[今日の絵] 12月前半

[今日の絵] 12月前半

1 van Eyck : The Ghent Altar (detail) 1432

音楽は非常に多く絵の主題になっている、独奏や独唱もあれば複数の人間で音楽する絵もある、今日からは複数で音楽する絵を少し、会話が複数人から始まるように、音楽もまた複数人が起源なのではないか、この絵は初期フランドルの画家ファン・エイク「ゲントの祭壇画」の一部、皆さん服が素敵で、違う方向を見ている

 

2 Tiziano : The Concert 1510

昨日のファン・エイクの絵もそうだが、みな服が素敵で、違う方向を見ている、中央の人はハープシコードを弾き、ヴィオラ・ダ・ガンバを手にした右側の人は、右手で中央の人の肩に触れ、中央の人はそれを受けて彼を見返している、左側の若い男性はまた別の方を見ている、コンサートの直前の光景なのか

 

3 Caravaggio : Musicians 1595

画家が音楽の絵をたくさん描くのは、何よりも人の表情が生き生きしているからだろう、音楽するときの表情は、読書、祈り、食事、化粧、入浴、労働などの時のそれとはまた違う、カラヴァッジオの絵は美少年や美青年が多いので、むしろそちらを描きたかったのか

 

4 Gerard van Honthorst : Musical Group on a Balcony 1622

ヘラルト・ファン・ホントホルス1592-1656はオランダの画家。この絵もバルコニーの皆さん楽しそう。音楽は、ひょっとして「踊り」からその一部が分離したものではないか? 人は嬉しくてたまらないと、おのずと体が動いて踊り出し、歌うように声が出る

 

5 Degas : The Chorus 1876

ドガは「踊り子たち」をたくさん描いているが、どれも「調和」に欠け、ちぐはぐで、ぎこちない場面が多い、この「コーラス」も同様だ、皆がばらばらで調和が感じられない

 

6 John Melish Strudwick : 黄金の日々 1907

ストラドウィック1849–1937は、英国のラファエル前派の画家、この絵は20世紀だが、この女性たちはどこか神話的に見える、「音楽music」の語源はギリシア神話の「ミューズmuse」なのだから、音楽のもたらす「調和」には、どこか神話的、天上的なところがある

 

7 Imre Góth : Concert 1920

イムレ・ゴス1893~1982はハンガリー出身のイギリスの画家、この「コンサート」はとても面白い。友人の誰かが演奏あるいは歌っているが、致命的なミスをしたのだろう、聴きにきた友人たちがショックを受けている、音楽はつねに「調和」をもたらすわけではない

 

8 Georgios Jakobides : Children's Concert 1886頃

ゲオルギオス・ヤコビデス1853~1932はギリシアの画家、子どもや家族の絵が多い、この絵も、子どもたちの「楽隊ごっこ」が楽しそう、でもお婆さんは耳を塞いでいる、音楽はこのような「不調和」も作り出す

 

9 Matisse : Music ,Collioure, spring-summer 1907

コリウールはスペイン国境に近いフランスの街、この絵はまだスケッチだが、弾く人、聴く人、踊る人の三者が空間的に配置され、いかにもマチスらしい「建築的均衡」だ

 

10 Lucian Freud : 大きな室内(ヴァトー以後)1983

ルシアン・フロイド1922-2011はイギリスの画家で、あのフロイトの孫。この絵はヴァトーの「ご機嫌ピエロ」のパロディ、家族だろうが、みな不機嫌な表情で、音楽を楽しんでいるようには見えない、「音楽は調和を作り出さない」のだ、剥き出しの配管などいかにも精神分析的な絵

 

11 Hans Memling : Portrait of an Old Man 1475頃

絵の究極の主題はやはり「顔」だ、我々は顔で個人を同定する、手を見ても誰だか分からないが顔を見れば誰だか分かる、顔にはその人の個性と内面が現れている、ハンス・メムリンク1430~94は初期フランドルの画家、この絵も、当人が今そこにいるかのよう

 

