METシュトラウス『エレクトラ』

charis2016-06-05

[オペラ] MET シュトラウスエレクトラ』 2016.6.5 銀座の東劇


(写真右は舞台全景[ただしこれのみは2014年スカラ座]、写真下はすべて今回のもの、エレクトラを歌うニーナ・ステンメとクリュタイメストラを歌うヴァルトラウト・マイヤー)



初めてMETライブ・ヴューイングを観た。今年の4月30日にメトロポリタン歌劇場で行われたパトリス・シェロー演出、サロネン指揮の『エレクトラ』を映画館で見せるもの。実演を観るのとは異なるが、この作品の魅力がよく分かった。


エレクトラ』は、アイスキュロスソフォクレスエウリピデスの三人がそれぞれ戯曲を残しており、ギリシア悲劇でももっとも重要な作品の一つである。シュトラウスのオペラ1909は、ソフォクレス原作をもとにしているが、台本はホフマンスタール。音楽は『ばらの騎士』などに比べると前衛的。今回のシェロー演出版では、オレステスをはじめ黒人歌手がたくさんいることが印象的だった。とりわけオレステス(エリック・オーウェンズ)が体の大きなアンクル・トムのような人物であることは、姉エレクトラと弟オレステスの再会の場面を崇高で深みのあるものにしている(写真↓)。激しく歌うエレクトラと、うつむいて涙を流し、黙って抱きしめるオレステス。今までに見た演劇版はどれも、オレステスはスラリとした長身のイケメンだったが[たとえば寺島しのぶ[=エレクトラ]の本当の弟である尾上菊之介]、アンクル・トムのような地味で優しいオレステスこそ、弟オレステスにふさわしいのではなかろうか。「美しい王女だった私は、犬のように醜くなってしまった。でもオレステス、そういう私をあなたに見詰めてほしい!」と歌うエレクトラは、たとえ犬のように醜くなっても王女の輝きを失っていない。そして、召使のように優しく抱きしめる弟オレステス。彼はあくまで弟であって父(アガメムノン)ではない。父-娘性とは異なる姉-弟性というものを感じさせるこの再会シーンは、愛が輝き出る崇高さに満ちていて、私は涙が止まらなかった。


今回の上演を観て思ったのは、ギリシア悲劇をオペラという表現様式にすることの積極的な意味である。歌うことによって、語ることとは異なる、言葉の新しい力が生まれることを感じた。それによって、人物のそれぞれにより深い個性が感じられる。それにしても、この作品は全一幕ではあるが、1時間50分をエレクトラはほとんど休みなく歌い続ける。こんな過酷なソプラノの役は他にあっただろうか。『フィガロ』のスザンナも歌う量が非常に多いが、デュエットのような重唱がほとんどないエレクトラの方が歌手の負担は大きいと思う。そして、それだけの時間歌い続けることができるためには、歌詞が言葉として素晴らしいものであることが必要だと思う。今回気が付いたのだが、ホフマンスタールによるオペラの歌詞化は、何か傑出したものがあるのだろう。言葉は、歌われることによって、語られるのとはまた違った美しさを持つことができる。


そして、終幕が素晴らしかった。ずっと歌い続けてきたエレクトラが、歌をやめて踊ろうとするのである。「さあ、みんなここにいらっしゃい、一緒に踊りましょう。幸福という重荷を背負って、私が皆の前で踊ります。私たち幸福な者にふさわしく、ただ黙って踊りましょう!」 歌うエレクトラと踊ろうとするエレクトラ。たしかにオペラは演劇にはない新しい美を創り出している。オレステスとの再会と、終幕の場面は、演劇版だと特にどうということもないが、オペラでは明らかにクライマックスになっている。


下記に動画があります(ただしエクサン・プロヴァンス音楽祭での初演)。
https://www.youtube.com/watch?v=CxPrtsOtyUg

今回の映像もありました。
https://www.youtube.com/watch?v=6xBSHoMlS68