ベルク『ヴォツェック』

charis2014-04-13

[オペラ] アルバン・ベルクヴォツェック』 新国立劇場 4月13日


(写真右は、舞台の床に張った水が部屋に反射して美しい模様を描き出している、手前右手の人物はグロテスクに太った大尉、奥に並ぶのは失業者たち、写真下は兵士ヴォツェックとマリー、人形を使っているが、舞台に「記号」が散乱しすぎて分かりにくくなったのではないか)

2009年の初演を観たので、今回は二度目。クリーゲンブルクの演出は現代演劇の手法を感じさせる凝ったもので、舞台においてさまざまな記号が戯れるスタイリッシュな造形になっている。それはきわめて美的ではあるが、ビュヒナーの原作にあった物語の核心、すなわち、非人間的な抑圧の中で貧しい青年が次第に狂気に陥って死に至るという主題が曖昧になり、印象が薄くなったのではないか。アドルノはこのオペラを「リアルなヒューマニズムのオペラ Eine Oper des ≪realen Humanisumus≫」と呼んでおり(1955)、ビュヒナーの原作からして、1821年6月21日にライプツィッヒで起きた、貧困の理髪師ヴォイツェックが妻を殺害した実在の事件の処理を告発するために書かれた戯曲である。無調音楽のオペラなのだから、いわゆるリアリズムではないが、記号が戯れるポストモダン芸術でもないのである。


そのことは、1994年のパトリス・シェロー演出(ベルリン国立歌劇場バレンボイム指揮)と比べてみるとよく分かる。シェローの舞台も、モダンでカラフルな長方形の箱が舞台を動き回るスタイリッシュなものだが、人の演技はリアリズム演劇のように愚直かつリアルに表現されている。たとえば、大勢の兵士たちが床に寝ている中で、ヴォツェックがよく眠れずに幻覚に悩まされて起きてしまうシーンは、その通りに表現されているが、クリーゲンブルク演出では、兵士たちは黒服を着た失業者たちに置き換えられて象徴化され、しかも水の中に立っているので、寝ている兵士という場面は表現できない(薄いマットレスのようなものを身に付けているシーンが「寝る」の記号なのだろうが、知っている人しか分からないだろう)。また、第3幕冒頭、マリーが聖書のマグダーラのマリアの節を読み上げるシーンは、マリーが自分を罪深い女として意識する重要な場面で、シェロー演出では、やけに大きな聖書をめくりながらマリーが読みあげている。しかし本上演では、何もなしにマリーがつぶやくだけなので、聖書はまったく出てこない。行き過ぎた抽象化というべきで、何が起きているのか分かりにくくなっている。水の中に立っている失業者たちが、まかれた餌に群がる魚に化してしまうというシーンも面白いが(写真下↓)、「貧しさ」を記号化する過剰な演出ではないだろうか。

ヴォツェックの家族以外はすべてグロテスクな肉体をもつモンスターのように造形するというのは一計だが、太りすぎの大尉も含めて、コミカル過ぎるのはどうなのだろう(写真↓の右は、怪しげな医者)。マリーを歌ったツィトコーワは、声量はあったが、やや単調なのではないか。

動画があります(ただし2009年公演)↓。
https://www.youtube.com/watch?v=SWI2UWwAFRo