[今日の絵] 8月前半

[今日の絵] 8月前半

1 de Vinci : Portrait of Ginevra de' Benci 1474

ジネーヴラ・デ・ベンチはフィレンツェの貴族で、有名な美女だった、彼女の16歳の時の結婚を記念して描かれたと言われている、ダ・ヴィンチの描く人物はとても美しいが、どこか冷たさのようなものも感じられる、観賞者の好みの問題かもしれないが

 

2 Rembrandt : The Laughing Man, 1630

「笑う男」、レンブラントの描くどの人物も、その人が「生きている!」という強い感じを伴っている、それも動物的エネルギーではなく、内面が深く描かれているので、その人の人格としての「生きている感」が凄い、この絵も然り

 

3 Franz Winterhalter : サビーン山の少女1834

フランツ・ヴィンターハルター1805~1873はドイツの画家、王侯貴族の優美な肖像画で名高い、ヴィクトリア女王など各国の王妃、王、王子、王女などほとんどが有名人だが、描かれた人物の「親しみやすさ」に人気があった、この絵は誰だか不明だがやはり上流の令嬢だろう

 

4 Renoir : Claude Monet (The Reader) 1874

ルノワールは友人モネの絵を何枚も描いているが、これは「読書する人」モネ、モネは画家だが非常に思索的な人だったのだろう、たった一枚のこの絵からそれがよく分る、それにしてもモネの内面が深く描かれている素晴らしい肖像画

 

5 Gogh : Portrait of a Woman 1885

これはチョークとクレヨンの絵、ゴッホには女性の絵がたくさんあるが、どれも「ごつい」感じがする、ごつい女性がたまたまモデルになったのか、それとも男女を問わず人間の「ごつい」ところに彼は魅力を感じていたのか、たぶん後者だろう

 

6 František Kupka : Lipstick 1908

フランティセック・クプカ1871~1957はチェコの画家で、現代抽象画の創始者の一人、この絵は特別に抽象的ではないが、表情や姿勢など単純化しているので、結果として非常にリアルな絵になった

 

7 Valentin Serov : Portrait of Helena Ivanovna Roerich, 1909

ヴァレンティン・セロフ1865~1911はロシアの画家、描かれているヘレナ・レーリッヒ1879~1955はロシアの神智学者で、インドやチベットなど中央アジアの秘境の宗教・文化を調査研究した、この肖像は若い時だが、たしかに個性的な学者の風貌だ

 

8 Matisse : Marguerite with Black Velvet Ribbon, 1916

マルグリット・エミリエンヌ・マティス1894~1982は、マティスのガールフレンドでモデルだったカロリーヌ・ジョブローとマティスとの間に生まれた、マティスの最初の子、単純な線と面で描かれているが、顔の造形が卓越しており、強い存在感がある

 

9葛飾北斎 : 千絵の海 下総登戸 1833頃

今日からは「海と人」、海辺あるいは海上では、人は内陸部とはやや違った姿をしている。北斎の絵では、人々は静かな湾内で潮干狩りをしている、女や子供もいて、人々の動きが生き生きしている

 

10 Monet : アムステルダムの港1874

モネは海の絵もたくさん描いている、海の「眺め」は何と言っても魅力的なテーマなのだろう、これは港だが、休日なのか、遊びでボートに乗っている人もいて、のどかな感じ

 

11ムンク : 夏の夜、人魚1893

「人魚」というからには海なのだろう、だが右端の女性には足があるから「人魚」ではない? 手前の岩のようなものが不気味なのと、「人魚」の表情がとても暗いのがムンクらしい

 

12 Johan Tiren : Summer Idyll 1900

ヨハン・ティレン1853~1911はスウェーデンの画家、ラップランドの人々をたくさん描いた、北欧の短い夏の海遊びはとても貴重なものだったのだろう、子供たちはまさに「夏の風景」だ、海遊びの歓びが画全体に溢れている

 

13 Felix Elie Tobeen : Bathers

フェリックス・トビーン1880~1938はフランスの画家、1910年代にピカソやブラックらと一緒に活動した、この絵は、水着の大きさからして、第一次大戦前だろうか、海水浴だけれど、もの静かな感じで、海岸も寂しげ、「芋を洗う」という感じはない、高級リゾートに来ているお嬢様たちか

