宮崎哲弥氏の『靖国問題』書評

[書評]  高橋哲哉靖国問題』に対する宮崎哲弥氏の書評について

(私の『靖国問題』書評は、amazonの他、本ブログ4.21/4.23/4.26に3回ある)


『諸君』7月号の書評欄に、宮崎哲弥氏が高橋氏の『靖国問題』を「今月のワースト」に挙げ、次のように書いている。「高橋哲哉は、国家による追悼を一切認めない。A級戦犯分祀論も、新しい追悼施設案も、本書によれば、世人を瞞着するための反動勢力による策謀に他ならない。原理主義者なのだ。ならば高橋は、中国、台湾、韓国、北朝鮮の、国立の追悼施設や墓地に対しても、同様の非難を浴びせるべきだろう。靖国に唾を吐きかけたように。やってみるがいい。」(p310)  情理兼ね備えた高橋氏の議論をまったく理解しない、不当な書評である。以下、その理由を述べる(著者は敬称略)。


(1) まず高橋は「靖国に唾を吐きかけ」てなどいない。戦争で死亡した日本軍兵士と民間人、相手国の兵士と民間人など、すべてが「戦争の犠牲者」なのであり、彼らの真の「慰霊」こそ彼の求めるものである。戦争による若者の死は悲しい。自国の青年の死だけでなく、死んだ敵国の兵士もまた、戦争さえなければ我々の良き友人でありえたはずの青年である。戦没者の追悼は、「戦争による人間の死」に対する悲しみの感情に立脚すべきものである。これがまず、高橋の一番基本にある視点だ。


高橋は、靖国が死者を「名誉ある戦死として顕彰する」ことを批判するが、これは靖国だけを批判しているのでなく、中国も韓国も含めて、近代国家一般の「国家による追悼」の悲劇性という視点を確立しようとしているのだ。中国や韓国の「自国戦死者の顕彰」も、高橋の視点からは、当然批判の対象になる。近代国家が遂行した戦争において、その死者たちをナショナリズムの枠を超える視点で慰霊した例は、実はまだほとんどない。例外はドイツであろう。ナチスドイツの兵士たちは「英霊」として「顕彰」されてはいない。「戦争と暴力支配」によって「罪なくして犠牲になった者」として追悼さている。追悼されるのは敵国の死者を含むが、ヒトラーのような戦犯は含まないと解釈されているという。二つの大戦という高い代償を払って、やっとわずかに芽生えた「ナショナリズムを超える追悼の視点」である。これを生かしてゆくことこそ、戦没者への真の慰霊のはずである。このように、高橋はきわめてまっとうに、問題を根本から正しく立てている。なぜそこが、宮崎には分らないのだろうか。


(2) アマゾンのレヴューにも、A級戦犯分祀論や新しい追悼施設案に対する高橋の「冷淡な態度」を疑問視する意見がある。これはたしかにもっともな疑問であろう。しかし、本書はもっと射程の大きな議論をしており、小泉首相靖国参拝は是か非かというレベルの話ではない。中曽根元首相でさえA級戦犯合祀の靖国への参拝は「国益に合わない」として反対しており、追悼施設は国家対国家のレベルでの「解決策」としては、保守派も含めて賛成している。それは、現実の政治的課題ではあっても、思想的課題としての靖国問題ではないだろう。それが実現したとして、それで何が解決するのかというのが高橋の問いである。彼の「冷淡さ」を私はそのように解する。そもそも、日本は国家としてサンフランシスコ条約東京裁判の結果を「受諾」したのであり(下記引用↓)、戦争犯罪の加害者としてA級戦犯を認定した。これは国家としての日本国の行為であり、東京裁判を「勝者の裁き」として批判的に捉える個人の史観はもちろんあってよいが、しかしそれとは別次元の国家の法的行為の問題である。戦争犯罪の加害者として日本国が認定したA級戦犯を祀った靖国を、日本国の首相が参拝できないことは、法的な常識であって、靖国の思想的課題ではない。靖国の思想的課題とは、近代国家の戦争というもっとも困難な課題に向き合うことである。それを明確にしたことが、高橋の功績である。


第十一条【戦争犯罪】 :日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。