[演劇] デュレンマット『加担者』

[演劇] デュレンマット『加担者』 下北沢・駅前劇場 9月2日

(写真↓は舞台、倉庫の地下5階で、死体を溶解して下水に流す作業が行われている、事実上の主人公の3人は、左から、(マフィアの)「ボス」、警察幹部の「コップ」、生物学者の「ドク」(=ドクター、博士)、そして青い箱は地上から運ばれてきた死体が入っている)

『物理学者たち』『貴婦人の来訪』に続いて、昨年から3度目のデュレンマット。どれも演劇として傑作だが、本作も凄い。何よりも人物造形が深く、アリストテレス(『詩学』)の言う、現実の生の「必然性のある可能態としての再現」になっている。科学者が悪に「加担する」仕方も、『物理学者たち』よりさらに現実味がある。私はとりわけ、最後まで「加担しない」警察官コップという人物に衝撃を受けた。(写真↓は、左からドク[小須田康人]、コップ[山本亮]、ボス[外山誠二]、三人とも名演で、本当の名優だ)

コップが、ボス以下のマフィアの組織を破壊しようとするのは、正義感からではない。動機はあくまで私怨で、若い時にボスに撃たれて身体を破壊されたことへの復讐である。しかし彼は、最後に国家の最高幹部から派遣された殺し屋に殺される直前、ドクに対してこう言う、「けれどもほんの一瞬だけでも私はこの商売の破壊的な活動を止めたのだ。何のためだと思う? 結局のところ人は自分に対して何らかの形で敬意を払うことができなければならないのさ」「死ぬ者はもう加担しないよ」。この科白は、劇全体のクライマックスであり、デュレンマットがもっとも言いたかったことだ。(写真↓は、ボスとドク、そしてボスと同時にドクの恋人にもなった若い女アン、彼女はそれでボスに殺されるが、ドクが死体を溶解していることは最後まで知らない)

『物理学者たち』1962は、キューバ危機における「核戦争による世界の終り」の危機感を背景に書かれた。『加担者』は、形は違うがやはり「世界の終り」を予感させる。それは、人々の欲望をどこまでも肥大化させる資本主義が極限にまで達し、誰もが利益に与ろうとして悪に「加担する」ことになり、その結果、人々の激しい対立と内紛と闘争によって「世界は終わる」という予感だ。2022年の世界の現実は、それに一歩近づいているのではないだろうか。そう感じさせる作品だった。

[演劇] マゾッホ原作『毛皮のヴィーナス』

[演劇] マゾッホ原作『毛皮のヴィーナス』 シアター・トラム 8月31日

(写真↓は終幕、ワンダ(高岡早紀)とゼヴェーリン(溝端淳平))

マゾッホ原作の小説を、アメリカのD.アイヴズ1950~が演劇化2011したもの。性倒錯を表わすとされる「マゾ」や「サド」の名称は、それぞれ作者名からきており、「マゾ」は、オーストリアの作家マゾッホ1836~95が1870年に書いた『毛皮のヴィーナスVenus in Pelz』に由来する。「毛皮」は、ティツィアーノ「鏡を見るヴィーナス」のヴィーナスが毛皮を身に付けていることに由来するが、マゾッホの原作では、南国の官能的なヴィーナスが、キリスト教の厳しい性道徳が支配する寒いヨーロッパの北国で、防寒のために仕方なく毛皮を着ているという設定。(以下、写真↓は舞台)

アイヴズの演劇では、ワンダ役の女優を募集するオーディションで、演出家が、やってきた女優をテストしているうちに、二人がワンダとゼヴェーリンに成り切ってしまうという、劇中劇の二人芝居になっている。とてもうまい設定だ。枠組みとしては、演出家と女優は、支配する/される側にありながら、劇中では、男は、女に鞭打たれて快感を得るという、支配される側に置かれる。原作でも、実は二人の立場は、ヘーゲルの「主人と奴隷」の弁証法のように、たえず逆転するのだが、このアイヴズ版が面白いのは、最後になって、男と女が互いに相手の科白をしゃべり演技することによって、この逆転がとても印象的に呈示される点にある。演出家による女優のオーディションという場面では、互いにジェンダーを替えて演じてみることもありなのだ。「マゾヒズム」が主題というよりは、フェミニズム的転倒に重点を置いているように見えるので、びっくりして原作を読んでみた。驚いたことに原作そのものがそういう作品なのだ。そもそも「マゾヒズム」としては、鞭打つ側は男女いずれでもありうるが、マゾッホの原作では女が鞭打つ側なのも、何か意味があるのだろう。

