永井均『私・今・そして神』(4)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書


今日はゼミの日。院生諸君の意見百出で、活発な議論が行われた。直観の鋭い人が多く、まさに「哲学に先輩後輩なし」(ヘーゲル)だ。その議論から。


(1) 永井は「今から5分前は客観的な時間点だが、私から50センチ前方は客観的空間的ではない」(34,40)と述べて、両者を対比させる。植村はこれを、「今が何時かはカレンダーと時計によって全員に共通に決められた事柄であり、自分の自由にはならない」ことと、「私は空間的に自由に移動できるから、<ここ>がどこかを、私が自由に決められる」という対比で説明した。

しかし永井自身は、「5分前」と「50センチ先」の対比、つまり「今」=客観的と「ここ(私)」=非客観的を対比するのに、自己―他者の区別を参照する(34〜37)。たとえば、他者というものが存在し、他者は50センチ先にあるはずの現実と虚構の境界線を自由に出たり入ったりする(34)。もし他者が50センチより遠くに立って、手を伸ばして私に触れるとすれば、伸ばされた手と私の触覚だけが現実で、顔や身体は虚構なのか? 「今」にはこうした問題は起きない。「5分前」と「50センチ先」の対比には、色々な観点ががありうる(院生N氏)。


(2) 「神の5分前世界創造」の二つの解釈について。ラッセルを普通に解釈すると、神は5分前にそれ以前の記憶の含めて「一度」世界を創造した。神の創造以降は、現実の歴史が普通に進行するから、その体験と記憶はすべて現実のものだ。それに対して、永井は50センチ先創造説に引きつけて、5分前創造説を再解釈する。すなわち、いつであれ、我々のそのつどの「今」から5分前に神は世界を創造するから、神の創造は、私が「今」を意識するごとに、何度も行われることになる。一回創造と繰り返し創造では大いに違うように感じられる。

が、院生G氏は、この二つは実は同じだと言う。5分前創造といっても、5分前の境界線の前後は、神の作った虚構の記憶と私の現実の記憶は、なめらかに整合的に接続する。映画の画面転換のような不連続はない。一回創造の場合は、それ以降はすべて現実の記憶だから整合的だ。しかし、私が「今」を意識するたびに、その5分前までの記憶の物語を神がそのつど創るとしても、その記憶の物語はなめらかな連続性を持たなければならない。「今」を意識するたびに毎回違った物語の記憶が創造されて、毎回の創造がいちいち記憶されて不連続な画面転換の集積として与えられるわけではない。これは、50センチ先創造説の場合、自分が動くにつれて、50センチ先の境界線でなめらかに「その外」と接合するバーチャルリアリティが連続的に創造されるのと変わらない。つまり、5分前創造説は、一度か繰り返しかによる違いはなく、50センチ先創造説とも違わないのではないか。