『ワールド・トレード・センター』

charis2007-11-05

[演劇] 坂手洋二ワールド・トレード・センター』  下北沢ザ・スズナリ 

(写真右は、編集部員を演じる劇団・燐光群の俳優たち。左から、大西孝洋(編集長カマタ)、中山マリ(古参の部員)、猪熊恒和(副編集長)。写真下は、散らかる編集室。)

劇団・燐光群を主宰する坂手洋二は、社会的・政治的テーマを正面から扱う硬派の劇作家。2001年9月11日の事件を扱った本作も、示唆するところの多い力作だ。舞台は二ユーヨーク・マンハッタンのミッドタウンにある、在米日本人向けに日本語のタウン情報誌を発行している会社の編集室。この会社も編集室も劇の通りに実在したもので、坂手は常連の寄稿者であり、ニューヨークで行動する際の拠点でもあった。登場人物の造形は別にして、この劇は坂手自身のニューヨーク体験と記憶を元に作られている。


9.11は世界史的な大事件であるが、直接の被害者や関係者以外の人々にとっては、「自分の人生の体験の中の小さな一コマ」にすぎない。この会社の編集室の窓からは、ワールド・トレード・センターが見えている。距離にして、6km弱。近いが、しかしある意味では遠い。朝、最初の飛行機がビルに突入した直後から、20時間ほどのこの編集室の「混乱」が舞台に描き出される。このタウン情報誌の編集室はブロードウェイのすぐそばにあり、普段から、若い俳優の卵やアーティスト、カメラマンなど、さまざまな日本人が訪れる。この日は、交通や居住地区が混乱したので、友達を連れて「避難」してきた日本人も加えて、ごったがえす。とはいえ、アメリカに骨を埋める覚悟の日本人は少なく、英語の達人もわずか。その多くが、いずれ日本に帰るつもりの中途半端な「滞在者」なのだ。こうした日本人たちにとって、9月11日はそれぞれの個人史の一コマとして体験され、内面化される。


センターの崩壊を窓から目にする時は、さすがに皆、悲鳴をあげて震えが止まらない。センター近くで人体の落下・衝突を目撃して帰ってきた若い男の子は、それを報告するだけで興奮して泣き出してしまう。しかし他方では、現地の電話が通じなかったり、むしろ日本からの衛星放送の方がビルや現地の現状を的確に伝えており、そちらを頼ってしまうという皮肉な状況もある。アメリカのTV報道は、ブッシュや要人の「アメリカの敵に反撃を!」という愛国的な記者会見を繰り返し伝えるが、この編集室の日本人たちは、God bless America!の唱和を、自分の感覚としてただちに共有することはできない。知人がセンターで働いているという者は何人かいるので、安否の確認におろおろするが、それは「敵への憎しみ、反撃」といった次元ではないのだ。編集室に現れる日本人たちが体験した報告も、それぞれが断片的で、もどかしい。あまりに雑多な情報が交錯するので、これだけ深刻な出来事が眼前に起きているのに、現実を現実として感じられない感情の宙吊り状態が起きている。


マンハッタンは広い。センターのあるダウンタウン、編集室のあるミドルタウン、セントラルパークのあるアップタウンのどこにいるかによって、9.11体験はまったく違う。編集長のカマタは、「自分が見て、触ったところだけが、俺の知るニューヨークなんだ」と言う。そして、マンハッタンの住民は、平均的アメリカ人とはいえない。アメリカ人全体としての9.11体験と、現場近くにいる日本人滞在者の体験とは大きく違っている。この劇で面白かったのは、言葉の問題だ。編集室にはアメリカ人も来るので、日本語と英語のちゃんぽんの会話が行きかう。日本人たちは和製英語の「ワー・トレ」というカタカナ語をよく使う。「World Trade Center」の略だが、アメリカ人には通じない。


この「カタカナ英語」こそ、日本人の中途半端な位置をよく表している。たとえば、舞台のエンディングの会話。英語の達人で尖がった美女の編集部員タチバナは、中年の編集長カマタとよく衝突するが、この9.11事件の共有で、彼女にはカマタに対するかすかな恋の感情が芽生える。日付が翌日に変った深夜、二人だけになった暗い編集室。「I hate you」とタチバナは挑発する。カマタは、「英語じゃよく分かんないから、カタカナ語で言って」と応じる。でもタチバナは恥ずかしくてカタカナ語を言えない。そっぽを向いて、消え入るような声で「I love you」とつぶやく。しばし二人の沈黙。しばらくしてカマタは、視線をそらして自分に言い聞かせるように「アイシテル・・・」とつぶやいて、終幕。訳したのか、それとも、タチバナに向かって言ったのか。「愛してる」とは恥ずかしくて言えない突っ張りの二人。素晴しいエンディング!