濱口桂一郎『新しい労働社会』(2)

charis2009-08-05

[読書] 濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書 '09.7.22刊) (その2)


(写真は、「リベラルアーツ7学科」を表す図。大学教育は、「真理は人を自由にする」という根本理念に基づいていた。それは、古代・中世以来の「自由人のための諸技術」「人を自由にする学芸」に由来しており、文法、修辞学、論理学、算数、幾何、天文、音楽の7科目であった。それは、濱口氏の言われる「職業的レリバンス」といかなる関係にあるのだろうか?)


労働と雇用をめぐる慣行や制度は、それが形成された歴史的経緯が分らないと、それぞれがもつ固有の意味が理解できない。労働法の専門家であり、EU諸国の労働政策研究の第一人者である濱口氏による本書から、私はきわめて多くのことを教えられた。その内容を要約して提示することも大いに意義があることだが、せっかくブログにコメントを書くのだから、濱口氏の主張で私がよく理解できなかった点、あるいは、やや違和感を感じた点を中心に書いてみたい。これは、濱口氏を批判したいからではなく、以前から私の心に引っかかっていた問題を、労働や職業という観点から氏が明快に提起されたので、いわば氏の胸を借りて、自分もこの問題を考えてみたいからである。説得力に富む本書を読みながら、私がよく理解できなかったのは、労働や雇用における問題点を解決するためには、教育とりわけ大学教育が「職業的レリバンス(意義)」をもっと持たねばならないという主張である。氏は次のように述べておられる。


> 大学は「学術の理論および応用を教授研究し、その深奥を極めて、文化の進展に寄与する」という建前と、現実の就職先で求められる職業能力とのギャップをどう埋めるのかという課題に直面しています。この問題は、大学教師の労働市場という問題とも絡みますが、いずれ正面から大学を職業教育機関として位置づける必要があるはずです。(p144)
> 現実の教育システムの圧倒的大部分はなお職業への指向性がきわめて希薄なままです。文部科学省管轄下の高校やとりわけ大学が職業指向型の教育システムに変化していくには、教師を少しずつ実業系に入れ替えることも含め、かなり長期にわたる移行期間が必要でしょう。(p145)
> 今後、教育を人的公共投資と見なしてその費用負担を社会的に支えていこうとするならば、とりわけ大学教育の内容については大きな転換が求められることになるでしょう。すなわち、卒業生が大学で身に付けた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされるときに、これはなかなか難しい課題です。(p148f.)


大学もまた「学校」であり、卒業した若者は社会に出て何らかの職業につくのだから、大学が「職業的レリバンス」を持つべきだというのは、一般論としては当然のことである。だが私には、濱口氏の言われる「職業的レリバンス」は、あまりにも狭く性急すぎるように感じられる。そして、本書で氏が力説されるテーゼ、すなわち、日本の雇用慣行には「職務(ジョブ)」概念が希薄であるという根本事実とも矛盾するのではないかと思われる。日本の企業はあくまで「人」を採用するのであり、同じ「人」をさまざまな「職務」に配置転換し、さまざまな「職務」を経験させるのが、日本の企業の労働形態である。中途採用は別として、少なくとも新卒を採用する段階では、企業は汎用性のある能力をもつ「人」を求めているのであり、ある「職務」だけをこなす職人を求めているのではない。とすれば、大学教育において求められる「職業的レリバンス」は、特定の「職務」を指向した職人的なものではなく、汎用性のある基礎学力のようなものではないだろうか。技術革新が急激に進み、企業も従来はなかった新しい分野の「職務」をこなさなければならない今日、そうした新しい「職務」をこなすための教育は企業内で行われるのがもっとも効率的であり、学校教育においては、どのような特定の「職務」にも対応できるような汎用性のある基礎学力を養うことが重要であり、それこそが学校でしかできないことであるように思われる。


