永井均『私・今・そして神』(5)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書


今日は、第1章5「神だけがなしうる仕事」を巡って院生諸君の活発な議論。神の仕事は、「人間には識別できないが、理解はできること」に関わる、という永井の定義は素晴らしい。パスカルが悔しがるであろうほど見事な「哲学者の神」だ。だが、ある日突然心を与えられたロボットや、ある日突然心を抜き取られた人間に生じる「変化」は、どのような意味で「理解はできるが識別できない」のか、よく分らなくなる。パーフィットの火星伝送の例とも比べて議論が進んだ。


(1) ロボットに心が与えられる/人間から心が抜き取られる、という三人称的な語り方には、永井がそう語ると同時に、もうすでに私―他者の非対称性が混入している。私から心が抜き取られ、抜け殻のようなものが残るとは、「私にとって」いかなる体験なのか? それは私が「死ぬ」ことだとあるが(50)、肉体が残り「心だけ死ぬ」というのはよく理解できない。むしろ、私の心は別の肉体に移って、元の肉体がいままで通りに振舞うのを「私は外から見る」ことではないのか。ちょうど、鏡に映る自分の鏡像が、外面だけのものに見えるように、自分の心は自分の元の肉体から抜け出て、外からそれを眺める。これが、「私が心を抜き取られる」体験であるとすれば、私には生じた事態が識別できるが、他人には識別できない。だから「識別できないが理解できる」のではなく、私は識別も理解もできるが、他者は識別はできないが理解はできる。(N氏、Y氏、S氏)


(2) 永井の言う「心」の曖昧さ。笑う、泣く、ケーキを食べる、セックス、議論、計画を練るなどの例で(50)、それに対応するクオリアの有無によって、心を持つ人間と心が無いロボットとがきっぱり分けられるかのように書かれている。が、これは「私の身体を外から見る」鏡像体験から派生する「私性」のようなもので、ただちに三人称的な「心」と等置できないのではないか。クオリアのような部分的体験が内的に感じられることが、ただちに「心」なのではなく、「不滅の霊魂」「基体としての魂」のような自立的に存在するものでないと、「与えられたり奪われたりする心」たりえないのではないか。(I氏、N氏)


(3) 関連する問題だが、永井の「心」は、脳などの身体機能と「完全に無関係」でなければならないことになる。ロボット工学者の領域と絶対に重ならないからこそ神の出番なのだから(49)。ということは、パーフィットの火星伝送のように、身体の完全なレプリカを火星で作っても、永井の場合には、そこに地球の私の心は「再生しない」ことを意味する。なぜなら、もし高度の脳機能にそれぞれ対応する心が「備わっている」ならば、ロボットの脳機能にもそれなりの心が対応するはずであり、どのロボットも心を持たなければならない。つまり、ロボットは神の恩寵によって心を与えられる前から、その高度な脳機能ゆえにすでに心を持っているのであり、ただ外からそう見えないだけだ。パーフィットの思考実験は、同一の物質的脳を再生すれば、同一の心が再生するという前提があるようだが、永井の場合は、そうした「脳に依存して随伴する心」であってはならない。とすれば、精緻な人工頭脳を持つロボットも藁人形も、同等の資格で、神から心を贈与されるはずだ。心身関係の犀利な裁断がここにはある。(G氏)