原作の最後で、主人公のゼヴェーリンはこう言う、「女というものは、自然が産み出したものですが、現在のように男が女を養い育てている限り、女は男の敵なのです。女は、男の奴隷か、あるいは男の暴君か、いずれかでありうるだけで、決して人生をともに歩む同伴者ではありえません。女が男の同伴者になることができるのは、女が男と権利において平等になり、教養と仕事において対等になるとき、そのときに初めてそうなるのです」(ドイツ語原文から植村の訳)。1870年にマゾッホがこのように言っていることを知って、私は本当に驚いた。『毛皮のヴィーナス』は、マゾヒズムを讃えているのではない。どちらかが支配する側/される側になるのは、男にとっても女にとっても辛い不幸な事態なのだ、と主張している。天秤が完全に釣り合うことは難しく、つねにどちらかに傾きながらまた反転するように、本来は対等な人格同士の関係であってほしい男女の性愛も、つねに一方に傾きがちで、完全な均衡は難しい。これこそが、一部の人にとってだけでなく誰にでも起きうる、悲しむべき「マゾ/サド」問題である。マゾッホの原作がそれと正面から向き合っているのに、そのことが見落とされがちだったが、アイヴズ版の演劇でそれがより可視化された。高岡も溝端も名演だった。

 

[今日の絵] 8月後半

[今日の絵] 8月後半

20 フランツ・ヴィンターハルター : 大公女オリガ・ニコラエヴナ1856

今日からは「花と女性」、女性の肖像画には花も描かれていることが多い、互いに引き立てあうのか、この絵ではバラが手前に突き出すように保たれている、モデルは皇帝ニコライ一世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの次女、画家1805~73は宮廷肖像画で名高いドイツの画家

 

21 Monet : La liseuse 1874

タイトルは「読書好きの女性」、大きく拡がったスカートの上に白い花びらが散っている、そして手前の草地には黄色い花、そして右奥にもたぶん花がある、モネのこの絵では、花は光を発する光源のようなものなのか

 

22 Renoir : うちわを持つ女 1881

1879年頃からルノワールは画家として高く評価され始めたが、彼は、当時印象派に流行していた日本趣味の影響を受けなかった。これは例外で、女優ジャンヌ・サマリーに日本製の安っぽいうちわを持たせている、しかしうちわよりは、左側の花がとても印象的だ

 

23 Georges Seurat : 日傘の女1884

ジョルジュ・スーラ1859~91は新印象派と呼ばれたフランスの画家、点描を用いて、絵を見る人の視覚において色を合成した、この絵は点描ではなさそうだが、花の形は判明ではなく、花が「図」であるよりは「地」になっている感じで、全体の色彩がとても美しい

 

24 Gauguin : 未開の物語 1902

翌年死んだゴーギャンの最後の作品の一つ、右側は少女、中央は少年、左側はブルターニュで聖書論議を戦わせたメイエル・デ・アーン、この絵でゴーギャンはそれまで研究してきた様々な神話を集大成したとされる、手前、右、上部の花は何か象徴的な意味をもっているのだろう

 

25 藤島武二 : 匂い1915

中央にある小さな美しい容器は「鼻煙壺」(=嗅ぎ煙草入れ)、左側の花と鼻煙壺の組み合わせによって、タイトルのように「匂い」を楽しんでいる女性を描いているのか、女性の表情もそんな感じがする、身体はやや立体感に乏しいが、花、花瓶、テーブル、身体の全体的均衡が素晴らしい

 

26 児島虎次郎 : 朝顔1916 大原美術館

児島虎次郎1881~1929は岡山出身の洋画家、大原孫三郎と親しく大原美術館の基礎となった絵は彼がヨーロッパで収集した、この絵は、少女が爪先立ちに背伸びして、ジョウロで朝顔に水をやっている、その身体の動性がとても美しい、花と人を一緒に描く意味がそこにある

 

27 Charles Courtney Currin : Betty Newell 1922

チャールズ・コートニー・カラン1861~1942は、女性をたくさん描いたアメリカの画家、この絵のタイトルは少女の名だが、花が背景というわけでもない、写真でいえば少女にも花にもともに等しく焦点が合っている

 

28 Matisse : The Daisies 1939

天秤の両側が中心でぴたっと釣り合うように、複数の形/色彩の拡がりが、あたかもベクトルのように絶妙に均衡し、それぞれの単純な線に「力」がこもっているのに、全体が安定している

 

