『脳はなぜ心を作ったのか』(3)

[読書]  前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房、'04年11月)


人間とロボットの共生社会はありえるだろうか?


(1) 前野氏は、未来の社会においては大量の「心をもつロボット」たちが人間と一緒に暮らし、ロボットの人権も大切にされるだろうと述べている。ロボット工学の専門家である前野氏のヒューマンな視点には、非常な好感を感じる。「心をもったロボットは、人にとって、信頼できるパートナー」だとも言われる(p181)。だが、冷静に考えてみると、われわれ人間は、自分と同じようなロボットを必要とするだろうか?

たとえば、私は一人の資本家で会社を経営しているとしよう。人間型のロボットを雇って給料を払うだろうか。それよりは、工場に「据え付け型」のロボットにして24時間働かせ、心など与えず、労働者意識など与えない方が、給料は払わずにすむし、ずっと会社の利益に適うのではないか。社会的に見ても、「人間と同じ」ロボットを作ると、彼らの住む住居がいるし、会社まで通勤する電車は混雑するし、資源とエネルギーの無駄使いになる。つまり、ロボットは人間に似ていない方が、生産労働のためにはずっと効率的だ。だから「人間に似た」ロボットを雇う資本家はいないだろう。


(2) だが、サービスや介護、高級ペットとしてのロボットは「人間に似せたい」と思うかもしれない。たとえば、美人の受付嬢ロボットとか、優しい介護ロボットなどである。だが、われわれ人間は、自分の都合に合わせて作った「他者」には、結局のところ物足りなさを覚えて、すぐに「飽きる」かもしれない。人間の「他者」はこちらの思い通りにはならない。しかし、ロボットに求めるのは自分に反抗せず、自分の思い通りになることではないか。だがこれは、相手に「人格」を認めることとは正反対のことである。たしかに介護ロボットは「道具」としては非常に役に立つ。とはいえ、介護ロボットが人間のように食事をしたり、自分の家に帰ってしまったり、給料を要求するならば、そうでない方が雇う側にとって好都合であろう。つまり、われわれ人間は、介護ロボットに一定の「機能」を求めるけれど、彼らが人間と同じ「人格」をもつことは求めないであろう。

ロボットを道具として考える限り、それが「人間に似る」必然性は乏しい。どこまで人間に近いロボットが作れるかという、ロボット工学者の問題意識は、理論的な問題としては非常に貴重なものである。だが、そのことと、「人間に似た」ロボットが実際に社会で必要になるかどうかは別であろう。地球にはすでにたくさんの人間が存在する。人間がもうこれだけいるのに、さらに「人間もどきの」ロボットが要るのだろうか。ロボットに求められるのは、「人間にはできないことができる」という特別の機能であろう。とすれば、未来のロボットはむしろ「人間には似ない」のだと思われる。


* もう少し詳細は、私がコンピュータと「ロボット」について書いた短文(98年)にあります。↓
http://www.gpwu.ac.jp/info/nishi/9/comp.html