12 Frans Hals : Head of a boy 1640

フランス・ハルスの人物画はどれも、顔の生き生きとした感じがいい、ほぼすべての絵が斜めの視線で、はっきりした方向性を持っているが、この「積極的に何かを見ている」という感じが、顔全体の生き生き感を生み出す理由の一つだろう

 

13 Vermeer : Study of a Young Woman, ca. 1665–67

真珠の耳飾りの少女」と似ているが、いわゆる「美人」でもなく、どちらかというと普通の家庭の娘のようで、生活の匂いのする顔だ、フェルメールの娘という説もあるが分かっていない、額の広さと、何か言いたそうな表情が印象的だ

 

14 Degas : Portrait de Jeune femme 1867

27×22cmの小さな絵だが、数あるドガの人物画の中でも名作であろう、眼が美しく、顔全体に気品がある、ドガは33歳、彼の従妹のジュリーという説もあるが分かっていない、おそらく女優とか踊り子ではなく、普通の家庭的な女性で、そこに非常な美しさをドガは認めたのだろう

 

15 Renoir : Smiling Young Girl 1878

ルノワールがサロンで成功するのは38歳の1879年だから、この絵はその少し前、顔を正面から描くのは難しく、また口をはっきり開けている絵も珍しい、この絵は「微笑む少女」と題されることが多いが、これが微笑みなのかどうか分からない、しかし、ある表情をきわめて的確に捉えている

 

16 ゴッホ : 画家の母1888

ゴッホは35歳、弟セオへの書簡に「母さんの肖像画は、自分の為に描いているのだ」とある。ゴッホにとって母は大きな存在である、母は、その威厳、優しさなど、何よりも人としての大きさを感じさせる

 

17 Modigliani : Portrait of Raymond 1915

モディリアーニの描く顔には、他の誰にもない美しさがある、顔の細さや傾きなどが特徴だが、突き詰めて言えば、やや斜めに引かれた直線とそれら相互の角度による幾何学的形象の美しさなのではないか、この絵などそれを感じる

 

18 Picasso : Portrait of Maya 1938

マヤはピカソの娘で、このとき3歳。この絵は粗い布地にわずかの絵具を塗っただけ、ピカソという画家の卓越さは、その造形力にあるのだろう、ベラスケス、デューラー、フランス・ハルス、ルーベンスセザンヌなどの系譜に属する画家だ

 

[演劇] モリエール『守銭奴』 SPAC

[演劇] モリエール守銭奴』 ジャン・ランベール=ヴィルド演出、SPAC 12月11日

(写真は、左からアルパゴンの息子クレオント[永井健二]と娘エリーズ[宮城嶋遥加]、全体の半分ぐらいを、語りではなく音楽と踊りにした「コメディー・バレー」形式が楽しい)

モリエールの作品は、ほとんどが宮廷で上演されたもので、音楽と踊りがふんだんにある「コメディ・バレー」形式で、「宮廷祝祭」の楽しい雰囲気に満ちている。この上演も棚川寛子による音楽と踊りがとてもいい。まるでフェリーニの映画を見ているようで、演技も、歌舞伎の一部を取り入れていて楽しい。モリエールは19世紀以降のリアリズム演劇ではないので、今回の演出はむしろ正統的なのではないか。11月に東京芸術劇場で見たプルカレーテ演出『守銭奴』は、狂気を前面に出したホラー仕立てになっていて、ぜんぜん楽しくなかったが、こちらはとにかく祝祭気分が横溢していて、これでこそモリエールだと思う。『守銭奴』の登場人物はすべて、弾けるように生き生きしているのがいい。(写真↓上は、中央がアルパゴン[貴島豪]、左がヴァレール[大高浩一]、下は、マリアンヌ[ながいさやこ]と、見合い斡旋おばさんフロズィーヌ[木内琴])

