プルースト『失われた時を求めて』

charis2011-05-05

[読書+DVD] プルースト失われた時を求めて』 鈴木道彦訳、集英社文庫

(写真右は、スワンが繰り返しオデットと重ね合わせるティポラ(モーセの妻になる女性)。ボッチチェリが描いた『モーセの生涯』の一部で、システィナ礼拝堂の壁画。写真下は、映画版『スワンの恋』1983より。スワンがオデットの胸のカトレアの花を直すシーン。)

連休は、久しぶりに小説を楽しんだ。『失われた時を求めて』第一篇第2部の「スワンの恋」と、その映画版も鑑賞。映画は失敗作だったが、プルーストの文章のたとえようもない官能性と快楽は、映画にはならないことがよく分った。プルーストは、我々の感覚や知覚は決して自立したものではなく、記憶や概念とつねに重なり合い、不安定に交じり合っているので、その“不思議な動性”こそが我々の官能性と快楽そのものであることを見事に示している。感覚=官能は、現在の体験ではなく、それ自体が過去を呼び寄せ未来に先駆する力動性としてしか存在しない。それは言語の力によって、感覚が記号化されることでもある。プルーストの「巧みな比喩」と言われるものは、感覚的現在が別の何かに「喩えられる」のではなく、感覚そのものの複合性・超越性の別名なのだ。オデットの顔は、ボッチチェリのティポラに「似ている」のではなく、スワンの眼に映るオデットはティポラであり、壁画のティポラはオデットなのである。


>「知り合いの人物に会う」と私たちが名づけているごく単純な行為にしても、それはいくらか知的な行為である。私たちは、目の前の人間の肉体的な外観に、その人にかんするすべての概念をつめこむので、その結果私たちの思い描く全体的な姿のなかでは、これらの概念こそ確実に最大の部分を占めてしまう。しまいにそれらの概念は、完全に頬のふくらみを形作り、ぴったりと鼻筋に沿って線を描き、また、あたかも声が透明な覆いにすぎないかのように、その声の響きをさまざまなニュアンスで彩りさえするので、現実にその顔を見、その声を聞くたびごとに、私たちはかならずその概念をふたたびそこに見出し、これに耳を傾けることになる。(『スワン家の方へ 1』p58f.)


過去・現在・未来は、記憶や概念を介してこのような仕方で錯綜し、混在している。オデットの胸に挿したカトレアの花をスワンが直したことが、二人が初めて体を交わすきっかけになった。カトレアの花は、二人の愛そのもの、官能そのものに、いわば魔術的に変容したのである。そしてそのとき、カトレアの花を直してもらうオデットの表情もまた、ボッチチェリのティポラになっている。


>「おや、さっき[馬車が]がたんとした拍子に、お胸の花がずれてしまったけれど、まっすぐに直してもかまいませんか? 落とすといけませんからね。もう少し深くさし直したいんですが」。男からこれほど丁重に扱われつけていなかった彼女は、微笑みながら言った。「ちっともかまいませんわ。どうぞご遠慮なく」・・・彼はもう一方の手を、オデットの頬に沿って上げていった。彼女は、物憂く重々しい様子で、じっと彼を見つめたが、それはかねがね彼がよく似ていると思っていたフィレンツェの巨匠の描く婦人たちの目つきだった。彼女らの目のように大きな切れ長で、きらきら光っているオデットの瞳は、飛び出さんばかりに瞼の縁まで引き寄せられて、まるで二粒の涙のように今にもこぼれ落ちそうに見えた。(『スワン家の方へ 2』p111f.)


>けれどもスワンは彼女に対してひどく臆病だったので、カトレアの花を直すのをきっかけにしてとうとうその晩彼女をものにしてからも、彼女の気を悪くさせはしないという恐れからか、・・・それにつづく数日間というもの、同じ口実を用いた。彼女がコルサージュにカトレアをいくつもさしていると、彼は言うのだった、「こりゃ残念だ、今夜はカトレアを直すまでもないんですね。このあいだの晩みたいにずれてはいないようだ。・・・」また、彼女がカトレアをさしていないときには、「おや、今晩はカトレアなしですが、これじゃちょっと直させていただくわけにはいきませんね。」こういうわけでしばらくのあいだは、最初の晩にやったとおりの順序が踏襲されて、まず指や唇でオデットの胸にふれることから始まり、こんなふうに、いつもそこから彼の愛撫は始まるのであった。そしてずっと後になって、カトレアを直すこと(ないしは儀式のようなその真似事)がとっくにすたれてしまってからも、「カトレアをする(faire catleya)」という隠喩は、二人が肉体的な所有の行為――もっともそこには何も所有するものなどないのだが――のことを言おうとするときに、カトレアのことは考えずに使用する単純な言葉となり、このしきたりが忘れられた後も、それを記念して二人の用語の中に生き延びた。そしておそらく、「愛の営みをする(faire l’amour)」という意味のこの特殊な語法は、そのさまざまな同義語とまったく同じ内容ではなかったのかもしれない。・・・肉体の所有はいつも同一で、はじめから分りきっていると考えようとも、それでも相手がかなりむずかしい――あるいはむずかしいと私たちが思っている――女で、ちょうどスワンにとってはじめカトレアを直すということがそうだったように、その肉体を手に入れるためには女との関係のなにか思いがけない挿話をきっかけにしなければならないといった場合には、所有は新しい快楽となるからだ。・・・そして彼のすでに感じはじめていた快楽、オデットはたぶんそうと気づかなかったからこそ堪えることができた(と彼の考える)快楽は、それゆえ――地上の楽園の花にかこまれてそれを味わった最初の男の目にきっとそう見えたように――以前には存在しなかった快楽、彼が作り出そうとしている快楽であり、「カトレアをする」という彼のつけた特殊な名前にその痕跡が残されているように、まったく特別な新しい快楽のように思われた。(『スワン家の方へ 2』p112f.)


記憶、呼び名、文などの複雑な働きによって、快楽が新たに創造されるのだとしたら、今ここに引用したプルーストの“情景”を映画にするのは難しいことが分る。記憶や呼び名や文が、つまり言語的なものが、感覚を変容させつつ、新しい官能=快楽を誕生させる当の過程そのものを描くには、やはり言語によるほかないからだ。映画はYou Tubeで15分ずつ7回にわたって、全部が観られる↓。
http://www.youtube.com/watch?v=YNTqDFn61h8