ルネ・ヤーコプスの「フィガロ」

[CD] 今年発売されて非常に話題になったRene Jacobs指揮の「フィガロの結婚」(オケはConcerto Koeln、2003年4月録音)。初めて聴いた時は、あまりの違和感に拒否反応を起しかけたが、もう三十回は通して聴いただろうか、ずいぶん慣れた。あらためてその演奏について考えてみたい。

ヤーコプス自身が書いているノートが参考になる。二十世紀後半に入るまで主流だったpost-Romanticな演奏様式に対して、ヤーコプスはneo-Classicalなそれを対置する。前者の代表はカラヤンであり、楽器の音は全体として完璧に溶け合い、耳障りなclickは姿を消す。それに対して、neo-Classicalな演奏では、個々の楽器の音が互いに溶け合わずに細部の違いを保ったまま聞こえる。つまり、従来の演奏よりもずっとたくさんのディテールが聞こえる演奏なのだ。

ヤーコプスの「フィガロ」で特に目立つのは、歌にヴィブラートをかけたり、多彩な装飾音がよく聞こえることである。長い間無視されてきた「アッポジャトゥーラ」と呼ばれる装飾音も復活される。テンポについてもよく研究されている。テンポの絶対的速さをモーツァルト自身は指定しなかったが、後期交響曲など指定があったものを見ると、信じられないほど速いという。歴史とともにテンポがすっかり遅くなた理由は、聴衆が作品に愛着を持つようになり、「じっくり、たっぷり歌わせる」ことを好んだからだという。ヤーコプスは全体として速いテンポを取るが、ケルビーノのVoi che sapeteはゆったりと歌わせる。そこでは「時間が静止しているようにみえる」(!)と彼は言う。

やっと聴き慣れたとはいえ、長い間聴き込んできたCD(エーリッヒ・クライバーフリッチャイベーム、マリナー等)に比べると、ヤーコプスの「フィガロ」は余りにも細部まで聞こえて、小うるさい印象はやはり否めない。歌手一人一人の前に置かれたマイクで録音した最新技術もあるが、一定の距離を保って舞台のオペラを見る観客の立場からすると、細部が聞こえすぎるのは、何かモーツァルトの「調和の奇蹟」を損なうようにも感じる。