原作ではアルパゴンも含めて「めでたしめでたし」で終わるところを、終幕、アルパゴンを孤独な淋しさで終わらせるところは、演出家の新解釈なのだろう。科白の半分以上をカットして音楽と踊りに変えたのに、原作の内容はほぼ忠実に再現されている。何といっても『守銭奴』はキャラがとてもいい。アルパゴンは、自分がとんでもない条件で高利貸をしているくせに、その借り手が息子だと分かった瞬間、「そんな条件で借りたら破産しちゃうじゃないか」と「心配」してみせるところなど、矛盾している。ジャック料理長は、上にはペコペコして下には威張り散らすし、我々の周囲に「いるいる」のタイプだ。私が一番感心するのは、見合いを斡旋するフロズィーヌおばさんだ。両方にたくみに旨いことを言って、男女をくっつけ、双方の親から高い金を取る。今の西洋はカップル文化とはいえ、過去の長い間、こういう人が活躍しなければ実際の結婚の多くが成り立たなかったにちがいない。この舞台では腹話術の猿人形?を使っているのがいい。腹話術はこの仕事には必須なのだ。そして、結婚する二組の若いカップルも、それぞれはとてもちゃっかりしていて計算高い。「純愛」という感じでもないのだ。そう考えると、アルパゴンだけでなく誰もが計算高いちゃっかりした人々であることが分かる。モリエール喜劇の「笑い」は、シェイクスピア劇の道化と同様に、批評性があり、原則としてはオヤジ(家父長制)など何らかの「権力」や「権威」を笑い飛ばしているが、『守銭奴』では登場人物の誰もがお互いを笑い飛ばしている感じがあり、それが大きな祝祭性を生み出している。

舞台の音楽(これがとてもいい)が動画で聴けます。

SPAC版 守銭奴 あるいは嘘の学校 | SPAC

[演劇] 小野晃太朗『口火』 アトリエ春風舎

[演劇] 小野晃太朗『口火』 アトリエ春風舎 12月8日

(写真上は、科学者の姉[毛利悟巳]と作家の妹[金定和沙]、壁の黒いシミは、油田から染み出してきた原油の跡、これは本作の重要な主題。写真下は、出版編集者[桂川明日哥]と科学者[堀夏子]、探究者たちはもがくように苦しみながら探究しているが、その姿自体が美しい)

小野晃太朗は初見だが、とてもいい作品だ。太田省吾『水の駅』は、もがくように生きている人間が、そこにそのように存在するだけで美しいことを提示したが、『口火』も、もがくように苦しみながら探究している作家や科学者が、それだけで美しいことを提示している。創造者すなわち価値を生み出す者たち、作家、芸術家、科学者たちは言葉で苦しんでおり、そして彼らが苦しむ姿は美しい・・、これが『口火』の主題である。智や芸術の神はアテナやミューズであったから、『口火』に登場する4人が女性である必然性もあるのかもしれない。創造者は思考を通じて創造し、思考は言葉によって可能になる。だから、『口火』の4人の女性たちも、言葉の問題で苦しんでいる。言葉は、口が動いてしゃべるか、指が動いて書くか、このどちらかによってしか存在しない。つまり、心が肉体を通して現実化し、肉体の外部に物質化したものが言葉である。言葉は、口や指の延長であり、人と人を結び付けるが、同時に引き離すものでもある。たとえば「指」は、愛する者を「この人!」と個体指示することもできるが、同時に、「指で差す」ことは「指で刺す」こと、相手を攻撃することでもある(写真↓は4人の女性の指)

>なんかあったの?/疲れてしまった。/ん。/怒ることに疲れてしまった。/そう。/思うことを伝える言葉よりも先に、相手を傷つける言葉が先に出てきてしまう。/・・・仲良くしたいわけではない、適切な言葉を使いたい。わたしが選んだ、私の言葉で。/うん。・・[姉と妹は不器用なハグをする。お互い背中を同時に3回叩く]/・・・言葉にすることで本当になる。そんな気がする。/呪いみたいな。/呪いだと思うよ、言葉は。/・・・あれは大昔の人々の夢だ。自分ができなかったことを、次の人に引っ掛けるたすきみたいなものだ。/幽霊ってこと?/それに近いな。/幽霊って無念を訴えるだけのものじゃないの。/言葉のある時代になってからは。/え。/言葉のない幽霊たちは、感情や衝動に訴える。これが厄介でね。私たちは何度も埋めて、燃やし、感情に負けないような考えを作ってきた。ところが奴らは黒い水となって地上に染み出してきた。///・・この対話がいかにコンテンポラリーな主題であるかは、たとえばイーロン・マスクツイッターを買収し、アカウントの凍結を解除した途端にヘイトスピーチが大量に増えたことからも分かる。言葉が呪いになっていること、これは現代の一番の問題だ。また、/一つ盗めば盗作、百も盗めば独創性、そういうことですか。/・・・という主題も、言語は過去からの継承と蓄積からなっているから、とても重要なテーマだ。(写真↓の床や壁のシミは言葉以前の呪い)