29 Edward Cucuel : Young woman reading in the garden

エドワード・キュクエル1875-1954は、アメリカの印象派の画家、これは「庭で読書する若い女性」というタイトルの二枚組の一枚、一枚目は熱心に本を読んでいるが、二枚目は少し疲れたのか本を頭に当ててちょっと休んでいる、花に取り囲まれてリラックスしている感じが優美

 

30 Picasso : 花とジャクリーヌ 1954

モデルはピカソの二番目の妻ジャクリーヌ・ロック1927~1986、ピカソは1953年に彼女に一目惚れし、毎日バラの花を持参して求愛した、それ以来、彼女を400枚以上も描いている、この絵もバラの花と思われるが、単純な線で彼女の美しさをシャープに表現しており、花や衣服との均衡もすばらしい

 

31 Chagall : ヴァヴァの肖像 1966

1952年、シャガールはヴァランティーヌ・ブドフスキー(ヴァヴァ)と知り合い、結婚。彼女はその後30年間、シャガールのミューズで、それ以降の彼の絵の女性はヴァヴァがモデル、この絵の彼女は61歳、花と並んで一緒に傾いているのがいい

今日のうた(136)  8月ぶん

今日のうた(136)  8月ぶん

 

みんな詩を書くのがすきでわがままでみんな蛍を見たことがない (湯島はじめ「東京新聞歌壇」7月31日、東直子選、小学生だろうか、誰も蛍を見たことがないけれど、「蛍」の詩をじゃんじゃん書いている、ちっとも悪いことじゃない、江戸時代の邦画家だって見たことないゾウやライオンを描いた) 1

 

五十年使い続けた国語辞書「過密」はあれど「過疎」なきを知る (河尻伸子「朝日歌壇」7月31日、佐佐木幸綱選、「この半世紀の日本を考えるとき「過密と過疎」がキーワードの一つなのかもしれない」と選者評) 2

 

粗熱を取るかに夕立過ぎにけり (菊地壽一「朝日俳壇」7月31日、小林貴子選、「料理の手順に「あら熱を取る」があるが、夕立がそんな感じで通り過ぎたとは、合点」と選者評) 3

 

蝉の穴もどりくるものなかりけり (折戸洋「東京俳壇」7月31日、石田郷子選、「こう言われるとなんだかとても不思議なことのように思われる。羽化したら二度と戻ることはない。人間と違って家を持つことがない生き物たち」と選者評) 4

 

皿鉢(さらばち)もほのかに闇の宵涼み (芭蕉1694、「日はとっぷり暮れて、すっかり暗くなったなぁ、真っ白な皿鉢が闇の中に白く浮かび出ているのが、ほの見えて、ことさら涼しく感じられるよ」、闇の中に浮かんだ皿鉢の白さという視覚状況が涼しさを呼ぶ、この秋に芭蕉は没した) 5

 

水打てや蝉も雀も濡るるほど (榎本其角、「(夏の暑い日の夕方、私は弟子の家に招待されると、奥さんが打ち水をしてくださる)、いやぁ、打ち水はいいですね、涼しいなぁ、樹に止まっている蝉も雀もびっしょり濡れるくらい、じゃんじゃん水をかけましょう!」、其角らしい威勢のよさ) 6

 

水深く利鎌(ときかま)鳴らす真菰刈(まこもかり) (蕪村『句集』、「鎌が水を離れる瞬間、水が吹き上がるのと一緒に「シャッ」という切れ味鋭い音がする、水中のかなり深くから、水を切るようにして、丈の高い真菰を切り出しているんだ、すごい」、鎌が水を切る音を鋭く詠んだ) 7

 

いざいなん江戸は涼みもむつかしき (一茶1812『七番日記』、「いなん」=「帰ろう」、50歳の一茶はまだ独身、江戸の暮らしも生きにくくなってきた、俳句で身を立てる目途もつかず、いよいよ故郷の柏原に帰りたくなった、翌年ついに帰郷して結婚する) 8

 

蝋燭を一つ点(とも)して恐ろしきわれらが閨をうかがひにけり (北原白秋『桐の花』1913、当時26歳の白秋は隣家の人妻である松下俊子と激しい恋に陥った、「われらが閨」とは白秋の部屋か、このあと「君へす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」の後朝の別れとなる) 9

 

はつはつに触れし子ゆゑにわが心今は斑(はだ)らに嘆きたるなれ (斎藤茂吉1913『赤光』、「おひろ」と題した相聞歌群の一首、「おひろ」は長野県出身の少女、ある日突然郷里に帰ってしまった、別離の悲しみの中で彼女を回想する、「ちょっと触れた」だけで恥ずかしがる可憐な少女だった) 10