 

14 Edward Henry Potthast : Beach Scene c.1920

エドワード・ヘンリー・ポタースト1857~1927はアメリカの画家、フランスで学んだ、海辺に集う人たちの絵をたくさん描いた、この絵は昨日と違って庶民の若者だろう、恋が始まりかけて、すこしピリピリしているのか

 

15 Hopper : Ground Swell, 1939

タイトルは「大きなうねり」、描いた画家も、描かれている人々も、いかにもアメリカ人とすぐ分かる絵だ、ホッパーの絵はすべてそういう感じ

[今日の絵] 7月

[今日の絵] 7月

11 Velázquez : 侍女たち 1656

フーコー『言葉と物』によれば、これはルネサンス期から古典主義時代への移行を示す画期的な絵。本来くっきりと描かなければならないモデルの国王夫妻は、中央の鏡の中にぼんやりと描かれ、存在感がなく、まったく目立たないのに対して、右側の、部屋の奥のドアから入ってくる訪問者と、左側の画家は鮮明に描かれる。絵と、絵の鑑賞者である我々との関係で言えば、(国王夫妻の描かれた)鏡に映っているのは、本来は鑑賞者の我々のはずで、つまりそこは絵の外部にある「視点」なのだ。絵の中に本来は描き込むことはできない絵の外部の「視点」の位置に、国王夫妻がいるという離れ業をベラスケスはやった。つまり、モデル/それを視ている画家/その画家が描いたその画を視ている鑑賞者という、本来の絵画空間が崩れ、視点が勝手に絵の内部に滑り込んだので、絵というものが「表象の戯れ」に変わってしまった。

 

12 Manet : フォリー・ベルジェールのバー 1882

昨日のベラスケス『侍女たち』と同様、マネの最後の絵も、伝統的絵画における視点と対象との空間関係を壊した「表象の戯れ」になっている。この女性の後にあるのは巨大な鏡で、鏡の端は女性の腰の後の金色の太い帯で示されており、それは前にある大理石のカウンターと平行である、つまり鏡は斜めではなく、その前に立つ女性とともに真正面から描かれている。とすれば、女性の背面は女性の真後ろにあるから本来見えないはずだが、どういうわけか右側に描かれており、しかも女性のすぐ横に男が見える、この男は女性のすぐ正面にいるから、鏡像でない実物は、正面の女性を隠しつつその手前に後ろ姿が描かれるべきだが、男の背中はない。つまり、これはありえない絵で、「表象の遊び」なのだ。(フーコー『マネの絵画』)

 

13 Magritte : 水平線の神秘 1955

フーコー『これはパイプではない』によれば、マグリットの絵は、似たようなものが続く面白さにあり、「類似」ではなく「相似」から成り立つ、「類似」は母型=オリジナルがあって、それに似るという関係だが、「相似」にはオリジナルがなく、「始まりも終りもなくどちら向きにも踏破しうる[互いに似る]系列」だ

 

14 Eastman Johnson : Interior of a Farm House in Maine, 1865

イーストマン・ジョンソン1824~1906はアメリカの画家、肖像画や、南部の人々の生活などを描いた。この絵は「メイン州の農家の室内」だから東北部で、寒冷地だからだろう、窓は小さい。窓辺で編み物をする老婆、戸外では子供たちが遊んでいる、今日からは「窓」がテーマ

 

15 Sir Walter Russell : The Morning Room 1907

ウォルター・ラッセル卿1867~1949はイギリスの画家、これはいかにも上流階級の夫婦、大きな窓の室内は朝から光が溢れている、プライベートなのにきちんとした服装をしている、夫人の足は少しお行儀悪いけれど

 

16 Makovsky : By the open window, 1910

コンスタンティン・マコフスキ1839~1915はロシアの画家、結婚式の花嫁などを描いた、この絵は昨日のイギリス貴族の家とは雰囲気が違う、窓から体を外に乗り出しているのは、庶民の若い娘だろう、ロシアの夏は短く、一杯に開け放した窓から明るい庭を見るのは快い

 

17 Nikolai Astrup : Weekend 1912

ニコライ・アストラップ1880~1928はノルウェーモダニズムの画家、この絵は、お嬢さんが「さあ今日はデートの日」と張り切っているのだろう、室内の明るい花が彼女の気分を表している、外には赤ん坊を抱いた女性がいる、姉だろうか、「私も早く結婚したいな」

