新国『フィガロの結婚』

[オペラ]  4.11  モーツァルトフィガロの結婚』   新国立劇場


ドイツ人のアンドレアス・ホモキ演出。東フィル、平井秀明指揮。2003年秋の再演だが、細部が手直しされている。非常に問題の多い演出だ。前衛劇風の舞台は「何もない空間」で、床が大きく傾いた人工的な部屋に、引越し用のダンボールが積まれているだけ。幕が進むにつれて、天井や壁板がはずれて、部屋そのものが解体してゆく。そして大きな改作として、第三幕最後のフィガロの結婚式場面がカットされる。さすがに音楽はカットできないから、結婚式が行われている隣室という設定で、そこに結婚式の音楽が聞こえている。そこでは、伯爵がバルバリーナに仕返しの陵辱を加え(初演よりやや曖昧)、「喪失」感にうちひしがれる彼女は、そのまま「失くしてしまった」のアリアを歌って、第四幕に連続する。


ホモキのプログラムノートによれば、『フィガロ』の主題は、「人間の本能 ― この場合、具体的にはエロスの力 ― は、人間の共同生活の秩序とつねに衝突する」ことであり、そして、「舞台の終りが近づくにつれて、人間の社会的地位を表す服装がなくなり、自分の衝動と戦う裸の人間のみを見ることになる」と言う。実際、第四幕は、皆がパジャマやネグリジェのような服になる(男はステテコ姿のようにしか見えなかったが)。第四幕の、スザンナが伯爵夫人に変装する場面では、変装しきれずに、スカートをふくらます骨組みのままスカートをちゃんと付けずに出てくるので、彼女は下着姿だ。こんな格好で激しく動くので、フィガロが彼女を伯爵夫人に見立てて口説くシーンが台無しだ。この口説きと応答の二重唱は、そのしっとりと美しい旋律美という点で、『フィガロ』中でも屈指の二重唱なのに、演技と音楽がちぐはぐになる。最近のヨーロッパのオペラでは、歌手を下着姿にすることが多いように思うが、『フィガロ』のように完璧な完成度をもつ作品には、まったくそぐわない。伯爵夫人を下着姿にしたら、さすがに演出家は非難されるだろう。では女中のスザンナやバルバリーナなら問題ないのか? それとも若い娘の「健康なエロチシズム」を見せるつもりなのか? 「エロスを寿ぐ」にしては、発想が浅いではないか。


ホモキはノートで、『フィガロ』を18世紀の枠から解放して超歴史的なものにすると述べているが、20世紀の不条理劇風に再構成することは、『フィガロ』を20世紀という枠に押し込むことを意味する。『フィガロ』はたしかに「エロス」が主題の作品だ。が、それは「エロスは社会秩序を突き破る」という話ではなく、モーツァルトの音楽による「調和の奇蹟」が、「エロスを寿ぐ」のだと思う。ピーター・ブルック演出の『ドン・ジョバンニ』もちっとも良くなかったし、モーツァルトと20世紀的前衛性とは何か根本的に異質なところがあるようだ。歌手ではスザンナに不満を感じた。初演の中嶋彰子は非常に美しい声だったが、今回の松原有奈は高音部の伸びが不足して、声量や声の質という点でも物足りないように感じた。