 

生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最期(いまは)の息に耐へにき (吉野秀雄1944、吉野の妻「はつ子」は胃がんで亡くなった、その病床のベッドで死の直前、彼女は、作者を「いとしみ」、作者の「髪を撫でる」ことによって、自分の「最期の息」=苦しい呼吸に耐えようとした) 11

 

どのように窓ひらくともわが内に空をなくせし夏美が眠る (寺山修司『空には本』1958、新婚の妻「夏美」を詠んだ瑞々しい愛の歌、朝目覚めて「窓を思い切って大きく開いた」が、ベッドに「眠っている夏美」は目を覚まさない、夏美は「わが内に空をなくして」夢の中にいる) 12

 

夜更けて一途にものを書きつげる夫の肩のへはつか息づく (河野愛子『木間の道』1955、新婚の夫を詠んだ瑞々しい愛の歌、深夜まで「一途にものを書き継いで」いる夫、その脇にじっと座って見詰めている私、張りつめていた夫の「肩の辺がわずかにゆるんだ」、終わったのかしら) 13

 

小心に愛したと奴は言うんですよ 快き誤解とおもうが如何に (岡井隆『斉唱』1956、未来短歌会の福田節子という若い歌仲間が夭折した、歌人の相良宏は彼女を追悼する歌で、「僕も岡井さんも貴女を小心に愛していました」と詠んだ、しかし岡井は「それは誤解だよ」と優しく相良を慰めた) 14

 

年を経て相逢ふことのもしあらば語る言葉もうつくしからむ (尾崎左永子『さるびあ街』1957、若い作者が夫と離婚するときの歌、「うつくしくない言葉」で激しい遣り取りがあったのだろう、「もし年取って逢う時があれば、私たち美しい言葉で語り合えるのかしら」と、悲しい別れ) 15

 

濃き日蔭ひいて遊べる蜥蜴かな (高濱虚子1927、真夏の照りつける太陽の下では、トカゲも下に「濃い影」が映る、その濃い影も一緒に遊んでいるごとく活発に動くから、全体の動きがとても速くて面白い) 20

 

一角の稲妻天を覆はざる (山口誓子1944『激浪』、いかにも誓子らしい句、「天の一角」に強い稲妻が光ったのだろう、一瞬「天を覆う」かと思ったが、ちょっと足りなかった) 21

 

月光にいのち死にゆくひとと寝る (橋本多佳子1937『海燕』、この年の9月、38歳の多佳子は夫の橋本豊次郎50歳を失う、豊次郎は小倉の櫓山荘を設計した建築家、作者には4女が残された、この句は夫との愛を詠んでおり、後年の「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」1948を思わせる) 22

 

灼け灼けし日の果電車の灯もかがやか (中村草田男1941『来し方行方』、「灼熱のような太陽が照った真夏日も暮れて、西の空は夕焼けが美しい、そして、やや薄暗い地平を走る電車の灯が輝いている」、東京の夏のある日の夕暮れ) 23

 

ひぐらしに真近く浴み了るひと日 (飯田龍太1949『百戸の谿』、「夕方、風呂場からは見えないが、ごく間近で蝉の「ひぐらし」が鳴いている、ゆったりとした気持ちで湯浴みを終え、こうして一日が終る」) 24

 

白桃や満月はやや曇りをり (森澄雄『雪櫟』1954、「目の前に白桃が置かれ、そして空には満月が見えている、両者が同時に視覚されると、互いに影響を与えるのだろうか、くっきりと明るい白桃に対して、満月は「やや雲って」いるように見える) 25

 

梓弓末(すえ)に玉巻くかく為為(すす)ぞ寝なな成りしに奥を兼ぬ兼ぬ (よみ人しらず『万葉集』巻14、「僕は、梓弓の先に玉を巻くように大切に大切に君を扱って、まだ寝ることもないままにここまで来たのも、君と結婚しようと先々のことを考えればこそなのに、あぁ、君は別の男に寝取られてしまった」) 26

 

いで我を人なとがめそ大舟のゆたのたゆたにもの思ふころぞ (よみ人しらず『古今集』巻11、「心が揺れに揺れて、まったく落ち着かない、そんな僕だけど、どうかとがめないでください、貴女を激しく恋していればこそ、大きな船が波に揺られるように、こんなに激しく揺れているのだから」) 27

 