ヨーロッパの大学の基礎理念となった「自由学芸=リベラルアーツ=教養」とは、本来、そのような汎用性のある知を意味しているのであり、専門的な職業のためには、まずそれが前提にならなければならないのである。具体的には、リベラルアーツを学んだ後に、医学、法学、神学など、それぞれの職業に向けた専門科目が学ばれた。医学、法学、神学などは、ある程度マニュアル化できる専門知であり、たしかに「職業的レリバンス」が見て取りやすい。しかし、知の本当の力は、マニュアル化できない暗黙知の汎用性にあり、「自由学芸」なしには、職業的な専門知も成り立たないのである。


今日の職業状況を見ても、医者、法律家、聖職者、学校教師などは、その資格が国家試験などによって管理されており、医学部、法学部、教育学部、仏教大学、キリスト教の神学部などは、「職業的レリバンス」が明確である。だが、医者の不足が社会問題化し、教師が子どもや学校の変容に苦労し、司法の硬直を打破するために司法試験改革、法科大学院裁判員制度などが作られたのはなぜだろうか? まさにマニュアル化した専門知・職業知が硬直化し、市民的常識と乖離したことが批判されているのではないだろうか。今、大学教育や大学卒業者に不足しているのは、かつての「自由学芸」が担ったような、汎用性のある基礎学力である。教養の衰退といってもよい。『大学の反省』という優れた本を書かれた経済学者の猪木武徳氏は、J・H・ニューマンを引用して次のように述べられている。


>大学の本分は、知性の養成に専念することにある。知性の養成が必要なのはなぜか。それは「知性を酷使している人たち」が見失っているものを回復するためであるという。・・・これらの人々が見失った力とは何か。それは「多くの事柄を先後なく同時にひとつの統合体として考察する力、それらひとつひとつを普遍的な体系のしかるべき場所に位置づける力、それらひとつひとつの価値を理解する力、それらの相互依存関係を判定する力」である。知的な力の中では、判断力が人生において人を導く・・・・(『大学の反省』 NTT出版 2009, p270)


ここで言われている「知の力」は、まさに濱口氏が本書を書いた優れた視点、すなわち、「雇用システムを、法的、政治的、経済的、経営的、社会的などのさまざまな側面が一体となった社会的システム」として捉える視点である。自分の専門知の次元に自足する経済学者には見えない全体像が、濱口氏には見える。そして、司法改革もまた「知性を酷使している人たちが見失っているもの」を回復しようとする、「判断力の復権」を指向している。


大学が「職業的レリバンス」を持たなければならないと主張されるとき、そこで何が考えられているのかが問題である。医学部、法学部、工学部、農学部、理学部、文学部、神学部などの、伝統的ないわゆる「一文字」学部は、かつては専門性が明確であり、「職業的レリバンス」もそれなりに見やすかった。だが、現在では、大学の学部段階で専門知を習得することは不可能であり、むしろ必要なのは、将来、職場で必要になる専門知を硬直させないための教養知であり、要するに、大学のすべての学部が「教養学部化」することが望ましい方向であると私は考える。


もちろん、濱口氏が大学教育の「職業的レリバンス」を強調されるのは、日本的な雇用慣行、すなわち同じ会社に「人」が一生帰属するのは、決して望ましいことではなく、「職務」指向の職業的専門知を磨いた人間が、会社を自由に変わりながら生活できるような、個人を中心とした生き方に転換すべきだという、きわめてまっとうな考え方が背景にある。この考え方には、私は全面的に賛成であるが、それには大学教育における「職業的レリバンス」概念の一層の深化が必要であり、たんに実学にすればよいというものではない。自由学芸の7学科には修辞学や音楽も含まれていた。なぜそのようなものが含まれているのか、それは、個人の人生全体の幸福というものを考慮したとき、はじめて納得できるのではないだろうか。教育における「職業的レリバンス」という濱口氏の主張には、女性の場合にはどうなるのか、あるいは吉川徹氏が『学歴分断社会』で明らかにしたような、高卒と大卒の分断線という問題がどう関るのかなど、私にはまだよく理解できない部分があるので、その点も少し考えてみたい。(続く)