 

18 Hopper : Moonlight Interior, 1923

タイトルは「月明かりの室内」、これだけ窓が大きいと月光が溢れ、昼のように明るい、風でカーテンがめくれ、裸の彼女はちょっとあせっている、でも室内に灯りはないから、外からはよく見えない。エドワード・ホッパー1882~1967はアメリカ人の生活をたくさん描いた画家

 

19 Dali : 窓辺の少女 1925

ダリ1904~1989の20歳過ぎ頃の作品、モデルは妹のアナマリア、彼女はこの頃喜んで兄の絵のモデルをつとめていた、この絵はまだ写実的ではあるが、丸みのある身体とその周囲に、直線による抽象的リズムが脈打っている

 

20 Matisse : Blue Interior with Two Girls, 1947

この絵では、色をもつ面が、よく見ると多くの線の集合になっている、マティスの絵はその「色彩」を強調されることが多いが、人や物の形を含めた「線」の描き方が独創的なのだと思う

 

21 Giulia Pintus : Full moon melancholy

ジュリア・ピントゥスは現代イタリアの女性イラストレイター、ちょっと太めの女性がユーモラスに描かれる、この絵も曲線の組み合わせと呼応がとてもいい

 

22 釣りのシーン : 古代エジプト 1427-1400 BC.

漁師がとても生き生きと描かれている、西テーベにあるケムナンの墓の壁画、アメンホテプ二世の治世、若い漁師たちだろう、モリのようなもので突き刺して仕留めた魚を意気揚々と運んでいる

 

23 デルフォイ神殿の巫女 : 古代ギリシアの壺絵より BC480

巫女は神託を得ようとしており、巫女の右に見える青い帯のようなものは、地面の割れ目から出るガス状のものを吸い込んでいるとみられる、巫女は力強い表情をしている

 

24 Caravaggio : 女占い師 1594年頃

右側の美少年が、ジプシーらしい美人の「女占い師」に手相を見てもらっているが、よく見ると、女占い師は指環をこっそり抜き取ろうとしており、少年はそれに気付いていないらしい、何やら物語がありそうな絵

 

25 Vermeer : 天文学者 1668

フェルメールは「天文学者」の他に「地理学者」も描いており、どちらも同一人物で、モデルはレーウェンフック(商人で、顕微鏡で初めて微生物を観察した)らしい、だからどちらも天文学者でも地理学者でもないが、しかしこの絵はそう言われてみれば天文学者に見えるのが不思議

 

26 Manet : タバコを吸うジプシー 1862

「ジプシー」は多くの画家が描いた主題だが、これはマネが30歳でまだ有名になる以前の絵、「ジプシー」は単一民族ではなく、その中では北インド系の「ロマ」が多数派といわれる、この絵もたぶん「ロマ」の娘、ある種の逞しい感じが見事に描かれているのではないか

 

27 Albert Anker : Der Gemeindeschreiber 1874

アンカーはスイスの画家、タイトルは「村の書記」という意味だろう、スイスでは地方の村や町、教区などの事務をする人だが、ランクは事務局長クラスまであるようだ、この「書記」も役人の表情をしている

 

28 Boldini : Newspaperman in Paris 1878

パリの新聞売りのおじさん、あまり売れないのだろうか、売ろうと必死な様子が描かれている、声をからしており、目付きはやや虚ろだ、ボルディーニの人物にはつねに生き生きとした動性がある

 

29 ベルト・モリゾ『素敵な農婦』1889

タイトルのように、農村の女性だが、そんなに田舎っぽくもない、アドルノが『ドン・ジョバンニ』のツェルリーナについて述べているように、18世紀末のヨーロッパではすでに、都市近郊の農村はかなり都市文明の影響を受けて、洗練されてきているのだろう、ましてこれは19世紀末だから

 

30 Lesser Ury : Mädchen im Romanischen Café (Berlin) 1911

「ベルリンにあるロマのカフェの少女」、「ロマ」は「ジプシー」の一部の「ロマ」だろう、カフェはヨーロッパ各地にあったのだろうか、この少女はそこでメイドとして働いているのだろう、レッサー・ユリ1861~1931はドイツのユダヤ系の画家

