬が堂々と闊歩している、思わず「恍惚として見とれ、見ながら一緒に歩く」作者、春なのだ) 17

 

誰(た)そ彼と問はば答へむすべを無み君が使を帰しつるかも (よみ人しらず『万葉集』巻11、「もうちょっとで「誰なの、その男性は?」と母に尋ねられるところだった、どう答えていいか分からないので、先手を取って彼を帰してしまった、貴方のお使いなのにごめんなさい) 18

 

白河の知らずとも言はじそこ清み流れて世々にすまむと思へば (平貞文古今集』巻13、「今までは人に知られまいと忍んできたけれど、もう貴女を知らないとは言わないよ、清らかな河が底まで澄んでいるように、これから僕も君と一緒にずっと棲もうと思う」、「すむ」=澄む、棲む) 19

 

遭ふならぬ恋なぐさめのあらばこそつれなしとても思ひ絶へなめ (道因法師『千載集』巻12、「もし「遭わない恋」というのが慰めになるなら、つれない貴女なんかそうしたいけれど、いやだめです、それは少しも慰めにならない、僕は貴女を諦めることはできません」) 20

 

歎くらむ心を空に見てしがな立つ朝霧に身をやなさまし (女御徽子女王新古今集』巻15、「貴女に遭えずに大空に歎きます」という村上天皇の求愛の歌への返し、「お嘆きでいらっしゃるそのお心を、私は、朝霧になって、それが昇ってゆく空から拝見しましょうか」、巧みにかわした) 21

 

霞とも花とも言はじ春の色むなしき空にまづ著(しる)きかな (式子内親王『家集』、「春の空は虚空のように空しい、でも春の様子がはっきりとある、霞も見えないし、桜も見えないけれど」、式子にとって、春の空は「虚空のように空しい」、それは自分の人生を見ているからだろう) 22

 

私から逃れられずにしっとりと爪下にうかぶ永遠の半月 (小原史子「東京新聞歌壇」3月20日東直子選、「爪の半月を、本来の半月と照らし合わせて「私から逃れられない」特別な閉塞状態として描いた。体の小さな一部分に永遠を見出す着眼点が独特」と選者評) 23

 

大人になるのイヤだと言ったら友笑う私たち二十歳大人ゼロ歳 (松田わこ「朝日歌壇」3月20日、高野公彦/馬場あき子選、これが若者の実感ではないだろうか、法的には18歳成人になったが、明治時代と違い、今は誰しも「大人」になるのが遅い、実質は30歳弱くらいではないか) 24

 

産声の力強さや山笑ふ (小俣友里「東京新聞俳壇」3月20日、石田郷子選、「産声」と「山笑ふ」の取り合わせがいい、山も喜んでいるのだ、春の喜びとともに) 25

 

女子全員子の字の句会うららけし (大野宥之介「朝日俳壇」3月20日、高山れおな選、名前がすべて「~~子」で終るのは、年配の女性たちなのだろう、「うららけし」と受けたのがいい、春だもの) 26

 

麗しや皆働ける池の鴨 (松本たかし『松本たかし句集』1935、池の鴨たちはけっこうせわしく水に潜っては餌を採っている、それを「皆働ける」と詠み、「麗しや」とまとめた) 27

 

暖かや飴の中から桃太郎 (川端茅舎『川端茅舎句集』1934、金太郎飴は、断面のどこにも金太郎の顔がある棒状の飴を切ったもの、「桃太郎」のそれもあったのだろう、「桃」マーク付きの顔なのか、そして春だから「暖かや」と詠んだ)28

 

野に出れば人みなやさし桃の花 (高野素十、野ではなく、狭い我が家の庭だけれど、やっと桃の蕾が膨らんで咲きだした、同じ一本の樹の、枝の六割が赤い花、四割が白い花、今年は例年より遅いが、それでも素十の言うように、桃の花は「やさしい」) 29

 

泣いてゆく向うに母や春の風 (中村汀女1934、母親の姿が見えないので泣きながら歩いている小さな子、あっ、でもいた! あそこに、気づいた子は急いで駆けてゆく、「春の風」のように) 30

 

たんぽゝと小声で言ひてみて一人 (星野立子1954、知らない場所だろうか、自宅の庭だろうが、たんぽぽが咲いているのを見つけた、思わず「たんぽゝ」と声が出てしまった、周りには誰もいない) 31

 

[今日の絵] 3月後半

[今日の絵] 3月後半

16 Turner : St. Erasmus in Bishop Islips Chapel, Westminster Abbey 1796

「道」もまた室内に劣らず人が存在する場所である。都市の道を描いた絵を少し見ていきたい。道にいる人はただ歩いているのではなく、それ以上のことをしている、ターナー(1775~1851)のこの絵の人は、ウェストミンスター寺院の中のある箇所を眺めている

