『思想史の中の臨床心理学』(4)

[読書]  實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』(2004,10月 講談社)


第四章 無意識の宗教としての臨床心理学


(1) 思想史をふまえて、臨床心理学に含まれる本質的な問題が考察される。それは、意識化の原理と、言語のもつ無意識性との齟齬である。分析者と患者の対話によって患者の無意識が意識化される、というのが治療の原理である。が、その前提である、意識と言語との予定調和的な協力という想定が怪しい。


(2) 臨床心理学は科学を標榜する以上、自然科学における「現象」に相当する「確実なデータ」に基づく探究を志向する。しかしその「データ」は、「じっさいには患者と治療者の共同作業による<物語>の創作である。この場合、<現象>の再現は、実験者ならぬ治療者が仕掛けている疑いがたいへん強い。」(p198) つまり、患者自身の「データ」や「現象」の中に、すでに治療者を含む言語的過程が含まれているから、それによって意識化されるものが、患者自身の無垢の「内面」や「データ」である保証は、最初から無い。

「治療者がある<学派>に属していると、不思議なことに、患者の方でもまた多くの場合、この流派の思想に合わせて<物語>を語ってくれるものなのである。フロイト派ならエディプス葛藤を、ユング派ならば<くらかげ=シャッテン>や<共時性>などを組み込んだ<物語>である。」(p214) 「専門家を頼って<物語作り>をするという行為は、じっさいには、意識化を促すのとは異なる働きをしている可能性が強い。」(217)

著者は、「物語への語り込み」を「意識化」と同一視するのではなく、両者を別のものとしたうえで、その関係を再構築することが必要だと考える。日本の伝統的な宗教的治療である「祈祷」において、患者の話もろくに聞かずに祈祷してしまうのは、カトリックの告解が信者による「罪」の告白にこだわるのと好対照をなしている。言語と意識を一体化するのは、臨床心理学が原罪のように背負うユダヤキリスト教的伝統であり、日本の文化の中ではまた、言語と意識の違った関係に立脚する臨床心理学の可能性もあり、行動療法などもその文脈で考えられるべきだと、著者は考える。


(3) 我々は、問題があるからといって、臨床心理学を捨てることはできない。その理由は、人類の長い歴史において宗教が担い続けた役割の一部を臨床心理学が果たしているからである。それは、人間の「心」は、人の生き方や人格の価値を構成する核心だから、ということである。いかなる専門諸科学も、個人の内面に立ち入り、人の生き方や人格の価値に踏み込んで助言をすることはしない。しかし、広義の「心の病」を「治す」ためには、全人格的な「人の生き方」に触れないことはできない。しかも、フロイトが示唆したように、「人の生き方」の根源を探れば、そこには、生命を生殖するものとしての人間、性的存在者としての人間がいる。聖職者に対する「罪」人の人格的従属関係と同様に、分析者と患者の関係には「心の秘密を明かす」人格的な従属関係があり、そこでは性的な感情が喚起されることも珍しくない。臨床心理学が担う課題は、ジェンダーセクシャルハラスメントをめぐる文化的「混乱」とも直結しており、文化における性の在り方を問い返すものでもある。