『思想史の中の臨床心理学』(2)

[読書]  實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』(2004,10月 講談社)

第二章 意識はどう扱われてきたか

(1) 精神分析は、無意識を意識にもたらすことが治療に結びつくと考え、そのような「意識の役割」に特別な機能を認める。ところが、西洋の中世以来の伝統においては、「意識」はちっぽけな役割しか果たしておらず、高次の認識に関わる心の機能は、「個人の意識を超える」営みとしての「無意識」であった。「意識」は、どこまでも個人の感覚(=肉体)に繋がれたままで、肉体から自由になれない低次の心の機能であった。トマスからロマン派までを検討し、意識=低級、無意識=高級という西洋の伝統的な心の概念が、近代以降に少しずつ変容を重ねて、19世紀にはついにそれが逆転する過程が、第二章である。

(2) しかし、19世紀には意識が心の王座を占めたとはいえ、意識と無意識の関係は複雑である。心には「物質」と「精神」という対置概念も関わっており、意識=精神=心と、無意識=物質=肉体が対立するという単純なものではない。「物質」と「精神」の対立はむしろ名目的で、その規定のされ方は、思想闘争における政治的な性格が強かった(魔女狩り錬金術キリスト教神学との整合性など)。心はそれ自身の内に、物質的な側面(感覚、感情など)と精神的な側面(抽象的な思考、科学知、神に関わる知など)があり、意識−無意識という図式を古い伝統に外挿すれば、物質的側面が意識に、精神的側面が無意識にほぼ対応した(これは今日の我々の常識とは大いに違う)。しかし19世紀に意識が前景に表れたので、この対応関係は崩れた、というのが著者の主張。

(3) この議論は非常に興味深いが錯綜しており、評者にはうまく読み取れない部分もある。例えば、p85f,96,109fなどでは、自律神経=植物神経系と言われるように人間の肉体の栄養摂取と成長に関わる植物的な部分は、「無意識の心」に対応するとされ(96)、「18世紀の末になっても、物質と心は重なり合っており、心の中では無意識がまだ優位を占めていた」(109)と言われる。しかし著者の最初の構図では、トマスを典型として、意識は人間の肉体(感覚、感情)に繋がれているからこそ、ほとんど信用できないものであり、神の摂理に関わる高次認識(ニュートンの宇宙霊魂的な神など)こそが無意識であると捉えられていた。この二つはうまく整合するのだろうか。

要するに問題は、「物質と心の重なり合う」部分にあり、もし肉体のうちの植物的な部分が無意識ならば、感覚や感情を引き起こす脳神経過程も無意識に分類されるべきであり、それは、中世以来の伝統における「意識」をあくまで感覚や感情に繋げて理解する實川説と、うまく繋がるのかという疑問である。たとえば中世では、「意識conscious」は「良心=分別conscience」と不即不離だったという事実は、「意識」を「内面=神の声」に由来するという高次性においても理解できるのではないか。著者の構図は、西洋思想史を読み替えるほどの重要なものであるが、認識の低次−高次という対比と、意識−無意識、心−肉体という対置概念の「ねじれ」がまだ残るように思われる。この点は、精神分析における「魂にメスはいらない!」という肉体性の軽視にも繋がるので、次章以降の考察でも、さらに考えてみたい。