 

17 John Singer Sargent : ヴェネチアの通り 1882

ジョン・シンガー・サージェント(1856~1925)はアメリカ人だが、ロンドンやパリで活動、上流階級の女性画が多いが、この絵の女性はそうではない、生活の匂いのするヴェネチアの裏通り、女性は何か考えているようだ、右側の男は「おっ、いい女だ」と鋭い視線を投げかけている

 

18 Tom Roberts : Going home 1889

トム・ロバーツ(1856 - 1931)はオーストラリアの画家、メルボルンや周辺の絵を多く描いた、写実的な画風だが、これは印象派の影響を受けている作品、「帰宅」というタイトル、おそらく恋人か夫婦だろう、後姿の向こうに、雲間の夕陽と街の灯りが逆光となっているのがいい

 

19 Serebriakova : Collioure. A street with arch 1930

コリウールは地中海に面したフランスの町、この絵でも、いかにも南国の町だ、タイトルは「アーチのかかった通り」だが、生活の匂いのあふれる細い路地と、家と家を繋ぐ二階の廊下を支える小さなアーチ、路地にいるのも、買い物と子守の女性

 

20 Remedios Varo : Farewell 1958

道は人と人とが出会う場所だが、別れる場所でもある、この絵では、「さよなら」と言って別方向に去る恋人たちが影だけキスをしている、猫もそれを見ている。レメディオス・バロ(1908~63)はスペイン生れの女性画家、画風はシュールレアリスムナチスを避けメキシコに亡命

 

21 Antoine Blanchard : Champs Elysees

アントニー・ブランシャール(1910~88)はフランスの画家、パリの大通りの絵をたくさん描いた、この絵は1950年代に描かれたが、実景そのものではなく、19世紀の絵葉書も参照したというから、これは十九世紀のシャンゼリゼの光景ということになる、色彩が人に集中しているのがいい

 

22 Marianne von Werefkin : Ave Maria1927

マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(1860~1938)はロシア出身の表現主義の画家、カンディンスキーなどと活動、絵はどこかシュールで強烈な色彩感がある、この絵も、右側は神父らしく、左側は女性のみだが祈ってはいない、家々はゆがみ、何ともいえない不穏と不安が感じられる

 

23 Utrillo : Restaurant Bibet à Saint Bernard 1925

サン=ベルナールはフランス東部の町、「Bibet」という名のレストランなのか、看板には「Restaurant」とある、タバコ屋も兼ねているようだ、店に入るわけではなさそうな人々が道にいるが、彼らはなんだか楽しそうだ、左の方を見ているようだが、何を見ているのか

 

24 Jean-Étienne Liotard : トルコ風の服を着たフランス人マリア・アデレード 1753

今日からは「読む」がテーマ、大きなソファーにゆったり寄りかかって読みふけるのは上流階級の女性か、帽子も含めてトルコ風の服はとても美しい、普段着なのか、ジャン=エティエンヌ・リオタール(1702-1789)はスイスの画家、コンスタンチノーブルに5年滞在した

 

25 Manet : Woman Reading, 1880

19世紀の後半、パリには芸術家や作家が集まるカフェがあり、この絵は、ピガール通りにあるカフェ・ヌーヴェルアテネらしい、マネと彼のサークルの為にテーブルを二つ確保、左にビールのジョッキがあり、後方に赤い花も見える、女性が寛いでいる雰囲気がいい、画集を見ているのか

 

26 Anders Zorn : Emma Zorn, reading, 1887

エマはアンデシュ・ソーン(1860~1920)の妻、熱心に新聞を読みふけっている、何気ない日常の絵だが、新聞紙の白い大きな広がり、服の縦じま、薄く描いた背景、右上の箱の模様やガラス容器など、全体に薄明かりの室内だが、色彩のバランスがとても美しい

 

27 Ilya Repin : Leo Tolstoy in the forest, 1891

イリヤ・レーピン(1844~1930)はロシアの画家で、大衆や労働者の絵をたくさん描いたが、芸術家の絵も多く、たとえばトルストイを何枚も描いている、これは「森で休息するトルストイ」、しかしトルストイはぼんやりしているわけではなく、真剣な表情で本を凝視している

 

28 Serebriakova : Family Portrait, 1910

セレブリャコワはロシアの画家、この絵が描かれた1910年は、彼女の結婚後5年目なので、この家族は、彼女の夫や子供たちではないだろう、でも父親が教育熱心で家族全員に本を読みきかせるというのは、当時の知的な中産階級にはよくある光景だったのだろう

