高橋哲哉 『靖国問題』(1)

[読書]  高橋哲哉  『靖国問題』 (05年4月、ちくま新書)


優れた本なので、アマゾンに書いたレヴューを補って、問題をさらに考えてみたい。まず本書の重要な論点を抜き出す。私のコメントは一番最後に。


(1) 靖国神社は近代の国民国家の典型的なイデオロギー装置である。1869年に東京招魂社として設立された靖国神社は、戦争で死亡した軍人とその関係者のみを「神」として祀る(現在でも同じ)。自軍の兵士だけを祀り、自国の民間人や戦争で殺害した相手国兵士や民間人は厳格に追悼対象から排除する。たとえば、明治維新西南戦争で祀られた「祭神」は、日本人でも「官軍」のみであり「賊軍」関係者は完全に除かれた。逆に、日本軍に徴用された朝鮮人や台湾人の兵士は、その宗教や遺族の意向は無視して「天皇の赤子」として靖国に祀られた。靖国神社は敗戦まで一貫して軍と一体の関係にあり、その本質は、戦死者を本当の意味で「追悼」するのではなく、自国軍人を「名誉ある戦死」として「顕彰」し、自国民を党派的に「鼓舞する」ことにある。


(2) しかし、このような戦死者の扱いは、けっして唯一のものでもなく、日本の伝統でもない。「戦争の悲しみを共有し」、戦争によって生を失った者をもっと深く追悼する習慣は、歴史的にいくらでも先例がある。たとえば、平重盛足利尊氏北条氏時などは、戦死した敵味方の兵士を共に供養し、「怨親平等の弔い」を行った。元寇や秀吉の朝鮮出兵で死んだモンゴルや朝鮮の兵士は、日本の寺院で祀られている。ハンナ・アーレントによれば、西洋にも、アキレウスヘクトル供養や、『アンティゴネ』の兄弟埋葬など、敵味方の死者をともに弔うという追悼の伝統がある。靖国が、たとえ自国民であっても、会津藩のような「朝敵・賊軍」を決して祀らないのは異常であり、近代国民国家の戦意高揚イデオロギーを極端に純化したものに他ならない。第二次大戦はそうした近代国民国家の「総力戦」への反省をもたらしたはずだ。たとえばナチスドイツの兵士は、もはや「英霊」として顕彰されてはおらず、「犠牲者」として追悼されている。そして、犠牲になったユダヤ人の追悼を何より重視するのが戦後ドイツである。靖国はこれと対極的な姿勢を現在も取り続けている。


(3) A級戦犯合祀問題として論じることは、靖国問題の矮小化であること。A級戦犯が祀られる靖国を首相が公式参拝することは、国家としての戦争責任を覆す行為であり、ドイツの首相がヒトラーの墓を詣でるようなもので許されないことは、良識的な保守派も認める主張である。東京裁判が「勝者の裁き」という一定の欠陥を持つとしても、戦後国際秩序に復帰したサンフランシスコ条約調印の時点で、日本は東京裁判の結果を受け入れている。A級戦犯は、国家としての戦争責任を対外的に取ったものだから、A級戦犯が「神」として祀られる靖国を首相が参拝することは、戦争に対する日本の公的責任を覆す行為になるだろう。

しかし著者は、この考え方に反対するわけではないが、そこに大きな問題が含まれていることを指摘する。靖国からA級戦犯をはずして分祀することは、中曽根内閣以降の自民党政府が狙ったが実現しなかった。仮に実現すれば、A級戦犯さえ分祀すれば残りの「軍人顕彰」は何の問題もないかのような錯覚が生まれる。しかしこれは、戦争の死者をどのように追悼すべきかという、近代国民国家の一番の問題点をスポイルする安易なやり方である。靖国問題の本質がかえって隠蔽されるだけでなく、問題ないと一般に思われがちな千鳥が淵戦没者追悼墓苑でさえも、我々が「戦争そのものを問い返す」視点を欠落させるならば、たやすく第二の靖国になってしまう。