 

31 William de Leftwich Dodge : The clothesline 1928

タイトルは「もの干しロープ」だが、あきらかに人間を描いている、この女性は逞しく、いわゆる「洗濯女」かもしれない、19世紀の終り頃、フランスではアイロンなど含めた洗濯業が女性の労働力の大きな部分を占めた、ウィリアム・ド・レフトウィッチ・ドッジ1867~1935はアメリカの画家

今日のうた(135) 7月ぶん

今日のうた(135) 7月ぶん

 

炎帝や宇宙由来の吾のゐる (加藤草児「朝日俳壇」7月10日、小林貴子選、「リュウグウの砂からアミノ酸が見つかった。我々地球の生命も宇宙から来たのか」と選者評。夏の太陽の輝きと、ハヤブサ2が持ち帰った小惑星リュウグウアミノ酸とを重ねた、コスモロジーの句) 11

 

片恋に臥すサルビアを凝視して (櫻井朋子「東京新聞俳壇」7月10日、石田郷子選、若い女性の句だろうか、片想いに苦しむ作者は、ベッドに臥して、真っ赤なサルビアの花を凝視している、サルビアは室内なのか、窓の外の庭に咲いているのか、いずれにせよ作者の悲しみを象徴している) 12

 

ティーンズのマネキンの目の尖りかた「はい」か「いいね」で生き延びる世の (紡ちさと「東京新聞歌壇」7月10日、東直子選、今どきの若者はいつも周りの空気を読みながら生きているので、穏やかな眼差しをしているが、ティーンズのマネキンは「尖がった目」で自分を主張しているのか) 13

 

「訳あり」の野菜と果物並べられ「訳あり」だらけの人間が買う (篠原俊則「朝日歌壇」7月10日、馬場あき子/高野公彦選、スーパーか、物価高の今日、廉価の「訳あり」品は、懐の寂しい人が買うのか、賞味期限間近の弁当が夜廉価になると、待っていた高齢者たちが買うように) 14

 

瞬間のやはらかき笑み受くるたび水切りさるるわれと思へり (横山未来子『花の線画』2007、作者1972~は体が弱く車椅子生活の人、恋人ができたのだろう、彼の「瞬間のやはらかき笑み」を受けるたびに、自分が水で洗われた野菜になって「水切り」されるように感じる、美しい相聞歌) 15

 

君は腕の楕円のなかにわれを置くうしろに夏の雲を待たせて (江戸雪『百合オイル』1997、作者1966~を抱く彼氏の腕は大きな「楕円」となって、「腕のなかにわれを置く」、さらに「うしろに夏の雲を待たせて」という広々とした空間性がいい、素晴らしい相聞歌) 16

 

砂浜は海よりはやく昏れゆけり 伝えんとして口ごもる愛 (三枝浩樹、作者1946~の若い時の歌だろう、デートで彼女と海辺に来た、今日こそは告白しなければと思いつつ、なかなかできないうちに、日が暮れてすっかり暗くなってしまった) 17

 

寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら (俵万智『サラダ記念日』1987、海辺で彼氏とデートしている、しかし「優しく」感じるのは、海面の「寄せ返す波のしぐさ」だけ、彼氏との別れは近い) 18

 

ある愛のかたむきてゆくかそけさを母音推移のごとく歎かふ (岡井隆『αの星』1985、恋人との愛が徐々に「傾いてゆく」、それは英語の長母音が長い時代を経て変化し、スペルと発音が一致しなくなったのに似た「かすかな」変化だ、恋愛感情の衰えを巧みに表現) 19

 

山を越えて他藩に出でし夏野かな (高濱虚子1897、「広い夏野を端まで歩いたら、山を越え、県境も越えてしまった」、「他藩に出でし」がいい、明治30年だが、大きく変貌したであろう都市に比して、山野はあまり江戸時代と変っていないのかもしれない) 20

 

蚤殺すにも渾身の力以(も)て (山口誓子『遠星』、1945年7月21日の作、肋膜炎を患っていた誓子は、体力が大きく衰えていただけでなく、6月の大阪空襲で住居、家財、蔵書の一切を失っていた) 21

 

向日葵に天よりあつき光来る (橋本多佳子1937『海燕』、ヒマワリは「向日葵」とも書き、花が太陽の方を向き、太陽光を反射するという意味の字だ、たしかに向日葵は、「天より来る」「あつき光」を受け止めるのが向日葵たる所以) 22

