アベラールとエロイーズ

田島正樹氏のブログ「ララビアータ」8月8日の日記を読み、思い出すことがあった。
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田島氏は、ギリシアに由来する「自由な言論」の伝統の一例として、中世の哲学者アベラールの「弁証法」について述べられている。この「弁証法」とは、今日で言うところの論理学や哲学のことである。だが、アベラールとエロイーズの書簡を読むと、ギリシア起源の哲学や論理学は、キリスト教の信仰と緊張関係にあったことが分る。


「私は自分の職務(修道士)にふさわしく、もっぱら神学の講義に従事した。しかし私がより一層通じておりまた人々も私に主としてそれを期待する<究理の学>の教授をまったく廃したのではなかった。私はこれを一種の餌として用いた。これによって彼らに哲学の香気を嗅がせ、それでもって彼らを真の哲学研究に導こうとしたのであった。・・だが、世の教師たちは、つねに二つの非難を私に浴びせかけるのだった。一つは<究理の学>を研究することが修道士の目標とまったく矛盾するというのであり、一つは私が指導者なしに神学の教授をやるのは僭越であるというのであった。」(アベラールの第一書簡、岩波文庫版37頁)


彼が本当にやりたかったのは、「究理の学」すなわち哲学であり、聖書解釈のような「神学」ではなかった。だが哲学だけを研究するポストというものはなく、哲学を研究する者は孤独と貧乏を余儀なくされた。この哲学者としてのアベラールの才能を見抜き、それを何よりも大切にしようとしたのが、エロイーズである。彼女はアベラールの子まで設けたのに、私は妻ではなく愛人のままでよい、哲学は困難な道なのだから、貴方はひたすら研究に打ち込んで欲しいと懇願する。ギリシア的伝統の「現実化」の困難さは、二人の愛の関係に深い影を落としている。


もう一点、田島氏の提言される「社交的才能」の重要性に関連するが、自由な言論の精神が、何か美的なものと結びついていたら、これに勝るものはないだろう。エロイーズの書簡には、彼女のアベラールへの愛の告白がたくさんある。


「ほんとうに、どんな王、どんな哲学者が名声においてあなたに及びえたでしょう。・・どんな人妻、どんな娘が蔭ではあなたに憧れ、面と向かってはあなたへ燃え立たなかったでしょう。どんな女王、どんな高貴な女が私の喜びと愛の褥を羨まなかったでしょう。正直に申して、あなたはあらゆる女性の魂をたちどころに魅了する二つの要素を特に持っておられました。それは詩作する才能と作曲する才能です。こうしたものは他の哲学者たちには決して見られなかったところでございます。・・・女たちをあなたへの愛にあえがせたのも、主としてこれによるのでした。これらの歌の大部分は、私たちの愛を歌っていましたので、私は短時日の間のうちに多くの地方に知れ渡り、たくさんの女性の嫉妬心をそそり立てました。」(第二書簡、82頁)


うーむ、羨ましい。でもこれほどの哲学者は、残念ながらなかなかいませんね。