ディキンソン詩集(1)

私の好きなエミリ・ディキンソンの詩を、少しづつ訳してみます。すでに良い訳がたくさんあります。でも私は私の言葉にしてみたい。正確な逐語訳ではなく意訳です。記号のJは従来のJohnson版の、Fは新しいFrankrin版の詩番号です。

ディキンソンの詩は相聞詩だと思います。特定の誰かへの相聞ではなく、自己、他者、自然が「今ここ」にあること、そのことへの相聞です。彼女の言葉は、魂の最深部から湧き上がってくるのに、いわく言いがたい自由な響きがあります。まずは「言葉」への相聞詩から。


1.言葉は、口に出されると死ぬ、と  
  人は言います
  私は言います
  いいえ、その日から  
  生き始めるのです。
          (J1212,F278)



2.詩人は、ランプに火を燈し     
  自分は消える
  掻き立てられた燈芯に、もし    
  光が生きて

  
  星たちのように、光るなら
  それぞれの世代が
   レンズとなって、輪を
  広げる。
        (J883,F930)



3.英語は、たくさんの言葉をもつけれど
  私が聴いたのはただ一つ、それは
  こおろぎの笑いのように、ひそやかに
  雷の物言いのように、声高に


  凪いだカスピ海の、老いた聖歌隊のように
  ぶつぶつとつぶやき
  北アメリカの夜鷹のように
  抑揚も新たに、独りごちながら


  心地よい私の眠りに
  眩いばかりの正書法で、割り込んでくる
  期待が、雷鳴となって轟きはじめ
  目を覚ますと、私は泣いている  


  悲しんでなんかいない
  喜びが私を突き上げるのだ
  さあ言って、サクソン語よ、もういっぺん
  私だけに聞こえる声で。
          (J276,F333)