永井均『私・今・そして神』(6)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書


今日は、第1章6「5分前世界創造説と昨夜私創造説」と、7「私を創造する力のある神」を扱った。この2節は、これまでの議論で用いられた概念に新しい区別を立て、議論が変容する重要な箇所だ。永井は、「前節ではこう書いたが、本当にそうだろうか?」と、議論を"弁証法的に"進める。前回同様、院生から鋭い意見続出で、教師の私はそれを少し自分の言葉で反復するだけで論点が見えてくる。嬉しいことだ。


(1) 永井の文章で引っかかるのは、ロボットが「私になる」(58)という不思議な表現だ。神がある晩ロボットに「心を与える」という三人称表現ならば、天から降ってきた"魂"が物質に「住み付く」ことだから理解できる。だが、そういう他人事ではなく、ロボットが「私になる」とはどのようなことか? 今日のレポーターN氏は、これは永井の議論における「識別できないし理解もできない」ケースに該当するという意見だが、私は、「識別できないが理解はできる」ケースだと解釈した。この対立が今日のポイント。


ある晩ロボットに心が与えられても、翌日彼が「今日から僕には心があるんだ」と得意げに吹聴することはありえない。彼の過去の人生の記憶も神は一緒に創造して与えたからだ(57)。だから、我々が毎朝眼を覚ますように、彼も朝"人間として"眼を覚し、今までずっと人間だったその記憶と同様な今日の一日が始まる。つまり自分では「心が与えられた」ことに気付かない。が、ということは、毎朝眼をさます我々もまた、本当は昨日までロボットだったのに、睡眠中に神に心を与えられて、そして今"人間として"眼を覚ましたのかもしれないことになる。これが「ロボットが私になる」ということだ。つまり、「心が与えられた」という「変化」を、私は体験することができない。しかし、以上の物語には論理矛盾はない。これが「識別できないが理解はできる」と私が考える理由。


(2) 私の解釈は、永井が、「5分前に神は1000年前などの"実在の過去"(過去の記憶ではない)を創った」は論理矛盾なので全能の神にも不可能(=理解できない)と述べているので(64)、永井の主旨にも沿うように一応は見える。しかし、G氏の鋭い指摘により、私の解釈も怪しくなった。G氏によれば、神は、5分前に(記憶ではない)実在の過去を創ることも当然できるはずだ。なぜなら、「無からの創造」は、そもそも時間というものが無いところに時間を含む世界を創るのだから、過去世界それ自体が5分前に創造されても、そこには論理矛盾はないから「理解できる」。とすれば、「5分前に実在の過去を神が創造した」は理解できないが、「昨晩ロボットが私になった」は理解できる、という私の解釈は成り立たないかもしれない。


「ロボットが私になる」場合も、永井の言うような、過去の"人間としての"捏造記憶が一緒に与えられる必然性はあるのだろうか。ロボットだから過去の記憶は無いわけで、「今からお前に心を与えるから、ここからお前の記憶が始まる」という"神の声"だけを記憶して、朝眼が覚めるという「変化」の体験もありうるのではないか。が、神から贈られた心に言語能力は含まれてもよいが、過去の記憶は含まれないとすると、家族や友人の名前などは知らないはずだから、今日も昨日と同じような生活が始まるわけにはいかない。記憶喪失者が未知の土地で眼を覚ますのに近いが、これは「ロボットが"私になる"」のとは違う。しかし「私が無から創造される」ということは、「理解はできる」。