四季『アンチゴーヌ』

[演劇] 3.21 アヌイ『アンチゴーヌ』  浅利慶太演出 劇団四季 自由劇場


これが最後かもしれないので、日下武史クレオンはぜひ見ておきたかった。四季旗揚げ第二回公演『アンチゴーヌ』(1954年)以来、彼のクレオン歴は半世紀を越える。アンチゴーヌは野村玲子。端正で美しい舞台と科白。アヌイ版はソフォクレス原典に比べると饒舌でだいぶ落ちると思っていたが、これは完成度の高い素晴らしい作品だ。以前は、原作にない、アンチゴーヌとエモンの恋愛場面が好きになれなかった。ソフォクレスアンティゴネはハイモンと会わないし、恋愛感情の表出もない。それだけに、「誰も私のために泣いてくれない。この墓が、私の花嫁の部屋」というわずかな科白から、王女の孤独が万感胸に迫る。『アウリスのイフィゲネイア』でも、イフィゲネイアは「さあ、私はギリシアの花嫁」と言って生贄の祭壇を登る。「女版イエス」は個人的な恋愛感情を告白したりしない。『コロノスのオイディプス』のアンティゴネも、盲目の父オイディプスに付き添う娘で、狂ったリアに寄り添うコーディリアを彷彿とさせる。彼女たちに、自分の恋愛の物語はない。


それに対してアヌイのアンチゴーヌは、「一人の女として愛して」「私っていけない子ね」「ちっちゃなアンチゴーヌ」等々と甘える普通の女の子だ。自分の恋愛をいとおしく語る彼女は、もはや「女版イエス」ではない。では何なのだろう。スタイナーの解釈するように、アヌイ版は、クレオンとアンチゴーヌの完全な均衡を特徴とする。その均衡が、ナチス占領下での政治劇を可能にしたのかもしれない。ナチスのフランス占領が1940年、アヌイの執筆が1942年、初演が1944年2月。パリ解放が44年8月。この作品がなぜドイツ当局の検閲を通ったのか。ナチスドイツで活躍したソフォクレス学者が意見を求められた可能性をスタイナーは推察する。舞台の幕切れ、王として「5時の閣議に向かう」クレオンは、ソフォクレス版の「すべてを失った愚かな王」ではなく、親族の個人的な不幸にもかかわらず公務を続行する「大人の政治家」なのかもしれない。ナチス占領下のフランスには、きっとたくさんのクレオンとアンチゴーヌがいたことだろう。アンチゴーヌは等身大の女の子でよいのだ。二人の兄エテオークルとポリュニースの遺体は実はぐちゃぐちゃで、どちらがどちらか分らないというクレオンの説明を聞いて、アンチゴーヌは動揺し、クレオンに降伏しそうになる。兵士の死体判別不能は、第一次大戦のヴェルダンの攻防で実際にあった話で、フランス人ならピンと来るはずだとスタイナーは言う。衛兵の小さな科白にも、第一次大戦が含意されている。重要なことは、この劇の「同時代」はフランスは解放されていないということだ。戦後の視点から「レジスタンス劇」として見ることはできない。クレオンとアンチゴーヌが「均衡」する閉塞感と絶望感。当時のフランス人は、どのような気持ちで見ていたのだろうか。


かつてシェリングは、ギリシア悲劇は「主人公を運命の超越的な力と戦わせることによって人間の自由を讃える」と述べた。アヌイのクレオンとアンチゴーヌは、ちょうど正反対の方向から運命と盲目的に戦わざるをえない、無数のフランス人の自画像なのだ。ギリシア悲劇を、「軟弱な文化人」クレオンや「普通の女の子」アンチゴーヌの物語として甦らせているは、「戦争の世紀」たる実在の二十世紀の悲劇性なのだと思う。