野矢論文を読んで

[哲学] 『思想』10月号の野矢茂樹論文は面白かった。簡単なコメントを。

(1) やはりライルと同様に、「二分割」と「アキレスと亀」の違いが明確でないように思われる。「分割の視点」は隠された形で「全体」が先取りされているというのが、ライル=野矢モデルのポイントだ。だが、「二分割」は確かに最初に所与の距離という「全体」が与えられるが、「アキレス」では「全体」は与えられていない。無理に与えようとすれば、それは「アキレスが亀に追いつく」という「事実」になるが、それを前提することは論点先取であり、ゼノンの主張に耳を傾けたことにならない。

(2) 野矢は、「追いつくはずなのに追いつかない」という形式を取ることがパラドックスの構成要件であると考え、青山-植村モデルは禁欲的に過ぎて「追いつく」ということに意味を与えられないと批判する。だが「追いつくはず」という思いは我々の常識的通念の中にあればよいのであって、モデルの中に「追いつく」条件を組込む必要はない。つまり、我々の「常識」との齟齬がパラドックスなのであり、モデルの中でパラドックスを示すことは課題ではない。

(3) 「紐の導入」の主旨は、アキレスと亀の運動を数量化し、「簡単な算数の問題」(p74)として、「追いつくという事実」を先に提示することにある。野矢は、簡単な計算をしてみせて、「ゼノンが何と言おうとも、この世界では、アキレスは亀に追いつくことになる」(同)と一方的に宣言する。

(4) だが、すぐ続けて野矢は、「しかし同時に、あたかもアキレスが亀に追いつかないかのような語り方が成立する」(同)と述べ、それは「分割の視点」だと言う。すなわち、つねに残りの1/2を切り取ることは、残りの1/2を残すことだから、分割の作業は決して終わらず、アキレスは亀に追いつかない、と。このような分割の視点が取れるのは、全体が与えられていればこそだ、というのが野矢説のポイントである。

(5) しかし、空間だけを問題にする「二分割」と違って、「アキレス」では時間の要素が入るから、まだ経過していない時間を先取りすることはできず、全体は原理的に与えられない。これが問題の本質である。「仮に、アキレスはここでこの時に亀に追いつくとしてみよう」という形で全体を考えることは、まだ過ぎ去っていない時間を空間化して全体を先取りすることであり、「二分割」に話を戻すことである。

(6) 時間は空間と違い、まだ到来していない未来の時間を先取りすることはできない。時間には、「ここまで来た=現在」という仕方で順次積み上げる「構成の視点」しか取れない。「分割の視点」を取るために「全体」を先取りすることは、過去・現在・未来という時間様相を無視することであり、時間の本質を無に帰すことである。野矢はアキレスと亀に「けりをつけた」のではなく、「振り出しに戻した」のではないだろうか。