『思想史の中の臨床心理学』(1)

[読書]  實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』(2004,10月 講談社)

優れた問題を提起している貴重な本だ。アマゾンにレヴューを書いたが、その各論を連載する。

Ⅰ 第1章 「意識の学」としての精神分析

(1) 今、日本で急速に影響力を強め、制度的地位を確立しつつある「臨床心理学」とは何なのか? その源流は、19世紀後半にヨーロッパで生じた「意識革命」にある。「意識革命」とは、「心」や「精神」の捉え方が変容し、数多くある心の機能の中でも、「何かを意識化すること」に際立った特権性を与えることを指す。これは、科学のもつ「形而上学的」残滓を払拭し、一切を人間の「意識に与えられる内容」から構成しようとする、科学の「実証主義化」とも帰を一にしている。

フロイトに始まる精神分析は、何か「いかがわしいもの」という印象を持たれることもある。しかし、心の中で抑圧されていた無意識を「意識にもたらす」ことが治療であるというその原理は、コントやマッハの実証主義や、ブレンターノ、フッサールらの意識の現象学と、実は同じ基盤に立脚している。

(2) 西洋の古代以来の伝統では、心や精神は、多くの機能を「無意識的に」遂行するものと考えられていた。ところが19世紀には、心の無意識的機能の部分を含めた「一切を対象化する意識」が突出した。だが、そうすると、そのような意識によって「意識される」ことによって、何が変わるのかという根本的疑問が生じる。

今まで知られていなかった事実関係や背後関係が発見されることは、それが「意識化」されることである。それによって、因果関係に新しい働きかけを行うことができるから、結果を変えることができる。これは対象世界の認識一般について言えることだ。だが、精神分析は、それを「自分の心」について行う。自分の心は、自分にもっとも近く親しいものであり、自分にしか知りえない「秘密」を可能にする「内面性」の砦でもある。そのような内面的で秘私的である「私の心」を、さらに「意識にもたらす」とは何を意味し、そして、なぜそれが「治療」なのか?

(3) 心の中の無意識を意識化する唯一の手段は、「言葉」によって言語化することだというのが、精神分析の、第二の原理である。しかも、患者一人では自分の心の無意識を言語化できないので、分析医の質問に「答える」という仕方で言語化する。このような言語的「対話」が精神分析における「意識化」の実質的内容になる。これは換言すれば、患者と分析医が協働しつつ「物語を作る」ことである。精神分析は、脳過程のミクロな分析や薬物による働きかけはしない。だから、その面での因果的な「発見」はない。他者との対話によって「自分の物語を作る」ことが、「発見」であり、さらには「治療」でもあるとすれば、そのような「意識化」のもつ特異性と帰結を見定めることが必要になる。

(4) 精神分析の治療は、カトリックにおける「罪の告解」と似ているが、それは、精神分析と宗教の深い親近性を示すものである。現代日本においては、学校における不登校や「いじめ」、不況や企業での競争激化などから、社会的な不適応という「病理現象」が注目されている。「こころの時代」が叫ばれ、臨床心理学はそのような「時代の課題」に応えるものと見なされて、制度化され影響力を強めている。

臨床心理学は「科学」という自己意識を持ちながら、歴史において宗教が果たしてきた役割を一部引き受ける注目すべき位置にある。広義の「治療」を期待されているという事実は、それが、人間が生きるうえで不可欠の、何らか「生の欲求」に向き合っていることを示している。


[評者の問い]

(a) 以上の著者の問題意識に対して、意識化と言語的対話の内的関連が、精神分析のポイントだと思われるが、少なくとも第1章においては、意識化と言語的対話という二つの柱が並立してはいるが、本質的相関については、まだ述べられていない。というより、二つを繋ぐために、何か媒概念のようなものが必要になるのではないか。

(b) 新たに発見された意識の対置概念としての「無意識」概念が広すぎるのではないか。フーコーが「古典主義」時代の心の機能について論じたように、知覚観念はそれ自身が記号であり、自動的にそれが意味するものを指示する志向性のネットワーク機能になっている。心に含まれるこのような記号的な指示関係は、いちいち意識して行うのではないという意味では「無意識的」であるが、精神分析でいう抑圧されていた無意識とは違う性格のものと思う。

(c) 精神分析における「意識化」による「発見」は、因果関係の発見なのか、それとも全体的な意味的な変容のことなのか。