狩り人はとがめもやせむ草しげみあやしき鳥の後の乱れを (相模『千載集』巻15、「元カレの貴方が、私が別の男性と付き合っていると聞いて、文句を言ってきたけど、今付き合っている新しい彼氏はきっと言うわよ、貴方の手紙のこの乱れた筆跡は、鳥の足跡のように見苦しいネって」) 28

 

水の上のはかなき数も思ほへず深き心し底にとまれば (村上天皇新古今集』巻15、参内した女御が帝の態度を憤って帰ってしまったのに弁解した歌、「昔の人が、水面に浅く字を書くのは難しいと嘆いたのは、大したことじゃありません、貴女を思う私の心は深い水底にあるのですから」) 29

 

今はとて行く折々し多かればいと死ぬばかり思ふとも見ず (和泉式部『家集』、「焼きもち焼きの貴方は、「これが最後だ、もう君には会わぬ」と言って出て行ったかと思えば、「死ぬほど君が気がかりだ」とか手紙をよこすわね、ホントに死んだのかと思えばいつも生きてるじゃない、なによ」) 30

 

袖の色は人の問ふまでなりもせよ深き思ひを君し頼まば (式子内親王『千載集』巻12、「たとえ私の袖が、貴方を思って泣く涙にそまって色が変り、人が怪しんで尋ねることがあっても、かまいはしません、もし貴方が私の深い思いを本当に分かってくださるのならば」) 31

 

折々の言葉(4)  7,8月ぶん

折々の言葉(4)  7,8月ぶん

 

愛はとどまろうとする時、錆びた一本の釘に変る。(野田秀樹パンドラの鐘』) 7.11

 

スパルタにおいては、犯罪が罰せられるのではなく、不手際が罰せられる (ルソー『新エロイーズ』) 15

 

男の人に「愛してる」なんて言われるより、私の犬がカラスに吠えかかるのを聞いているほうがずっといい。(シェイクスピア『から騒ぎ』) 18

 

そう、考える心というやつ、もともと四分の一は知恵で、残りの四分の三は臆病にすぎない。(シェイクスピアハムレット』) 22

 

恋とは、何と多くの災難をうしろに従えているものか、どれほどの友、どれほどの務めを、私は犠牲にしようとしたことか。(ラシーヌ『アンドロマック』) 25

 

感情によらなければ看取されず、説明することができないものがどんなにたくさんあることでしょう。・・・つまりそれは、肉体の魅力よりもむしろはるかに感情の魅力なのです。(ルソー『新エロイーズ』) 29

 

私とは誰か? めずらしく諺にたよるとしたら、これは結局、私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればいい、ということになるはずではないか? (ブルトン『ナジャ』) 8.1

 

彼女に言ってやろうと思うことを五、六行書くやいなや、私の気持ちは変わった。そこに書かれた言葉を、もはや、それが当然もっている意味では見ずに、それがもたらすに違いない結果で見た。(コンスタン『アドルフ』) 5

 

王室用学問というものがないように、十五、六歳の少女用の学問というものもありません。(フロイト精神分析入門』) 8

 

ああ、愛の錯覚はなんと素晴らしいものでしょう。愛のへつらいはある意味では真実です。判断力は黙しておりますが、心が語っているのですもの。(ルソー『新エロイーズ』) 12

 

貴方はまだどこか子供々々したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得なのね。(漱石『明暗』) 15

 

愛は遊戯であり、永遠の創造であった。・・・彼女は目の前で身体を横たえて伸ばし、水平線のように果てしなく広がっていった。その時はぼくもまた黙って水平線になった。(オクタビオ・パス『波と暮らして』) 20

 

うちのおばあちゃんは、神様からも他の人たちからもこの世では必要とされていないと感じていた。だから、おばあちゃんは、だれに対しても頼まれたことを断ることができなかったんだわ。(ジェイン・ボウルズ『野外の一日』) 22

 

私はイエス様の方を見ました。イエス様も私を見ていらっしゃいます。そして私の乳房をも、両の乳房をまっ正面からご覧になっています。どうすればいいのでしょう?こんなふうに、 いきなり風が吹いてキモノがすっかりはだけてしまった時には?(グロリア・サワイ『私がイエス様とポーチに座って・・』) 26

 

そのユダヤの村では、結婚式の翌日の夜明けに、おかみさん連が何人かで寝室に押しかけていって、花嫁の下からシーツをはぎ取り、それを持って外に出て、花嫁の処女を讃える由緒ある踊りを踊るのがしきたりだった。で、今度も同じことをやろうとしたんだが・・(アイザック・シンガー『幻影』) 29