永井均『私・今・そして神』(8)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書) 


今日のゼミでは、第2章「ライプニッツ原理とカント原理」の前半を扱った。G氏のレポートを中心に議論。以下、議論になった論点として、「私の分裂」について。


(1) 「私の分裂」(p120〜124)の問題とは、私がまったく対等の条件で二つに分裂した場合、二つのうちのどちらが「私」なのかという問いである。「私が永井Rと永井Lの二つに分裂したとき、気がつくとなぜか私は永井Lの方であったとしよう。これは、かりにLの視点に立ったら、Rは他人だということではない。なぜか現にLの視点に立たされてしまったから、Rは現に他人だと言っているのである。現にもうLなのだから、かりに立てるのはもはやRの視点の方だけなのだ。この差異こそがカントを超える問題なのである。」(121)


(2) 永井によれば、カント原理ではどうしても捉えられない「開闢の奇蹟」を、曲がりなりにも表現できるのがライプニッツ原理である。だが、「私が二つに分裂する」という命題そのものが、よく考えてみると理解不可能なのではないか。永井はp98で、「私がこれからブッシュ大統領になる」は理解できない。「そう<なる>ということの意味が我々に理解できないからだ」と述べた。「私がブッシュ<である>」可能的世界を考えることはできるが、「永井である私が、ブッシュである私に<なる>」ことは考えられない。アリストテレス風に言えば、「〜になる」は運動・変化であるが、「〜である」という「開闢の奇蹟」は、私にとっての私の誕生や死がそうであるように、運動・変化ではない生成・消滅の事柄になる。


(3) 「私が分裂して二つになる」は、「〜になる」があるから運動・変化を表現する命題である。だが、<私>は、分裂する前と後に共通する実体のようなものではないから、「私が二つに分裂する」は、無意味な命題ではないだろうか。ライプニッツは「不可識別者同一の原理」の説明で、二つの違う状態のように最初は記述されても、それが言葉だけのもので、二つの差異を本当に与えることができないならば、二つは同一であって、二つのうちのどちらを神が選ぶかという問題は、見せかけの問題だという議論をする。「私が分裂して二つになる」も、そのように一応言ってみせて、後で取り消すならば、それなりに理解できる。しかし永井は、カント原理では捉えられない何かをあえて言おうとして、この議論をするのだから、「あるものが二つに分裂する」という時空連続性(カント原理)を伴う命題から出発してよいのかどうか、そこがよく分らない。