二つの劇団によるイプセン『人民の敵』

charis2016-12-07

[演劇] 二つの劇団によるイプセン『人民の敵』 12月3日シアターΧ、7日シアタートラム


(写真右は、雷ストレンジャーズの上演、ストックマン博士を演じる寺十吾、下の写真は劇団tgSTANの舞台、2014年9月オスロ公演のもの、今回と配役は同じ、右端がストックマン博士)

イプセンの1882年の作品を二つの劇団がほぼ同時に上演するのを見ることができた。日本の劇団、雷ストレンジャーズと、ベルギーの劇団tgSTANの公演。私はこの作品は初見だが、非常な違和感を覚えた。筋は、温泉で街が発展しようとする矢先、温泉水の汚染が発見されたが、観光客が途絶えることを恐れた町の幹部が、発見者のストックマン博士にその発表を差し止めさせ、博士を孤立させたが、町民のほぼ全員がそれを熱烈に支持という物語。確かに環境汚染の問題と、利害関係者の対応というテーマはきわめて現代的で、まさにこういうことが起きていることは分かる。しかし、イプセンがこの作品で一番訴えたかったこと、つまり、「民主主義において多数派が正しいとは限らない」という「真理」は、ナチス政権誕生など20世紀の歴史が示したことであり、我々にとっては少しも驚きがない。イプセンがこれを書いた1882年には、議会制民主主義がいよいよこれから花開くという時期であり、大いに夢と期待を持たれていたであろうから、「多数派による選択の誤り」という事実はショッキングな「発見」であったのかもしれない。


まずこの作品で、我々は主人公のストックマン博士にまったく共感できない。社会や人間についての彼の現実認識が乏しすぎるために、温泉水の汚染を発見したのに、まったく有効に戦うことができない。兄の町長の反応をまったく間違って予想しているおめでたさにはあきれるし、惨めに敗北したあげくに「愚かな大衆が悪い」と大衆を罵倒し、「真理はつねに自分のような少数者にある」と強弁するに至っては、博士こそどうしようもない愚か者であることが赤裸々になる。大衆を説得する戦略をまったく持たないのだから、彼の敗北は必然であり、そこから「大衆は誤る」という大命題の「発見」を得意げに吹聴されても白けてしまう。しかし、考えてみればこれは、現代から過去を見ている我々の後知恵であり、それをあらためて確認することこそ、『人民の敵』が今、好んで上演される意義なのかもしれない。しかし、イプセンが「多数派の誤り」を主張したいのならば、ストックマン博士はもっと完璧に戦って、大衆の説得に努力し、それにも関わらず博士の意見が退けられた、というのでなければならない。博士があまりにも稚拙過ぎた。


二つの劇団を比べると、雷ストレンジャーズの上演はきわめて分かりやすいもので、ストックマン博士がすっかり「浮いて」しまい、新聞編集長や印刷屋の「裏切り」、大衆が残酷な視線で彼を眺めることなどが、うまく表現されている。しかしtgSTANの方はどうだろうか。まず、たった4人の劇団なので、一人が三役も四役もやるので、とても分かりにくい。それも兼ねる役が固定しているわけではなく、場面に応じて、異なる俳優が同じ役を演じるので、いよいよ分かりにくい。オランダ語上演だから、字幕がちょっとでもずれると誰の発言か分からなくなる。たしかに、俳優の身体パフォーマンスはきわめて高度で、役の切り替え時における同一俳優の身振りと表現の落差が、あたかも落語のように自在で、なんとも面白おかしいのは、この作品を喜劇的に仕立てるという一つの方向性を示しているのだろう。とはいえ、私は戯曲を読み、そして雷ストレンジャーズの上演を見た後でtgSTANを見たから分るのであって、戯曲を読まずに最初にこれを見たら、何が何だか分からなかったと思う。


追記 : tgSTANは分かりにくいという私に対して、森岡実穂さんからツイッターで下記のコメントをいただきました。納得です。

Miho Morioka 森岡実穂
@charis1756 ドイツの深読み再解釈上演と同じで、基本的に作品を知っている前提の上演ではないかと。欧州ならイプセンチェーホフならありでしょう。でも日本では事情が違うので、だからこそ今回雷ストレンジャーズの上演が先行する意味もひとつあるのではないでしょうか。