 

29 Matisse : Reading Woman with Parasol 1921

マティスの絵の特徴は、なによりも、背景を含めた造形の建築的均衡の見事さにある、この絵も、読書する女性の姿勢、視線の向き、ネックレス、両手、書籍、帽子とパラソル、横縞の机、背景の模様、そして色彩・・・、すべてが建築的に均衡している

 

30 Maurice Mendjisky : Madame Bourgeois reading 1921

モーリス・メジンスキー(1890~1951)はポーランド出身のフランスの画家、ルノワールモディリアーニピカソなどと交友、女性画をたくさん描いた、この絵は「読書するブルジョア・マダム」、たしかに労働者階級の女性は裸で読書するほど余裕ある住居がないだろう

 

31 Edward Hopper : Interior (Model reading), 1925

エドワード・ホッパー(1882~1951)はアメリカの画家、アメリカ人の、いかにもアメリカ人らしい生活をたくさん描いた、「室内interior」というタイトルの絵はいくつもあり、この絵は、身繕い中の女性が、つい下着のままで本を読み始めてしまい、熱心に読み耽っている

[今日の絵] 3月前半

[今日の絵] 3月前半

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1王朝以前のエジプト、ナカダ時代の女性の像、今から5500年前頃

「今日の絵」は人間の美しさを探究しているので、彫刻も加えたい。これは踊っている女性だろう、何という美しさ、ブルックリン・ミュージアム所蔵

 

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2 笑う埴輪 : 群馬県・藤岡歴史館蔵

6世紀のものといわれる、なんともこの笑顔が素敵ではないか!人型の埴輪は、祭祀や葬送の儀礼に使われたと想定されるが、正確には分っていないようだ、でもこの笑顔には、古代人も癒されたに違いない

 

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3 プラクシテレス : アポロン

ラクシテレスはBC4世紀のギリシアの彫刻家、このアポロン像は、前から見ると少年、後から見ると少女のように見える、マッチョではなく、やや中性的な男性像、私はルーブル美術館で1回見たが、東京芸大美術館にも来たので3回も行き、その美しさに感嘆した

 

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4ミケランジェロ : ダヴィデ=アポロン

ミケランジェロの最晩年の作で、未完成の作品、ダヴィデのようにもアポロンのようにも見えるのでこう呼ばれている、私は上野の西洋美術館で見たが、身体の柔らかな線が美しかった

 

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5 広隆寺 : 弥勒菩薩半跏思惟像

7世紀の作とされるが、朝鮮半島由来か日本の作かは分かっていない、現在ではほとんど木の地になっているが、最初は金箔だった、思索的で深みのある表情は、世界の彫刻でも特筆すべきものがある

 

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6 Joseph Caraud : La déclaration 1877

ジョセフ・カロー(1821~1905)はフランスの画家、タイトルは「告白」、「恋」は絵の主題としてたくさん描かれているが、恋愛にはルールがあることが分る、この絵では、彼の愛の告白を彼女は受け入れなさそう、二人は上流階級だと思われるが、18世紀の光景だろう

 

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7 Eduard Quitton: First Love Letter 1884

エドゥアルド・クイットン(1842-1934)はベルギーの画家、娘の部屋に勝手に入った両親が、棚から「初恋の手紙」を見つけてしまった、怒っている両親それぞれの顔が面白い、でも娘はもう大人の女性で、反発、両親は見合結婚させるつもりか、しかし娘には、もう好きな彼氏がいる

 

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8 Tissot : Bad News, 1872

ジェームズ・ティソ(1836~1902)はフランスの画家、「悪い知らせ」というタイトルが面白い、右側の二人はたぶん恋人だろうが、左側の女性は、二人とどのような関係にあるのだろうか、窓の外は大きな河のようだ、三人の手も含めて、物語のある絵

 

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9 Anders Zorn : The cousins 1882

アンデシュ・ソーン(1860~1920)はスエーデンの画家、彼は22才だから、この二人はたぶん彼の従姉妹たちなのだろう、椅子は一つ、姉の膝の上に妹が抱きかかえられるように乗っているのか、とても仲のよい姉妹

 

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10 Lautrec : The Sofa, 1896

当時、パリのカフェコンセール(音楽喫茶)では、女性同士の恋愛が盛んだったらしい、ロートレックレズビアンを「何にもまして素晴らしい。これほど単純なものに匹敵するものは考えられない」と言ったそうだ。だが、彼の描くレズビアン女性たちの表情は暗く、憂鬱だ。

 

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11 Picasso: L'amitié (Friendship, Two Nudes) 1908