本作は、非常に深い対話劇になっているが、やや話題を詰め込みすぎて、話が次々に流れ過ぎる。たとえば、/なに読んでるの?/性別が変化しながら300年を過ごす詩人の話。/へえ、面白そう。/珍しいね。/なにが?/物語に興味示すの。/そう?/うん。/・・・おそらくこれはヴァージニア・ウルフ『オーランドー』のことだろうが、ジェンダーの問題だけでも大テーマなのだから、ちょっと言ってみた、というのではまずい。本来ならばもっと掘り下げるべきところだ。しかし、それはともかく、本作の対話はことごとく、現代の我々にとって最も切実な問題群になっている。創造者たちが4人とも女性であるのもいい。女2 はこう言う、/今、世の中で起きていることの殆どが、人間同士の問題になってきている人間同士の問題には実体がない、物を巡って争っていた時代は終わり、理由で争う時代が来て、手段で争う時代がきた・・[戯曲43頁]/おそらくこれが、本作の一番の主題だろう。

4人の俳優の動画がありました。

桂川明日哥さんはTwitterを使っています: 「金定さん( @kanesadawooo )によるめっちゃええ動画です。 本日初日。 #イサカライティング https://t.co/wIQ7IGHN0Z」 / Twitter

[今日の絵] 11月後半

[今日の絵] 11月後半

17 Contrapposto / Kandinsky : On the dances of Palucca 1926

上の「コントラポスト」は、古代ギリシア彫刻以来、人間の最も美しいとされる姿勢、下は、カンディンスキーによるダンス振付けのポーズ集。今日から、人物画を「ポーズ」「姿勢」「体勢」「仕草」の視点から見ていく、「顔の表情」と同様に「体全体の表情」がある

 

18 Edgar Degas : Little Dancer Aged Fourteen 1880

ドガはダンスをしている踊り子のさまざまなポーズをたくさん絵に描いているが、これは彫刻、この姿勢・体勢の美しさが彼を魅了したからだろう、足の向きが違うのがコントラポスト

 

19 Artemisia Gentileschi : Allegoria dell'Inclinazione 1615

タイトルは「傾きの寓意」、当時22歳のアルテミジア・ジェンティレスキが、ミケランジェロの孫から依頼されて描いたとされ、絵の若い女性はアルテミジア本人だと言われる、この女性は芸術の象徴と思われるが、動性のあるポーズと表情が美しい

 

20 Boldini : Mademoiselle de Demidoff 1908

ボルディーニの人物画は、ドガのそれと同様、いつも身体に動性が感じられる、この絵も、右手の指はショール?を手放した瞬間のように大きく開いている、左手指も動き、上衣は肩からずり落ちそう

 

21 Georges Clairin : オフィーリア1898

ジョルジュ・クレラン1843~1919はフランスの画家、女優のサラ・ベルナールをモデルに描いた、この「オフィーリア」もそうかも、正面を向いているが、両足は揃えずに方向をずらしているはず、それは服の下部の大きな斜めの線から分かる、両手も微妙に非対称で、これがコントラポスト

 

22 Klimt : Portrait of Emilie Flöge 1902

エミーリエ・フローゲは、クリムトより12歳下で、兄の妻の妹、クリムトの描く女性は独特の雰囲気があって美しい、それは色彩の見事さのみでなく、この絵のように、すらりとした長身とその姿勢の美しさもある、腕や手は、身体の縦方向のベクトルに巧みに掉差す