 

熱の子の手の夏みかんころげ出す (飯田龍太1952『百戸の谿』、当時作者32才は山梨県境川村に住み、貧乏暮らしだった、「子」は長女公子8才だろうか、高熱を出した子の手に夏みかんを持たせたが、保てずに「ころがって」しまった、体力が弱っている) 23

 

蟻の列またぎて暫し見つつをり (森澄雄1950、31才の作者は腎臓病に苦しみながらも、子どもたちが生まれてきた、おそらくこの句も、子どもと一緒にいるときだろう) 24

 

蚊の声のひそかなるとき悔いにけり (中村草田男『長子』1934、不思議な句、人は蚊の高い音を聴いたら瞬間的に怒りで攻撃的な心理になるが、ひそかな弱々しい声だったので、逆に「悔い」の感情が現れたのか、さっきその蚊を殺しそこなったことの悔いか、それとも小動物を殺傷することへの悔いか、あるいはまったく別のことの悔いか) 25

 

見えもせむ見もせむ人を朝ごとに起きては向ふ鏡ともがな (和泉式部『新勅撰集』恋四、「大好きな貴方に、私はいつも見られていたいわ、そして私もいつも貴方を見ていたい、私は毎朝起きたら必ず鏡に向き合うの、そう、貴方がその鏡だったらいいのにな!」) 26

 

待ち待ちて夢かうつつかほととぎすただ一聲の明ぼのの空 (式子内親王『家集』、「待ちに待ったあの聲は、夢だろうか現実だろうか、よくわからないけれど、私の夢うつつの状態で、暁の空に、ほととぎすが一聲だけ鳴いたような気がする」) 27

 

朝戸を早くな開けそあぢさはふ目が欲(ほ)る君が今夜(こよひ)来ませる (よみ人しらず『万葉集』巻11、「あじさはふ」は「目」の枕詞、「朝の戸をそんなに早く開けないでよ、いつまでも向かい合っていたい私の彼氏が、昨夜からここにいらしているのよ」) 28

 

いで人は言(こと)のみぞよき月草のうつし心は色ことにして (よみ人しらず『古今集』巻14、「いやもう貴方って、口説く言葉ばかりがお上手なのね、露草で染めた色がすぐ変るように、すぐ他の女に心を移してしまうくせに」) 29

 

忘るるは憂き世の常と思ふにも身をやる方のなきぞわびぬる (紫式部『千載集』巻15、「恋人だった貴方のことを私が忘れてしまうのは、よくある男女の習いです、恋人だった貴方に私が忘れられてしまうのもそう、でも実際に忘れられた身になると、そのやり場のない辛さはひとしおだわ」) 30

 

床(ゆか)近しあなかま夜はのきりぎりす夢にも人の見えもこそすれ (藤原基俊『新古今集』巻15、「ああ、ずいぶん布団の近くで鳴くじゃないか、夜のこおろぎくん、静かにしてよね、彼女と夢で逢おうとしているのに、ダメになっちゃうじゃないか」、彼女に逢えないのをコオロギのせいにしている) 31

[今日の絵] 6月後半

[今日の絵] 6月後半

15 Modigliani : Madame Georges van Muyden, 1917

「ジョルジュ・ヴァン・ミュイデン夫人」はモディリアーニの知人なのか、彼の描く女性の美しさは、ある種のきわだった簡潔さに由来するのかもしれない、シンプルな顔、二次元平面的なドレスと、その紺色の美しい拡がり、そして肩から腕への優雅で流暢な輪郭線、それらがやや硬質で凛とした調和を生み出している

 

16 Matisse : スコットランド格子縞のコートを着たマティス嬢 1918

マティスは娘マルグリット1894~1982を何枚も描いた(大原美術館の絵は茶色のコート)、彼の妻メアリとの子ではないがメアリは大切に育てた、メアリもマルグリットも第二次大戦中レジスタンス活動に参加、マルグリットはゲシュタポに捕まったが強制収容所に送られる列車から逃亡した

 

