永井均『私・今・そして神』(9)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書


6月27日のゼミから。「私の分裂」(p120-4)についての、私(charis)の議論。


(1) パーフィットの「自我の増殖」は理解できる。「一人の人間が二人になる」というより、「二人の人間が、ある時点まで重なって存在していた」のだ。透明なプラスチック製のブーメランが二個あると考えよう。一方の「<」の字を裏返して二つを重ねれば「Y]字になる。「Y」字だと、一人が二人に分裂したように見えるが、実は、「>」と「<」の二つの字の下半分が、ある時点まで重なっていたのだ。その時点までの体験と記憶がすべて一致し、それ以後の体験と記憶が異なる二人の人物は、それぞれ自分を「私」と呼ぶことができる。このモデルでは、「どちらが本当の私なのか」という問題は生じない。「どちらも」本当の「私」である。


(2) だが、永井の問いは違う。二人とも「私」であることはできず、「どちらか一方だけが<私>であるのは、なぜなのか」が永井の問いの核心だ。この問いが、どのような条件の下で可能かを考えてみよう。まず、(a)「目撃モデル」と、(b)「目覚めモデル」とを区別する必要がある。「目撃モデル」とは、目の前で一枚の紙を二つに破るような場合で、時空連続体の内部で「一つが二つになる」のを目撃する。一方、「目覚めモデル」は、夜寝てから朝目覚める間に、時間空間体験が一度途切れている。カント原理は「目撃モデル」だが、ライプニッツ原理は「目覚めモデル」である。自分が寝ている間の時空の切れ目に、「神の創造」の余地が生じる。要するに、永井の問いは「目覚めモデル」なのである。それに対しては、はたして「時空の切れ目」を有意味なものとして理解できるのかと、カントなら反論するだろう。


(3) 「目覚めモデル」のポイントは、「現在」が過去の線的延長上ではなく、「まったく新しく与えられる」ことにある。「目覚めたら朝だった」という、「現在が与えられる」体験そのものである。それに対して「目撃モデル」は、「目覚めている間の出来事」であり、「現在」が切れ目なく続いている。「目撃モデル」では、「一つのものが二つになる」という分裂が有意味であるためには、前後の二つの時点が連続的な「現在」で結合していなければならないからだ。つまり、「現在」についての捉え方の差が、ライプニッツ原理(「目覚めモデル」)とカント原理(「目撃モデル」)の差異なのであり、かくして問題は時間論の問題になる。

PS:冒頭のパーフィットに対応させれば、「一人の人間が二人になる」はカント原理に近く、「二人の私が、ある時点まで重なって存在していた」はライプニッツ原理に近い捉え方だ。