演劇版・カフカ『審判』

charis2007-11-18

[演劇] カフカ原作、松本修脚色『審判』 三軒茶屋・シアタートラム 

(『審判』は、けっこう演劇化されているようだ。写真右は、アメリカの高校での(!)上演(2006)。下の写真二点は、ドイツの劇団の公演(1997)、こちらの方が『審判』らしい雰囲気。)

松本修はこれまでに、カフカの『城』『アメリカ(失踪者)』を演劇化している。どちらも面白かったので、今回、三作目の『審判』を見た。『審判』はカフカでも特に面白い作品だが、原作に忠実で、しかも演劇的にもよく出来た舞台だった。主人公の銀行員ヨーゼフ・Kは、ある朝突然、自分の寝室に役人が来て、自分が逮捕されたことを知る。とはいえ身柄を拘束されるわけではなく、銀行での勤務は従来と変らずに続く。しかし一方では、彼のあずかり知らぬところで裁判が始まる。K自身も日曜ごとに貧民街の一室にある奇妙な法廷に通い、弁護士も雇うが、いつまでたっても裁判の実態は分からない。Kは誰にも話していないのに、周囲の誰もが裁判のことをよく知っている。罪名も、判事や検事の名前も分からないまま、しかしKは有罪だろうと噂が流れる。そして一年後のある日、役人がやってきて、Kは連行されて処刑される。


『審判』は1915年の作だが、高度な管理社会の「権力の匿名化」という問題を実に鋭く、しかもユーモラスに描き出している。役人が権力をもっているのだが、力の行使の因果関係はまったく見えない。大きな国家権力というよりは、もろもろの小さな権力が社会のあらゆるレベルに成立する、フーコー的な権力状態だ。重要な事柄が、誰にも分からないままに決まってゆくので、人々の会話は奇妙な腹の探り合いになる。誰もが、聞かれてもいないことを答え、会話は妙に雄弁で、ちぐはぐなものになる。対話はいつも、あるべき文脈には定着せず、メタレベルに逸れてしまうのだが、このような「ねじれ」こそ、カフカ的な対話の妙味といえる。こうした奇妙な対話の面白さは、舞台の上でもかなり忠実に再現されている。松本修の舞台は、重要なプロットの対話と、音楽とともに身体を痙攣的に動かす独特のダンス(パフォーマンス)とが、交代で進行する。黒に統一したスタイリッシュな服装と、身体の動きがとても美しい。


小説では気づかなかったが、舞台を見て、そこにラカン的な主題が含意されているように感じた。主人公のヨーゼフ・Kは、いつでも、”他者が自分について語る”のを聞いて、それによって自分に起きていることを知る。つねに匿名の「他者の欲望」=言語が先行し、Kの主体はいつまでも自己を形成できない。そのような「過程」が静かに進み、Kは、自分でも気づかないままに、受動性という苦しみにはまってゆく。原題『Der Process』は、「裁判」と「過程」という二つの意味を兼ねている。匿名の「裁き」とは、「大文字の他者」が被告である自分について一方的に語る言語的過程である。このように、主体に先立つ他者の欲望が言語的なものとして我々の生を支配していることを、カフカは明らかに見て取っていた。舞台は、言語的過程が支配しているにもかかわらず、何ともいえない"暴力的なもの"が漂っており、底知れぬ"暗い"女たちが突然エロティックなものに豹変する。


役者はみな身体の切れがよく、ヨーゼフ・K(=カフカ本人?)を演じた笠木誠は、いかにもそれらしい雰囲気があり、名演だと思う。そして何よりも、舞台空間を上下一杯に引き伸ばして使う、松本の演出は効果的だ。役者は客席の真下から広い階段を抜けて、沸き上るように現れるので、観客はデパートの階段に座っているような感じがする。観客が舞台を見ているのではなく、狭い客席にいる我々が、広い舞台にいる役者たちに見られているかのようだ。特に、たくさんの銀行員が机を並べて観客席と向き合うオフィスの光景は圧巻。「大文字の他者」に圧倒される小さな主体の位置に、観客は転落する。