平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』

charis2016-07-11

[演劇] 平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』 吉祥寺シアター


(写真右はポスター、スタッフが一緒に風呂に入っているのは「親密圏」のパロディーだろう、写真下は、左側の女性がセンターの所長、右側の二人は民間ボランティアのスタッフ、そして下の写真は全景、色のついた扉の奥に防音の相談室が三つある)


非常によくできた作品で、現代日本のある局面の問題を鋭く活写しながら、軽みのある喜劇になっている。生活困窮者や虐待、DVなどで困っている人が、相談や避難に訪れる駆け込み寺型NPOのオフィス。昔はこのような組織はなかった。このような「私的な」問題で「困った」人がそこに頼り、困った人を「助ける」のは、家族、親戚、親友、あるいは寺や教会など、広義の「親密圏」や共同体であった。しかし現在では、児童相談所、生活相談所、ハローワークなど、「福祉」に関わる行政組織やNPOなどが代行している。抱えている悩みや問題が私的であるのに、扱う組織は公的あるいは半公的である。ここに生じるさまざまな(そしてむしろ滑稽な)問題が、この劇の主題である。劇中に二三回ふと漏らされる「おせっかい」という言葉も、キーワードの一つだろう。


このNPOは、幹部スタッフ二人が市役所からの出向であると同時に、近所の暇なオジサンやオバサンも(彼らは人の噂話が大好き)「民間ボランティアスタッフ」として働いている。インターン実習中の大学生も2名いる。とはいえ、彼らはやることもなく、オフィスで碁を打ったり、自分の勉強をしている。完全に公共的な要素と、大学の単位という教育的動機、「ボランティア」という私的自発性にもとづく動機などが混在する、奇妙で曖昧な組織なのである。重要なことは、ここに持ち込まれる悩みや相談は完全に私的なもので、しかもその「困ったこと」が、できれば他人に知られたくないプライヴァシー保護を必要とするものであることである。子どもを連れて家出した妻は夫のDVについては口を濁している。海外の仕事で消耗し適応障害で退職した若いエリート商社員はオドオドしている。それに加えて、NPO幹部スタッフの女性の夫が少女盗撮(!)で逮捕され、新聞にも出た。本人のせいではないのに、市議会で問題にされ人の噂になったので、NPOの「信用にも関わる」と本人はとても恐縮し、「妻としての責任」も感じれてうなだれている。人を助ける側が困った立場になってしまった。


「人に言いにくい」問題や悩みなので、各相談室の外部にあるオフィスでの会話はすべて「奥歯にものの挟まった」言い方になる。所長の女性は特にそれが極まっていて、「えっ、まぁ、それは・・・」「さぁ、どうかな・・・」「何というか・・・」等々の科白しか言わず、台風の目が真空地帯であるように、存在感が薄い。しかしこれは、扱う問題の性質上、必然性のある事態なのだ。たとえば我々の職場で、同僚のセクハラやパワハラが問題になった場合、当事者の周囲は「奥歯にものの挟まった」ような言い方になるのによく似ている。そしてこの劇でとても面白いのは、本人がいなくなった途端に、残りの人たちが本人の噂をむしろ声高に言い立て始めることで、これは我々自身の姿でもある。我々はどうして他者のプライヴァシーにこれほど興味を持つのだろうか。スタッフたちも、「誰々さんに彼氏はいるの?」とか「〇○君はふられたらしい」とか、すぐそういう話になって盛り上がっている。挫折したエリート商社員に紹介される仕事は、市役所のゆるキャラぬいぐるみを着て歩き回る仕事で、プライドの高い「本人にはとても聞かせるわけにはいかない」のだが、スタッフたちは知っていて、楽しそうに話している。


DVにしても商社員の挫折にしても、それが生じることは、決して本人だけの責任ではないのに、問題を抱え込むのは個人になる。人に言いにくいそうした問題で他者に助けを求める場合、たとえば心理療法クリニックであれば、カウンセリングを受けるのに高い料金を払う(その対価としてプライヴァシーは保護される)。それに対して、行政やNPOは「(形式上は)無償で人を助ける」組織であるので、プライヴァシー保護は曖昧になり、人工的に作られた「疑似親密圏」がこれらを扱うと、悲喜劇こもごもの事態になる。どうしたら良いのか、正解はないだろう。平田オリザは決して、NPOによるこうした「人助け」は不要で、自己責任で解決しろと言っているわけではない。この劇は、起承転結という意味での「筋」はないので、ある意味では終わりようがない。個々の相談の解決がどうなったのかは、奥の相談室で続行されているので、提示されない。手前のオフィスで、全員が歌を歌って終幕というのは違和感が残ったが、よく考えてみると、これしかないのかもしれない。