「友情」というタイトルだが、描かれているのは二人の裸婦、女性同士の恋愛だ、「アヴィニヨンの娘たち」が1907年だから、この絵もキュビズム的に描かれ、幾何学的な強い線の構成が美しく、肉体の立体性が鮮明に描かれている

 

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12 Oskar Kokoschka : Two Nudes (Lovers), 1913

オスカー・ココシュカ(1886~1980)はオーストリアの画家、描かれたゴツゴツした肉体や幽霊のような表情に特色があり、これは若い時の作だが、恋人たちは悲しげだ、「タンゴを裸で練習しているようだ」と言った人がいるが、手足の動きなど、なるほどそんな感じがする

 

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13 Munch: Towards the Forest II, 1915

ムンクには、暗い大きな森に向かって立つ恋人たちを描いた絵が何枚かある、この絵の森も不気味だ、恋には何か大きな不安が内蔵しているのだろう、この森は、その形からして、不安というよりは恐怖を感じるくらい嫌な森だ

 

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14 Chagall : Lovers in pink, 1916

シャガールは恋人たちをたくさん描いているが、この絵は「ピンクの恋人たち」、ピンクは背景の色だが、恋人たちの心の色なのだろう、彼女は首をしっかりと抱きしめられ、下を向いているが、同時に彼の腕をしっかり抱き返している、その掌は彼の掌よりも大きい

 

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15 Paul Thurlby : Red Embrace

ポール・サールビ1971~はイギリスのイラストレーター、ガーディアン紙などに挿絵を描いている、この絵は、「赤い抱擁」というタイトルにふさわしく、シンプルで美しい

 

[オペラ] ヘンデル《ジュリオ・チェーザレ》

[オペラ] ヘンデルジュリオ・チェーザレ》 川口リリア 3月3日

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濱田芳通指揮、中村敬一演出。非常に面白いオペラだった。どこまでが原作通りで、どこが演出の付加なのかよく分らないが、中村は「バロックオペラは即興の要素が多い」と言う。今回はシーザーをバリトンが歌っているが、10月の新国ではメゾが歌うようだし、ヘンデルの初演時はカストラートが歌ったというから、彼のオペラはトランスジェンダー的な要素が突出している。今回、まずクレオパトラがキャピキャピした可愛い小娘なのに驚いたが、史実では、彼女は父の遺言により18歳で即位、当時7歳の弟トロメーオとともに「共同統治」として女王だった(弟は王)。キャピキャピしていてもおかしくない。そして、シーザー(坂下忠弘)も何となく頼りなく線の細い草食系男子っぽい造形だ。初演でカストラートが歌ったのだから、最初からそうなのだろう。とにかく本作は登場人物の誰もが面白い。弟トロメーオもカウンターテナー(中嶋俊晴)で、王なのにマッチョではないし、クレオパトラの従者ニレーノもカウンターテナー(弥勒忠史)で、こちらも最初から最後までナヨナヨしている。ポンペイウスの妻コルネリアだけが、いかにもローマ貴族らしい風格があるが、息子のセストは「ママー」が口癖のマザコン坊やで、「英雄」らしい男はどこにもいない。キャピキャピ・ガールとマザコン坊やと草食系男子ばかりで、誰もがまるで現代の普通の若者なのだ。初演時に観客は、こうした人物造形をどう受け止めたのだろうか?(写真下は、中央がクレオパトラ、その左がシーザー、右端がヘンデルさん)

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物語としては、シーザーがいきなりクレオパトラに恋するのではなく、クレオパトラ自身が自分の侍女に変装したリディアに恋をするところが、ミソ。侍女ならキャピキャピ少女でもおかしくないし、リディアを口説いたり抱いたりするシーザーも、まったくフツー、今どきの草食系男子。毛布をかぶったクレオパトラの横から恐る恐る入って、中でコソコソやっている。「色を好む英雄」シーザーらしからぬ身体所作だ。それにしてもクレオパトラを歌った中山美紀はよかった。この人、オペラはほとんど歌っていなくて、宗教音楽のソリストだったようだ。本作の音楽は舞曲が多く、祝祭感が溢れるコメディーなので、とにかく楽しいオペラなのだ。音楽は、動と静が繰返す構成になっており、物語を進める「動」の部分の次には、同一歌詞が何度も何度も繰り返されるやや退屈な「静」の部分が続く。ひょっとして初演の頃の観客は、相撲の升席のように、飲んだり食べたりおしゃべりしたりしながら鑑賞していたのだろうか。静の部分では飲み食い歓談し、動の部分では舞台に注目したのかな。ヘンデル本人に擬したダンサーが一緒に踊りまくったり、日本語混じりの幕間劇など、演出の即興的な工夫なのだろう。本当に素晴らしい上演だ。

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