東京芸術劇場『かもめ』

charis2016-11-06

[演劇] チェホフ『かもめ』 熊林弘高演出 東京芸術劇場 2016.11.6


(写真右は、ニーナ(満島ひかり)とコースチャ(坂口健太郎)、下はアルカージナ(佐藤オリエ)とトリゴーリン(田中圭)、そしてポスター)


私はこれまで『かもめ』の実演は、蜷川幸雄岩松了マキノノゾミ、齋藤晴彦による演出を見たが、今回が一番良かった。一緒に観た群馬県立女子大の卒業生は「鮮烈な、心に刺さった舞台」と言ったが、本当に、魂に突き刺さるような『かもめ』だった。チェホフはどの作品でも、誰もが狂おしいほど愛を求めているのに、それが満たされず寂しいままに人生を生きてゆく姿を描いている。その切なさと、限りない愛おしさこそ、チェホフの魅力である。チェホフにでてくる人は、みなちょっと変だ。でもそれは我々自身の姿であり、とりわけ愛を求めるときには、人は誰もがちょっと変になる。そして大概は、求める愛は与えられないので、また別様に少し変になる。チェホフの描く人間が愛おしいのは、愛は高度に複合的な現象であり、快、不快、喜び、悲しみ、憎悪、怒り、嫉妬、プライド、優越、卑屈、喪失など、たくさんの感情が噴き上がる、もっとも人間的な事象だからだ。


『かもめ』は「4幕の喜劇」と副題がついているが、最後、コースチャの自殺で終る「悲劇」(?)である。でも、その自殺を除いてはほぼ全篇がドタバタ喜劇なのだ。今回の『かもめ』でそれが良く分かった。初めて知った熊林弘高という演出家は、若い人らしいが凄い才能だ。喜劇性を極端に強調する舞台だが、『かもめ』は、4幕の最後に近づくところでは人々は変ではなく正常に見える。おそらくそこがポイントで、チェホフ劇は不条理劇に紙一重のところにあるのだろう。『かもめ』は、ある意味では登場人物の全員が主役のような劇だが、トリゴーリンは核心となる重要な役で、男性の名優がやるのが恒例だが、だいたいは中年だ。黒テントの『かもめ』では67歳の齋藤晴彦だったが、さすがに「枯れた」感じで、これはちょっと違うなぁと思った。今回の田中圭は32才、とても若いが、これが正しい役作りだと思う(写真↓ニーナと)。トリゴーリンは、アルカージナのいわゆる「若いツバメ」で、セクシーな魅力が必要だ。歴史的上演となったチェホフのモスクワ再演(1898)では、演出のスタニスラフスキ自身が演じたが、どうだったのだろう。

『かもめ』で一番衝撃的なのは、終幕の直前、コースチャのところに忍びでやってきたニーナが、二年ぶりに大泣きした後、「私はトリゴーリンを愛しているわ!前よりももっと強く愛しているわ、愛してるわ、愛してるわ」と叫ぶシーンである。何という残酷な場面だろう。彼女が愛しているのはコースチャではなくトリゴーリンなのだ。「私はかもめ・・・、いいえそうじゃない、私は女優」という彼女の科白は、負け惜しみではない。たとえどんなに落ちぶれても、勝者の言葉なのだ。トリゴーリンには捨てられたけれど、女優への道を与えたのは彼なのだ。「撃ち落とされた」かもめはニーナではなく、コースチャだった。私はこれまで、ここが一番つらい場面で、悲劇だと思っていた。だが、今回、若くセクシーでちょっとニヒルなトリゴーリンを見て、やっと分かった。トリゴーリンは才能ある人気作家であるだけではなく、釣りを好むアウトドア派である。どう見ても、ひ弱でオタク的な文化系少年で、非モテを絵に描いたようなコースチャよりもずっと魅力的な男性だ。ニーナが、コースチャではなくトリゴーリンを愛するのは当然ではないか。コースチャはどこまでも喜劇キャラのまま自殺する。心の底から「愛の不条理」を感じないわけにはいかない。満島ひかりも、ニーナのちょっと変なところをとてもうまく演じていた。ちょっとニヒルな感じを出すトリゴーリンの田中圭、存在感あふれる母親アルカージナを演じた佐藤オリエなど、役者はみな好演。こうして比べてみると、コースチャはどこか影が薄い存在であることが分かる。コースチャを演じた坂口健太郎はモデル出身の25歳、これが初舞台という。科白がやや聴き取りにくいところがあった。


(追記)トリゴーリンは二流の作家だが、そういう自分が良く分かっていることが、彼の美徳である。書けるうちにたくさん書いて、売れなくなったら転身するだろう。「藝術への愛」などという愚かな幻想はもっていない。そういう愚かな幻想をもっているのはコースチャの方である。トリゴーリンはなかなか深みのあるキャラクターで、チェホフ自身の冷徹な「文士」観があるのではないだろうか。(下記は舞台。とてもシンプルだが、劇中劇の設定など、とてもうまい)