『聖書』を読む(1)

charis2006-08-15

[読書] 『新約聖書福音書』(塚本虎二訳、岩波文庫


(右挿絵は、18世紀初頭にアメリカで描かれた「エマオの巡礼」、左下の挿絵は、14世紀初頭のブオニンセーニャによる「エマオへの道」。どちらも突然現れたイエスが、いたずらっぽく二人の巡礼に話しかけている。)

夏休みなので、当面の仕事と関係ない本が読める。久しぶりに四福音書を通して読み返した。やはり面白い。無神論者の私は、聖書を「物語」としてしか読めないが、今回はメタファーの在り方に色々と気のつくことが多かった。イエスの話はほとんどが「喩え」であり、これは民衆のために「分かりやすい例」を示すためであるが、しかし弟子にもすぐには理解できない難解な「喩え」もある。それに加えて、聖書に対して完全に外在的視点に立てる我々には、物語を解釈者のコンテクストの中に置くことによって、テクストが新しいメタファーとして立ち現れる。私のような哲学屋には、イエスが理屈っぽい議論をくどくどと述べる「ヨハネ福音書」が圧倒的に面白いのだが、今回は「聖霊」について発見があった。しかしそれは次回に書くことにして、今日は「イエスの復活」について気の付いたことを書いてみたい。


パリサイ派や律法学者の妨害の中で伝道し、十字架にかけられるまでのイエスの言行録は、真面目で重苦しいものが多い。しかし、死後三日後に復活したイエスは、まったく別人のような”軽やかさ”と楽しさに満ちている。おそらく、人間の肉体の姿を取ることはイエスにとって苦痛だったのであり、人間としての死によって肉体から解放されたイエスは、本来の自由で快活な存在に戻っている。このことが、以下の「復活」のエピソードから読み取れるように思う。


「(イエスの墓に行ったマグダラのマリアたちは、イエスはもう復活してそこにいないと聞かされた。)女たちは恐ろしいが、また嬉しくてたまらず、中に入らずに急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。するとイエスがぱったり彼らに出会って「おはよう」と言われた。」(『マタイ』28章)

(イエスが彼らにぱったり出会って「おはよう」と言うところが、とてもよい。イエスは復活してガリラヤに行ったはずだから、ここで現れなくてもよいのだが、マグダラのマリアたちに対するイエスのサービス精神と、茶目っ気が感じられる。)


次は上の挿絵の話。「するとちょうど同じ日に、二人の弟子が[11人の使徒とは別人]エルサレムから少し離れたエマオという村へ歩いてゆきながら、これらの出来事をあれやこれやと話し合っていた。二人がこうして話したり議論したりしていると、いつの間にか御本人のイエスが近づいてきて、一緒に歩いておられたが、二人は目をくらまされていたので、それと気がつかなかった。[イエスは]二人に言われた、「歩きながら何をそんなに論じ合っているのです。」暗い顔をして二人は立ち止まり、一人のクレオパという方が答えた、「見れば御巡礼のようだが、エルサレムに滞在していながら、あなただけは、この二三日の間にそこで起こったことを何も知らないのですか。」[イエスは]彼らに言われた、「なんのことです。」彼らが言った、「ナザレ人イエスのことです。・・・」」(『ルカ』24章)

(すべてを知っているイエスが、一緒に歩きながら、「何をそんなに論じ合っているのです」とか「なんのことです」とか尋ねる、”おとぼけ”が素晴しい!)


次は、マグダラのマリアに対するイエスの別の登場。「(マグダラのマリアはイエスの墓に来て、遺体がないので泣いている。)天使がマリアに言う、「女の人、なぜ泣くのか。」マリアが言う、「私の主を取っていった者があります。どこに置いたのか分かりません。」こう言って後ろを振り向くと、イエスがそこに立っておられるのが見えた。しかしイエスだとは気づかなかった。イエスが言われる。「女の人、なぜ泣くのか。誰をさがしているのか。」マリアはそれを園丁だと思って言う、「あなた、もしあなたがあの方を持っていったのだったら、どこに置いたか教えてください。私が引き取りますから。」こう言ってまた墓の方を向いていると、イエスが「マリア!」と言われる。マリアが振り向いて彼に、ヘブライ語で「ラボニ!」(すなわち「先生!」)と言う。そしてイエスに抱きつこうとした。イエスが言われる、「私にすがりつくな、まだ父上のところに上っていないのだから・・・」」(『ヨハネ』20章)

(「我に触れるな」と題してたびたび宗教画に描かれた有名な箇所。福音書でもっとも美しい箇所の一つだろう。ここには優しいユーモアが感じられる。すべてを知るイエスが、マリアに「誰をさがしているのか」とわざわざ聞くのは”おとぼけ”だが、マリアが当のイエスを園丁と間違え、イエスの遺体を取っていった者だと疑うのも面白い。そして、それに対して今度は「女の人」ではなく、「マリア!」と固有名で呼びかけるイエスはとても優しい。でも、なぜマリアに対しては「我に触れるな」なのだろうか。すぐ次に、復活を信じない弟子トマスに対しては、「私の手の釘の跡と、脇腹に槍で開けられた穴に、指や手を差し込んでごらん」と、自分に触れるように言うのだから、イエスは矛盾している。)