 

23 Jean-Louis Forain : 綱渡り1885

綱渡りは、サーカスのそれも含めて、よく描かれた主題、綱の上の身体の均衡が美しいからだろう、この女性は左右対称であろうが、それが斜めから描かれる、ジャン=ルイ・フォラン1852~1931はフランスの画家、若い頃ヴェルレーヌランボードガ、マネ等と知り合った

 

24 Delphin Enjorlas : 気に入った本

デルファン・アンジォルラス1857-1945はフランスの画家、室内でランプに照らされた女性をたくさん描いた、この女性は、ちょっと覗いた本が面白てく、本棚の前に座り込んだまま、熱心に読みふけっている、横から見えるその姿勢はとても美しい

 

25 Picasso:扇子を持つ女性1905

誰かと別れるとき、彼女は手を振っている、冷たい感じの表情だ、ピカソの「青の時代」は1901~4年と言われるが、これも含めていいだろう、頭にあるのは枯葉かリボンか分からないが、横から見た身体の造形性と色のバランスが卓越している

 

26 Winold Reiss : Woman in Black Hat with Cigarette 1917

ウィノルド・ライス1986~1953は、ドイツ生まれのアメリカの画家、ネイティブアメリカンや黒人の肖像をたくさん描いた、少ない色数で身体の造形性が際立つ、この絵の身体も、視線や表情や背景を含め、各方向に伸びる力強いベクトルによって描かれている

 

27鳥居言人 : 紅葉1933

鳥居言人(ことんど)1900~76は大正から昭和期の浮世絵師、手の位置に特徴があり、この絵も、この姿勢が女性の身体を美しいものにしている、肌と着物とが均衡的に調和するからだろう

 

28 Matisse : Dancer in Repose 1940

「ダンサー」の女性が休憩している、まだ息も荒く、ぜえぜえしている、スリットスカートからは突き破るように両足が投げ出されている、でもこのドーンと投げ出されている両足は力が漲っていて美しい、周囲に見えるもろもろの物も含めてマチスの「建築的均衡」が絶妙に実現

 

29 ゲオルギー・クラソフ:[キュービズム・アート]

ゲオルギー・クラソフ1958~はロシアの画家、この絵のタイトルは分からないが、彼の描く人物画はすべて、円筒、円錐、球、円、直線などの幾何学的形象の組み合わせから成り、それが人間身体の体勢と動性を作り出している

 

30 ダフィー・シェリダン : [タイトル不明]

ダフィー・シェリダン1947~は現代アメリカの画家、写実的な具象画を描く、[ペルシャの宗教]バハイ教徒といわれる、くっきりとした身体の女性の絵が多く、この絵も、その体勢と、海の明るい光の浴び方が美しい

今日のうた(139) 11月ぶん

今日のうた(139) 11月ぶん

 

銃弾がベールを破って政治家の浅ましき実態さらけ出したり (森秀人「朝日歌壇」10月30日、佐佐木幸綱選、たった31文字の短歌が、安部元首相暗殺事件の本質を十全に表現する) 1

 

ドロップの缶を開ければ思い出す母の隣にいた男たち (たろりずむ「東京新聞歌壇」10月30日、東直子選、「「男たち」の中には、「母」と恋愛関係にあった人もいれば、そうでない人もいたのか。なんとなくドロップを分け合ったりした淡い思い出」と選者評、微妙な感情を詠む) 2

 

国葬に国の軽さといふ秋思 (竹林一昭「朝日俳壇」10月30日、長谷川櫂選、安部元首相の国葬については、短歌でたくさん詠まれているが、俳句でもズバリ詠める、この句は、「軽さ」「秋思」という語の使い方が見事) 3

 

秋の雲骨褒められて壺に入る (菫久「東京新聞俳壇」10月30日、小澤實選、「遺骨は、係の者によって、何か褒められた上で壺に収められる。人の最後が詠まれた。季語も響く」と選者評、骨拾いの時、遺骨が「何か褒められる」ことに着目した) 4

