河合祥一郎・訳/演出『から騒ぎ』

charis2014-04-28

[演劇] シェイクスピア『から騒ぎ』(河合祥一郎 訳・演出) 東大駒場キャンパス


(写真は、ビアトリス[荘田由紀]とベネディック[高橋洋介])


河合氏が新訳・演出し、役者は、荘田由紀(文学座)、小田豊(元早稲田小劇場、レオナート役)などの中堅を除き、新国研修生終了などの若手による上演。駒場キャンパスにある、21 Komcee MMホールというモダンな空間を利用し、舞台ではなく、平土間のような平面の四方に椅子を並べ、観客に囲まれた小さな長方形の空間で演技が行われる。ピーター・ブルック風の「何もない空間」に、役者の身体表現と科白だけの、いわば純化された演劇の姿を見る思いだ。バイオリンとパーカションのシンプルな生演奏と、部屋全体の光を変化させる照明も良かった。何よりも役者が若々しいので、踊っても叫んでも、初々しくて楽しい。名優というより、どこか素人っぽい感じが、この作品に似合っているのだろうか。1500円全自由席の実験上演なのだが、満席の大成功。2年前に、オクスフォード大学の学生劇団が池袋でやった『から騒ぎ』は、1950年代のイタリア・マフィアに場面を移すという想定だったが、本上演は、舞台装置や小道具を排して、コンテクストを観客の想像力に委ねるというミニマリズムの要素があると思う。


『から騒ぎ Much Ado About Nothing』はおそらく、「くだらなく、馬鹿げた、空しい大騒ぎ」という意味だろう。2年前のオクスフォード大の演出家は、シェイクスピア「問題劇に近い」と述べていたが、ただ楽しいだけの喜劇とは言えない奇妙な作品だと思う。独身主義者のビアトリスとベネディックが、言葉とは裏腹に恋に陥ってゆく主筋は、『じゃじゃ馬馴らし』と似ているが、ビアトリスもベネディックも、『じゃじゃ馬馴らし』のカテリーナとペトルーチオのような「いじめ」はしない可愛げのある人物なので、十分に楽しめる。しかしそれと交錯するヒアローとクローディオの結婚譚という副筋は(というより、対等のもう一つの主筋か)、登場人物の行動があまりに薄っぺらなので、リアリティがなく、どうも釈然としない。ヒアローが結婚式の前夜に別の男と不倫したという、でっちあげの陰謀を、婚約者のクローディオと仲介者のドン・ペドロがあっさりと信じてしまい、事の真相を吟味するでもなく、直ちに翌日の結婚式でヒアローを罵倒し、ヒアローに復讐するというのもおかしいし、ヒアローの父レオナートが、自分で調べもせず娘を非難する側に回るのも、普通ならありえない。クローディオという男は、これはもう最低の男で、ヒアローへの愛情の告白もしなければ、求婚も、仮面舞踏会でドン・ペドロが代行するというおそまつぶりで、死んだと思い込まされたヒアローの代りに別の女性と結婚しないかという提案を、考えもせずすぐ受け入れるのもおかしい。彼にはヒアローへの愛など、最初からまったく存在しないのだ。その別の女性が実は生きていたヒアローその人であり、クローディオというダメ男くんも彼女と結婚できたという大団円で終わるのだが、しかし観客は、この結婚譚の男たちの誰にも共感できない。薄っぺらな男たちの「馬鹿げた、空しい、大騒ぎ」として、これを嘲笑するのが、シェイクスピアの意図なのだろう。


とはいえ、この作品が喜劇として成り立つからには、クローディオたちの不愉快さを相殺するだけの、楽しい、共感的な笑いがなければならない。その役を引き受けるのが、ビアトリスとベネディックの互いの意図を裏切って成就する恋愛であり、それをおぜん立てする周囲の陰謀であり、巡査ドグベリーが機関銃のように打ち出すマラプロピズム(=系統的な言い間違い)の笑いだろう。河合氏の演出は、ビアトリスとベネディックの遣り取りと感情表現を丁寧に細かく造形しているので、ごく近くで接する観客には効果的だ。ビアトリスは結婚式でヒアローが失神したとき、彼女を真に弁護するし、ベネディックもまたビアトリスの要請を受けてクローディオと決闘する決意を固めるなど、この二人は、ヒアローの唯一の真実の味方であり、クローディオ、ドン・ペドロ、レオナートなど軽率で不誠実な人間たちと対照をなす。その意味では、二人が結ばれる必然性はあるのだ。また、ビアトリスとベネディックがそれぞれ相手を思っているという嘘の情報を本人たちに聞かせる陰謀の場面も、実に面白い。特に娘たちのはしゃぎぶりは、見ていてとても楽しく、演出も巧みだと思う。ドグベリーのマラプロピズムにしても、言い間違えられた言葉を聞きながら、観客には本来の正しい言葉がすぐ分かるという難しいもので、英語を日本語に置き換えるのは至難の技だろう。小田島訳や松岡訳に比べて、河合訳がどのくらい新しい工夫をしているのかは分からないが、大いに笑いが取れて、楽しいものだった。河合氏の演出は、笑えない非喜劇的な要素もうまく取り込んで、全体を喜劇にもってゆく巧みな演出だったと思う。