演劇版・カフカ『城』

[演劇]  1.28 カフカ『城』 松本修構成・演出  新国立小H


松本修は、『ガリレオの生涯』『三人姉妹』『ワーニャ叔父さん』、そしてカフカ『AMERIKA』を観たので、これが五回目か。台本無しで、長編小説『城』の各場面のワークショップをやりながら、舞台を作った。せっかく覚えた大量の科白が、カットで無駄になった俳優にはお気の毒だが、なるほど面白いものになっている。カフカの小説は、ディテールが鮮明で、人の科白が冴える。演劇向きなのだろうか。

松本の手法である、音楽とタップダンス風の踊りが多用される。演劇、踊り、バレー等は、言葉とはまた別の次元で、人間の肉体そのものを「記号」にしてみせる。今回は、肉体の「物象化」によるグロテスクな面が浮かび上がるので、人間たちがみな小さな「権威」を演じてみせる『城』のテーマにはぴったりだ。

それにしても『城』(1922)は面白い。村の人々はすべて、見えない空気のような権力関係を演じており、会話はすべて「いわくありげな」メタファーになる。一見、上下関係のようでも、実は水平的に権力関係が肉体化してゆくさまは、まるでフーコーそのものだ。庶民の一人一人がグロテスクに権威化する滑稽さは、ベケットのようなところもあり、オーウェルの『1984年』よりもこちらの方が不気味なのではないか。村長とか、役場の小役人の風体をしているが、まぎれもなく巨大で透明な相互監視社会が主題化されている。

主人公の「測量士」K(これは嘘)とフリーダとの切ない愛は、本当のようでもあり嘘のようでもある。性愛もまた相互監視の中で凍りつく。性愛と権力関係という現代の根本主題をカフカが先取りしているとは知らなかった。フリーダだけでなく、オルガ、アマーリア、女将、女中など、カフカの描く女たちのエロスは生彩に富む。カフカは実生活でも女好きの男性だったのだ。池内紀訳は、そのまま舞台に使える日本語なのが見事。

「すべてを真実とみなす必要はないが、必然と考えなければならない」というカフカの言葉は、なるほど『城』という、現代の寒々とした光景にふさわしい。