 

秋晴に足の赴くところかな (虚子1923、「足の赴くところ」というのがいい、いかにも虚子らしい、作為のないのんびりした感じ) 5

 

歩きゐしほどに銀河も濃くなりつ (山口誓子『連星』、1944年11月4日の句、夏の夜と違って、天空を横切る銀河の位置は、南北から東西に変わっている、それは「歩くにつれて、濃くなった」、「濃く」と捉えたのがいい) 6

 

月光に一つの椅子を置きかふる (橋本多佳子1941『信濃』、「夫の忌に」と前書、自宅の夜の食卓だろうか、亡き夫がいつも使っていた椅子の位置を変えてみる、窓の外の月がよく見える位置に) 7

 

秋風に瓣(べん)ゆるみたる薔薇(そうび)かな (永田耕衣『加古』1934、バラの花も開き切ると、花弁が次第に「ゆるんで」きて、やがて「秋風」に散ってゆく) 8

 

肌荒くして秋風を鳴らす木よ (飯田龍太1951『百戸の谿』、山梨県の山地、境川村に住む作者、秋風は冷たく強いが、木は秋風に立ち向かい、「肌荒くして」ゴウゴウ「秋風を鳴らす」) 9

 

人言(ひとごと)の繁き間守(まも)りて逢ふともやなほ我が上に言の繁けむ (よみ人しらず『万葉集』巻11、「私たちのことをうるさく噂する人がどうしてこんなに多いのかしら、隙をみて逢ったとしても、私やっぱり噂されちゃうのかな」) 10

 

梓弓引けばもとすゑ我がかたによる(夜=寄る)こそまされ恋の心は (春道列樹古今集』巻12、「夜だね、僕があずさ弓を引けば、中央が向こう側になり両端が僕の方による[寄る]、まるで君の体がよる[寄る]ようで、恋しくてたまらない」) 11

 

いさやまだ変りも知らず今こそは人の心を見ても習はめ (和泉式部玉葉集』、心変りした男から「まあ、君の方は、心変りせずに待っていてね」と手紙がきたので、「何言ってんのよ、私は心変りなんてしてません、でもこれからは貴方をじっくり観察して、真似するかもね」) 12

 

下紐(したひも)は人の恋ふるに解くなれば誰がつらきとか結ぼをるらん (弁の乳母(めのと)『千載集』巻13、「貴方の下着の紐が自然に解けないのは私の思いが足りないからだと言うけど、私の下着の紐も固くて自然に解けないわよ、貴方の私への思いこそ足りないんじゃない」) 13

 

思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにし換へばさもあらばあれ (在平業平『新古今』巻13、「貴女を恋う気持ちに、人目を忍ぶ気持ちがついに負けました、貴女と逢ふことと引き換えならば、もう自分はどうなってもかまいません」、「さもあらばあれ」と捨て身でいくぜ) 14

 

あはれとはさすがに見るやうち出(いで)し思ふ涙のせめて漏らすを (式子内親王『家集』、「私の恋を貴方に告げるまいと、じっとこらえているのよ、それでもふいに、貴方を思う涙がこぼれてしまう、ああ、(「君が好きだよ」とまではいかなくても)、せめて「かわいそうに」くらい貴方が思ってくれないかしら、思ってほしいわ」) 15

 

あだごとにただ言ふ人の物がたりそれだに心まどひぬるかな (建礼門院右京大夫『家集』、「[平重衡さんは]すごい話上手、いつも即興でコワーい作り話をするの、私たち女房がキャーキャーいって怖がるのを楽しんでるのよね、でも作り話でもホント怖い、今日の話にも動揺しちゃった」) 16

 

落日の巨眼の中に凍てし鴉 (富澤赤黄男『魚の骨』1940、冬のある夕暮れ、太陽は地平線に「巨眼」のような落日となっているが、その逆光の中に「鴉が凍っている」ように見える) 17

 

