[書評] 『週刊新潮』6月16日号 「小泉・靖国参拝問題特集」
『週間新潮』は、「小泉<靖国参拝>私はこう考える」と題して、21人の著名人の賛否の意見を載せている。この雑誌にしては意外にも、参拝反対意見が少なくない。が、それとは別に、参拝賛成派の福田和也氏が寄せた論考「日本人にとっての<A級戦犯>」は、賛成の論拠を述べている点で、より興味深い。私は、福田氏は大きく間違っていると思うので、以下にその理由を示す。
(1) 福田氏は、サンフランシスコ講和条約第十一条に独特の解釈を与え、それが日本国の法的行為として、戦争責任を根本的に規定したものであることを、あえて曖昧にしようとする。それは、国家としての戦争責任の取り方の本質は、戦争加害者の「加害者性」を日本国自身が法的・公的に認知することにあるという、一番肝心な点を無視するものである。
サンフランシスコ講和条約第十一条:「【戦争犯罪】日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」
福田氏は、この「裁判を受諾し」の英語文「Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal」の「the judgments」は「裁判」ではなく「判決」の誤訳であると言う。つまり、「死刑」とか「懲役何年」という「刑量」のことを意味するのであるから、その刑期を終了すれば「すでに罪はつぐなっている。ならば、いまさら罪人として扱うのはおかしいのではないか」(p34)と主張する。これが、福田説の核心である。
だが、プロセスとしての「裁判」は「判決」(the judgments)によって完成するのだから、「裁判」を「判決」と読み替えても事態の本質は変わらない。重要なことは、「刑量」とその終了にあるのではなく、刑罰を課された戦争犯罪者を加害者として認定する行為の主体は誰なのかという、まさにその一点にある。サンフランシスコ条約以前は、占領状態であったから、極東軍事裁判の「裁く主体」は戦勝国である。日本国ではない。だが、サンフランシスコ条約の、「日本国は、・・・裁判(判決)を受諾する」という条文は、加害者の規定主体が、戦勝国から日本国へ移行したことを意味している。これが、日本国の「独立」の法的意味であり、つまり、日本国として、戦争への加害責任を全世界に対して公的に認めたのである。
(2) だからこれは、A級戦犯が「刑罰を受けて、すでに罪をつぐなった」こととは、まったく別次元の問題である。戦犯者それぞれは、当然、処刑あるいは服役により「罪をつぐなった」とみなされる。だが、そのことによって、戦争責任の公的規定としての「加害者規定」が消えたわけではない。個人が「罪をつぐなう」ことと、国家が戦争責任を認めることはまったく別問題である。彼らを加害者と規定することが、そしてそれのみが、国家が戦争責任を認めることなのである。
そして、A級戦犯が祀られる靖国への「日本国首相」の参拝が許されないのは、国家の戦争責任の公的認定に抵触するからである。国家としての戦争責任は、個々の戦犯者の刑の終了によって終了するものではない。個人の罪ではなく、国家の戦争責任だからである。だから、小泉首相が首相をやめた後に靖国を参拝することや、「東京裁判」を不当な裁判として「認めない」という立場を取ることは、彼個人の自由である。そして、日本国を公的に代表していない我々個人が、東条英機の墓に詣でて彼を鎮魂することも、その人の自由に属する。しかし「日本国首相」がA級戦犯の墓に詣でる自由は、これからもない。福田氏の議論は、国家としての戦争責任と、戦犯者個々人の「罪のつぐない」とを意図的に混同する、まったく誤った主張なのである。