t.p.t.「三人姉妹」

[観劇] 12.28  チェホフ「三人姉妹」  t.p.t.公演  ベニサン・ピット

演出はアッカーマン、台本はマメットの英訳(やや翻案)の邦訳。若さのただ中で悲しみを爆発させる「三人姉妹」だ。まず主要登場人物が圧倒的に若い。三人姉妹というより、同い年の三つ子の姉妹のよう。女学生のように可愛らしく美しい、長姉オーリガ。もっとも美女の俳優(奥貫薫)を、次女マーシャではなくオーリガに当てた。三人は、抱き合ったり、長椅子に三人重なったり、三つ子ならではの濃密なスキンシップを見せる。年が離れていればこうはいかない。男も、トゥーゼンバッハをはじめとする軍人は、長髪でパンクなアメリカ風の若者。

この若さでやるとどうなるか。三姉妹はほとんど対等だ。姉のマーシャとオーリガの「成熟」の要素が希薄になるので、ふつうは物語の柱になるマーシャとベルシーニン中佐の恋が前景を占めない。マーシャはたしかに魅力的な女性だが、若すぎて尖がっており、不倫の恋のしっとりとしたニュアンスがない。その点で、第二幕まで何となく違和感があった。

だが、第三幕後半から非常に見事な展開になった。三つ子ふうの濃密なスキンシップのゆえに、マーシャとイリーナは自分が持てあます情念を、爆発させることができる。三姉妹の年齢差が大きいと上下の秩序が成立してしまうが、その抑圧がないからだ。三幕の後半から四幕終了まで、イリーナはほとんど全部を泣いたままだ。マーシャとイリーナの苦しみはほとんど大差がなくなり、舞台は全編が泣きバージョンのまま、終幕まで突っ走る。

情念は最後まで浄化されずに、生きる苦しみを抱えて、人々はのた打ち回る。魂の昇華はない、という解釈かもしれない。唯一浄化されるように感じたのは、第四幕にナターシャの弾く「乙女の祈り」。「もう明日からこれを聞かなくて済む」とイリーナが憎悪を込めて叫ぶように、この「乙女の祈り」は俗悪な音楽として響くのだが、ここはどうしても毒消しの「乙女の祈り」でなければならない。モツァルトではだめ。最後の「さあ私たち、生きていかなくては」のところも、イリーナは泣いたままだ。普通は「ふっきれた」表情をするのに、それがない。珍しい演出。だが、もともと美的形象であるイリーナに加えて、二人の姉も青春の美的形象であればこそ、深い情念を昇華させずに地上に残すことができるのだ。チェホフの有名な言葉、「私の戯曲に涙を流した? 私が望んだのは別のものです」が思い出されるかもしれない。しかし、「三人姉妹」の持つこれだけ深い情念を開示する演出は、やはり特筆されるべき成功というべきだ。