泣かんとし手袋を深く深くはむ (渡辺白泉1940、作者は27才、生まれたばかりの長女が死亡し、自身も京大俳句事件に連座して検挙される、この句は拘置所の中だろうか、泣きそうになるのを見られないように、手袋を「深く深く噛み締める」) 18

 

乾燥期街のにごりを呪い生く (高屋窓秋1935、作者は25才、翌年法政大学を卒業、俳句誌「馬酔木」同人を辞めた、花鳥諷詠の美意識の「馬酔木」とは相容れないものがあったのだろう。冬の乾き切った街は群衆で一杯だが、その「にごり」に敵意を感じる、街中にいても孤独なのだ) 19

 

二合では多いと二合飲んで寝る (村田周魚、作者1889~1967は、現代川柳の六大家と言われる人、「川柳きやり」を主宰、この句には思い当たる人は多いだろう、寝酒は次第に分量が増えてしまう、「ちょっと多いな」「セーブしなきゃ」と思いつつ、その「ちょっと多め」を飲んでしまう) 20

 

壁がさみしいから逆立ちする男 (岸本水府、作者1892~1965は川柳作家、六大家の一人、コピーライターとしても活躍、この句は、男と壁とが対話しているようで面白い、「さみしい」のは壁のようでも、男のようでもある) 21

 

電熱器にこっと笑うようにつき (椙元紋太、作者1890~1970は川柳作家、神戸の菓子屋甘源堂の主人、六大家の一人で「ふあうすと」を主宰、電熱器は今はあまり使われないが、スイッチを入れるとゆっくり赤くなるさまは「にこっと笑うよう」だ) 22

 

人間を取ればおしゃれな地球なり (白石維想膢、作者1893~?は「大正川柳」編集人、最初はアナーキストで、大杉栄の指導を受けて印刷工ストライキを敢行、この句も、「国家など不要」と言っているのかもしれない) 23

 

「秒針の音が気にならない夜は初めて」つぶやくきみも海鳴り (櫻井朋子『ねむりたりない』、「静寂な場所にいる二人、「きみ」はこれまで時計の秒針の音に不安や淋しさを感じていたが、自分が傍らにいる安堵感にそれが払拭された、という君の言葉に海鳴りの音が重なる」と東直子評) 24

 

たましいがいいね!車内広告にあまえすぎているとこわれていくね (手塚美楽『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』2021、作者2000~は美大生、これは恋の歌、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに引き寄せられてしまうけれど、そこから抜け出さなきゃと思っている) 25

 

風の夜あなたの巻毛をほぐしてゐる小さなソファーが箱舟になる (睦月都『角川短歌』2022年11月号「スワンボート」、恋の歌だろう、昼間、洗足池の箱舟のようなスワンボートに二人で乗った、その夜は自宅、こんどはソファーが箱舟のようになった) 26

 

横にいる君も含めて街だから私ひとりで街を旅する (今紺しだ『角川短歌』2022年11月号、第68回角川短歌賞・佳作、作者は21歳の京大女子学生、デリケートな恋の始まりを詠む、彼と並んで歩いている私、人に見られたらちょっと恥ずかしいな、一人のつもりになってみよう) 27

 

人々をしぐれよ宿は寒くとも (芭蕉1689、「句会がどうも盛り上がらんな、ええい、時雨よ、一降りさせて、皆を刺激してくれないか、なに、座敷が濡れて寒くなってもいいさ」、「人々に」ではなく「人々を」と強めたのが趣) 28

 

みのむしの得たりかしこし初時雨 (蕪村、「蓑虫はしっかりした蓑をまとっているから、初時雨が来てもぜんぜん困った様子がない、我が意を得たりとばかり、得意げにぶらさがっているぜ」、芭蕉「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」と対比か、困っちゃった猿くんと得意げな蓑虫くん) 29

 

初雪や誰(た)ぞ来(こ)よかしの素湯土瓶(さゆどびん) (一茶1803、41歳の一茶は友達も少なく寂しい暮らし、「おっ、初雪だ、誰か来ないかな、芭蕉さんみたいに「雪見の句会」を開きたいな、でも誰も来ないだろうな、うちは土瓶に白湯があるだけだもの) 30