ベケット『ハッピーな日々』

charis2019-01-24

[演劇]  ベケット『ハッピーな日々』 蜂巣もも演出 アトリエ春風舎 1月24日


(写真右は、ウィニーを演じる岩井由紀子、原作では「50歳くらいの女」だからかなり若い、写真下は舞台装置の円丘、アトリエ春風舎は観客40人くらいの地下小劇場だが、この円丘はシンプルで美しく、とてもいい、これは開演時の光景で、ウィニーは眠っており、後には夫のウィリー[亀山浩史]が眠っている、パンツ一枚というのはこの演出独自のものなのか)

青年団若手自主企画の公演で、蜂巣もも演出、戯曲は長島確の新訳による(私は新訳を持っていないので、以下の引用は旧訳)。ふつう『しあわせな日々』と訳される本作のタイトルは、乾杯の音頭の「しあわせな日々を!Happy days !」に由来している。原作は1962年で英語。ウィリーは「60歳くらいの男」だから、もう死が近い老年の夫婦の物語だ。第1幕ではウィニーは腰から下は砂の円丘に埋まっていて動けず、第2幕では、首まで埋まって動けない。この円丘は、人生における時間を表わしているのだろう。一生の時間の全体を1として、すでに生きた時間を分母、死までの時間を分子とすれば、分子はどんどん小さくなり、やがてゼロになる。自分の人生のうち過去の比重が高まり、未来はほとんどない。それは普通に考えれば「しあわせではない」状態のように思われるが、はたしてそうなのか? これが本作の主題だと思われる。そして、ウィリーも四つん這いでやっと動くほど、体の自由がきかない。ウィニーの体は埋まっているが、身振りと表情は活発でよく動く↓。

この作品で重要なのは、ウィニーの科白が全体の99%くらいで、ウィリーは1%くらいしかないことである。ほとんどウィニーが一人でしゃべりまくっている。それも、自分の人生の過去にあったことばかりを、断片的でちぐはぐだか、反省的に語りまくる。この科白量の落差は、夫婦で言葉の対話がほとんどないことを示している。ごくたまに夫が、妻の問いにほとんど無関係なことを、ボソッと言うだけだが、それでも妻は、「まあ、あなた、きょうはわたしに言葉をかけてくれるのね、しあわせな日になりそうだわ!」と叫ぶ。二人には行為といえるものはほとんどない。しかしそうであればこそ、ウィニーがバッグから歯ブラシを出して歯を磨いたり、ごそごそバッグの中から生活用品を取りだしたり、日傘をさしたりするのは、数少ない重要な行為なのだろう。ウィニーがそれを嬉々として行うのも当然だ。本作が不思議なのは、開幕後ずっと、溢れるばかりのウィニーの独白の言葉が空回りしていて、返事をしないウィリーともども、二人は「しあわせ」とは思えないにもかかわらず、最後の最後に、いなくなっていると思われたウィリーが正装であらわれ、四つん這いになりながらも、ウィ二ーに近づき、ほとんど聞こえないかすれ声で「ウィン」と呼びかける終幕は↓、感動がどっと押し寄せる! ウィリーがそこに現れるだけで、舞台は一気に静かな感動に包まれる。夫が生きていて、そこに現われるだけで、死も近い妻は、「ああ、ほんとに今日はしあわせな日、今日もまたしあわせな日になるわ!」と叫んで、小声で歌を口ずさむ。これは小さなしあわせでしかないのか。いや、二人にとっては十分に大きなしあわせなのだろう。今回の上演は、奇を衒わないオーソドックスな演出というべきで、たぶん本作はこういう作品なのだろう。2月上旬に横浜で劇団「かもめマシーン」の上演があるので、そちらも見て比べてみたい。(下の写真は↓、2015年ニューヨーク公演と1979年イギリス公演)