17 Serebriakova : Portrait of N. Geydenreyh in Blue, 1923

ジナイーダ・セレブリャコワ1884~1967は、家族や友人、知人、働く農婦など、女性をたくさん描いた、娘をモデルにしたヌード画も多い、この絵はたぶん友人と思われる、セレブリャコワの描く人物はどれも眼が非常に魅力的で、そのため誰もが、生き生きとして美しい

 

18 George Spencer Watson : Woman in a Camisole 1932

ワトソン1869~1934は英国の画家、家族や知人など人物画が多い、この画も家族か、キャミソールは本来は下着だが、室内着にもなっていたようだ、ちょうど胸から上に見えている部分がバランス的に美しいので画家はこの絵を描いたのか、だが表情に生気がないのが気になる

 

19 Balthus

バルテュス1908-2001の描く女性は、「夢見るテレーズ」のように脚を開いているものが多い、そこが批判されるわけだが、この絵の女性は脚を閉じている、しかし脚を目一杯伸ばして椅子に座っている全体の体勢はとても印象的だ、女性のこうした体勢が美しいと感じているのか

 

21 Alfred Pellan : Jeune fille aux anemones 1932

ぺラン1906 – 88はカナダの画家、この「アネモネを持つ若い娘」は彼の若い時の作品、マティスの影響があるのか、身体のバランスと全体の色彩の配置がとても美しい

 

22 David Teniers:酒を飲む王様1638

食事の光景は画の大きな主題、誰と、どんな風に食事をするのかは、その人の人となりを表現しているからだ、ダフィット・テニールス(子、1610~90)はフランドルの画家、大衆の生活を描いた、これは、主人か客が「王様気取り」で飲んでいる楽しい食卓

 

23 Jacob Jordaens : 豆の王様の祝宴1642

ヤコブ・ヨルダーンス1593~1678はフランドルの画家、「豆の王様」とは、切り分けたケーキの中に一粒だけ豆が入れてあり、それに当たった人が王様役に(右端)、王様は疑似宮廷を主宰し「乾杯!」を繰り返す役目、民衆はキリスト教の行事にかこつけて宴会を大いに楽しんだ

 

24 Monet :  Le Déjeuner 1868

モネには「昼食」と題された絵が二枚あり、この絵は1870年の官展に出されたが、日常生活のプライベートな光景を描いたのが「急進的すぎる」として落選、正面の女性は2年後に結婚するカミーユ、右は二人の子ジャン1歳、手前空席がモネの席、左窓にもたれている女性は冷たい表情

 

25James Tissot :レストランの画家の妻 1885

昨日のモネ『昼食』は物語を感じさせたが、ティソ1836~1902の絵はどれも物語を感じさせる、この絵は「レストランの画家の妻」だが、画家とはティソなのか、それともティソ以外の画家か、振り向いている女性は誰の妻なのか、そこに同席している男性は誰なのか

 

26 Leonard John Fuller : Under the Verandah 1940.

フラー1891~1973は英国の画家、人物画や風景画を描いた、この絵は、お金持ちの大きな館で、二階のベランダの下がテラスになっている、そこでお茶している三人の女性、母親と娘二人だろうか、でも三人とも表情がさえない、何か物語がありそう

 

27 Grandma Moses :キルティング・ビー 1950

通称「モーゼスお婆ちゃん」ことメアリー・モーゼス1860~1961はアメリカの農婦で、70歳過ぎから絵を始めた、これは90歳の時の絵で、タイトルは「キルトを作る共同作業」、村人たちが集まって食事の用意もしながら作業やおしゃべりをしている、子どもや男性もいて、楽しそう

 

28 Sally Storch : タイトル不明

サリー・ストーチ1952~はアメリカ・カリフォルニアの画家、彼女は街の風景、室内、食堂、厨房などの人をたくさん描いているが、光景はどれも1950年代のアメリカのように見える、この絵も、その頃のレストランではないだろうか(「今日の絵」明日から半月ほど休みます)

今日のうた(134) 6月ぶん

今日のうた(134) 6月ぶん

 

衣更(ころもがえ)駅白波となりにけり (綾部仁喜、6月1日は「衣更え」、女子高校生の紺色の制服が、夏の白色の上衣に変る、一人だとどうということもないけれど、駅のホームに大勢いると、「駅白波になりにけり」) 1

