[上毛新聞コラム] 「視点」 2005年5月24日掲載
仕事で評価されるべき ―――(女性性の表現) 植村恒一郎
この三月に卒業した教え子たちから、近況のメールが届く。どれも「想像していたより大変です」とあり、早く仕事を覚えようと頑張っている姿が目に浮かぶ。配属された職場に「男の子はほとんどいません」というのもあった。大学と違って、世代の大きく異なる人たちに囲まれるのは、彼女たちには新しい体験だ。「若者が少ない職場に分散されるので、最初の研修期間に同期の男の子と知り合うのが大事なんです」、と言った卒業生もいた。
新規採用の抑制で、職場の年齢構成が高齢化したこともあるが、企業における女性社員の位置づけも、一昔前とは変化した。かつては社内の「結婚要員」の役割も期待された一般職の女性社員は、現在では減っている。代わりを派遣社員が埋めている。国立社会保障・人口問題研究所のデータによれば、職場結婚する男女の割合は、1970年代前半をピークに下がり続けている(『職縁結婚の盛衰と未婚化の進展』2005年1月)。女性の高学歴化と社会進出は、男女の結婚の機会を増やすわけではないのだ。
こうなる背景には、女性の社会進出における「女性性の評価」の問題があるように思う。それは、人間の根本的な欲求である「他者からの承認」に関わる問題だ。我々は誰でも、自分が誰か他の人から必要とされることに喜びを感じる。誰からも必要とされないのは寂しい。たとえば、恋人や夫婦は、自分が他者から必要とされる典型的な関係である。そこでは、自分の男性性や女性性が、互いに相手から承認されている。
だが、「他者からの承認」にはもう一つの柱がある。それは、人間としての活動の能力や成果を他者から評価されるという承認である。これもまた我々に大きな喜びをもたらす。男性性と女性性の相互承認。そして、活動や能力や役割の承認。この二つの「他者からの承認」は、これまでの社会では、男性の場合は自然に結びついていた。「仕事のできる男」は、それ自身が男性性の表現でもあった。しかし、「仕事のできる女」が女性性の表現として評価されるようには、まだなっていない。
たとえば、仕事のできる男性が独身でいても、「彼は男として幸福ではない」と言われることはあまりない。それに対して、仕事のできる女性が独身の場合は、「彼女は仕事はできるが、女としては幸福なのだろうか」と陰口をたたかれることがある。子供を産むことが、女性性に不可欠と思われているのだ。酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』は、この非対称性の鬱陶しさを正面切って取り上げたので、話題を呼んだ。
県立女子大では、女性であることを否定的に捉える学生は少ない。「女に生まれてよかった」とか、「お見合いってどんなものか、一度だけしてみたい」とか、みな屈託なく明るく言う。十年後も、このように明るくあってほしいものだ。が、「仕事のできる女」が女性性の表現としても当然視されるようになるには、私たち大人のするべきことが、まだ山ほど残っている。