「オニババ化する女たち」

[読書]  三砂ちづる『オニババ化する女たち』(光文社新書


内田樹氏のHPや反フェミニズム系サイトで絶賛されているので読んでみた。キャリア科目を担当した関係で、フェミ・反フェミ双方の動向に注意しているが、『女はすべからく結婚すべし』(島田裕巳)等とともに、「女の幸せは結婚にしかない」と説く「バックラッシュ系」の本が増えた気がする。酒井順子の『負け犬の遠吠え』は、タイトルと中身が捻じれ、むしろフェミ系だが、本書は、産業社会における女性の「中性化」を真っ向から批判した、反フェミの真打ちかもしれない。著者の主張にはまったく賛成できないが、このような本が出ること自体、思想対立の先鋭化の証なのだろう。

本書の核心は「出産原理主義」にあり、女性は次の世代を産むためにこの世に存在しているとされる。「次の世代に命を渡すということだけが、この世の中でやること」(p149)であり、「世代をつないで、どうやって気持ちよく生きて、スッと枯れていくか。・・・女性はからだに向き合うしかないのだと思います。からだのほかに向き合うものというのはないのです。それしかすることはないのです。」(239)

この「スッと枯れていく」ことができないのがオニババである。女性は「子を産む」ために性のエネルギーが充満した存在なので、結婚=出産という仕方で性エネルギーを発露できなかった女性はオニババになる。日本の昔話には、オニババが「道に迷った小僧さんを夜中に襲う話」があり、オニババは「ざらんざらん、べろんべろんと小僧さんの尻をなめた」(セクハラ!)と著者は引用する(p3)。

著者は長年にわたり第三世界における出産の改善に尽くした専門家である。また、医療技術に管理された現代の出産が快適でないという批判も当たっていよう。だが、60代、70代の女性から「病院で出産した世代」であるがゆえに、最近「おばあちゃんが全然、やさしくなくなった」(233)とか、「いくつになっても自分のことばっかり言っている年寄り、・・・いくつになっても自分の欲しか見えない」(236)オニババになったという因果関係は、あまりに人間を単純化している。人間の性格はもっと多様な要因で形成されるのに、性エネルギーの発散不全から一切を説明する俗流フロイト主義には唖然とさせられる。「枯れないで自己主張するおばあちゃん」をなぜそんなに敵視するのか。

女は18歳くらいで結婚すべきであり、「結婚において相手をこと細かく選ぶようではだめ、・・・誰とでもいいから結婚したほうがいい。生活のレベルが下がるとか、顔が悪いとか言っているような余裕のある人は、まあ勝手にしてちょうだい、オニババになれば」(183.f)と著者は言う。だが、これでは、男女を問わず現代の若者が直面している悩みには答えられない。学生には勧められない本だ。