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな (村上鬼城、田を「打つ」と言っているから、水を入れた後の「代掻き」ではなく、水を入れる前に硬い土を鍬で掘り起こしているのか、友人の指摘で分かったのだが、「畑打つ」と同じで、先祖代々、この田を苦労して「打ってきた」という句だろう) 2

 

田を植ゑるしづかな音へ出でにけり (中村草田男、昭和50年代に田植え機が使われる以前の手作業の「田植ゑ」だろう、「しづかな音」という形容が卓越、苗を植え込みながら少しずつ足を前に移動するとき、水が動く音がするのだろうか、集団作業だが誰もしゃべっていない。今、鴻巣の我が家の周りでも田植えの真っ盛り) 3

 

青梅に手をかけて寝る蛙かな (一茶1791、一茶29歳、もっとも若い時の句、でも小動物を愛した一茶らしい句だ、蛙が「寝る」のは変だが、そう見えたのだろう) 4

 

紫陽花剪(き)るなほ美(は)しきものあらば剪る (津田清子、庭に咲いているアジサイを剪る、まず一番大きく美しく咲いている花を剪った、しかしよく見ると、さらに美しそうなのが別にある、そちらも剪る、というわけで結局、幾つも剪ってしまった) 5

 

早乙女に早苗さみどりやさしけれ (池内友次郎、「早乙女」=田植をする女、田植は短期間に人手を要するので女も田に駆り出された、紺絣の着物を着て、綺麗に並び、歌いながら早苗を植えたという美しい話もあるが、本当だろうか、現代は機械田植だから早乙女は必要ない) 6

 

雨二滴日は照りかへす麥の秋 (虚子、ちょうど麦秋の今頃は、空がさっと曇り、僅かに雨滴があって、また日が照り返すことがよくある、実に鋭い虚子の句) 7

 

薄き紙に接してわれら破らむと焦ればきみの去る足音す (小野茂樹『羊雲離散』1968、作者19歳の時の歌、15歳の時からの恋人青山雅子は別の男性と結婚すると告げ、作者の元から去る、彼女は10年後にその男性と別れ、作者の元に戻ってきて再婚するが、この時点でそれは分らない) 8

 

六月の傘より落つる雫ならむ気づかず過ぎる小さき愛も (今野寿美『花絆』1981、作者はゆっくりと時間をかけて恋を育み、成就させた人、これはたぶん六月に雨の中をデートした直後だろう、二人が別れた後で、今交されたばかりの会話の彼の言葉を思い出して、そこに愛を感じる) 9

 

さびしさは孤りの奢り逆光に黒く巨いなる大隈講堂 (小島ゆかり『水陽炎』1987、愛知県出身の作者は早稲田大学に入学したが、マンモス大学になじめず孤独感に悩まされた、自分の「さびしさ」を「孤りの奢り」と自覚する感性が鋭い) 10

 

深夜から早朝へ日がくるくるとうつるさみしさ虫と話している (吉沢あけみ『うさぎにしかなれない』1974、作者は群馬大学を卒業して教師になったばかり、恋人とうまくいっていないのか、つらい歌がたくさん詠まれている) 11

 

野の花の添ふ君が墓額づきて四十年後の心を供(そな)ふ (沢口芙美『樹木地図』2002、作者1941~は60年安保闘争の頃、岸上大作の恋人だった、岸上は60年に自死した時のノートに「失恋自殺」と書いて沢口の名を挙げた、以来作者は30年間歌を断ったが、心はずっと彼に寄り添っていた) 12

 

抱きあへぬ魚ひとつがひ池の辺のわれらのさまを長く目守りぬ (坂井修一『ラビュリントスの日々』1986、作者は東大工学部院生、恋人の米川千嘉子は早稲田の学生、本郷キャンパスでデート、彼女の肩を抱こうとしたらスルリと逃げられた直後の歌、三四郎池の魚に見られたか、彼女の歌は明日) 13

 

実験室のむかうの時間と夏樫のかたき光を曳きてくるなり (米川千嘉子『夏空の樫』1988、作者は恋人の東大工学部院生坂井修一と本郷キャンパスでデートした、昨日の歌のようなことはあったが、二人の恋は進展する、実験を終え樫の木の間から現れる彼が見えた時のときめき) 14

 

折り癖のついてしまったきんいろの折り紙のよう 性愛なんて (toron*「東京新聞歌壇」6月12日、東直子選、身体が折り重なる性愛を折り紙に喩えた、「きんいろの折り紙は・・普通の色紙よりも強く折り癖がつく。その不可逆性を性愛になぞらえた物理的な視点がクール」と選者評) 15

 

長病みてわがまま気儘を言ひし夫やさしき色の骨を遺しぬ (窪田宣子「朝日歌壇」6月12日、高野公彦選、火葬場で夫の骨をひろっているのか、その「やさしき色の骨」に驚く妻、よく「わがままや気儘を言った」けれどやさしい人だった、悲しみの中にキラリと夫婦愛が光る) 16

 

つばくらめ海物語一身に (高垣光利「朝日俳壇」6月12日、高山れおな選、「海を越えて来た存在への憧れが「海物語」の造語になった」と選者評。そうだ、燕は海を越えて来るのだ、埼玉県の内陸部に住む私は、燕をよく見るのに、そのことをつい忘れていた) 17

 

はつなつや足なげなげだして妻若し (宮本拓「東京新聞俳壇」6月12日、小澤實選、「はつなつというみずみずしい季節が来た。靴下も履かない足を投げ出して、妻の若さも匂い立つようだ」と選者評) 18

 

少年ありピカソの青のなかに病む (三橋敏雄『まぼろしの鱶』1966、「青」は季語にはないからこれは無季の句、だがこの「青」は凄く効果的な一語だ、ピカソの「青の時代」は確かに「病んだ」ように人が描かれている、その絵を見ている少年も「病んでしまう」ような「青」) 19

 

心澄めば怒涛ぞきこゆ夏至の雨 (臼田亜浪、夏至の雨の中で海の怒涛の音を聴いている、「心澄めば」がいい、取り合せの妙か、今日は夏至の日) 21

 

地下鉄の迷路や梅雨の傘提げて (舘岡沙緻、東京の地下鉄は、乗換の連絡通路がジャングルのように分りにくい、同じ駅名なのですぐ繋がるかと思うと、まるで迷路のようで繋がらない、隣りの駅まで歩くくらい歩かされる、梅雨時には濡れた傘を持って歩くのだから、やりきれないよ) 22

 

相(あひ)見ては面(おも)隠さゆるものからに継ぎて見まくも欲(ほ)しき君かも (よみ人しらず『万葉集』巻11、「朝になって貴方と顔を合わすと、つい恥かしくなってうつむいてしまう私、でも引き続いてすぐまた貴方の顔を見たくなるの」、新婚直後の妻の歌、なんて可愛い!) 23

 

かねてより風に先だつ波なれや逢ふことなきにまだき立つらむ (よみ人しらず『古今集』巻13、「貴女にいよいよ逢うのだと思うと嬉しくて仕方がないです、でもどうしたわけか、早くも私たちが逢うという噂がすっかり広まっています、まだ逢ってもいないのに、あぁ、どうしたんだろう」) 24

 

衣手に落つる涙の色なくは露とも人に言はましものを (二条院参川内侍『千載集』巻12、「忍ぶる恋の心をよみ侍りける」と詞書、「貴方が愛しくて愛しくて、涙が止まりません、でも人にはとても言えないのです、もし言えるのならば、これは「つゆ」ですとでも言いたいわ」) 25

 

忘れても人に語るなうたた寝の夢見て後も長からじよを (馬内侍新古今集』巻13、「人に物いひ始めて(=ある人と愛し合うようになって)」と詞書、「何があっても、私たちの恋を人に言わないでね、今こうして二人で見てる夢も、夜は長くないから覚めるかもしれないわ」、忍ぶ恋は辛い) 26

 

春秋の色の他なるあはれかな螢ほのめく五月雨の宵(よひ) (式子内親王『家集』、「春にも秋にも美しい光景はたくさんあるけれど、これだけは春にも秋にもない、梅雨の中に螢がぼーっと光る、この美しい夜は」) 27

 

常(つね)よりもあはれなりつる名残りしも辛き方(かた)さへ今日は添ひぬる (永福門院『玉葉和歌集』巻10、「昨晩貴方は、いつもよりずっと優しかった、その余韻が、こうして後朝の別れの後までずっと残って、ますます貴方が恋しくなって辛いわ」、明日から半月ほど「今日のうた」を休みます) 28