小林よしのり『靖国論』(1)

charis2005-09-06

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


高橋哲哉氏の『靖国問題』については、宮崎哲弥氏や福田和也氏の議論を含めて、このブログで合計5回(4月21、23、26日、6月4、9日)論じた。今回、高橋氏とは対極の立場にある小林氏の『靖国論』を読み、色々と考えるところがあったので、それを記してみたい。


靖国問題は、レベルの異なる非常に多くの問題が輻輳し、絡まり合い、それを解きほぐすのは容易ではない。首相の靖国参拝の是非という一点だけとれば、賛成か反対かの単純な結論しかないように見えるが、そう簡単ではない。公式参拝か、私的参拝か、神道に定められた礼拝形式か、略式か、いつ行くか(小泉首相は2004年元旦の参拝を「初詣」だと述べた)等によって、その賛否の意味が大きく異なる。小さな違いのように見えるが、その差異の背景には、歴史観、戦争観、宗教観、慰霊観の違いはもとより、戦争責任、東京裁判サンフランシスコ条約等をどう理解するか、そして最近における中国、韓国、北朝鮮等への対外関係の理解、そして9.11を含むアメリカへの評価など、レベルの違う大きな問題がすべて関係している。


小林氏の靖国論を分析するためには、氏がこれらの異なるレベルの問題をそれぞれどのように理解しているかを見る必要がある。小林氏の主張は、日本の一定の人々から強く支持されており、それには、それなりの根拠があると考えられる。それは何かを考えてみたい。まず、小林氏に限らず、靖国論の背景には、少なくとも以下のような問題群があると思われる。


(1) 「戦死」の特殊性。人間には必ず死があるが、天寿をまっとうする死と、戦死とでは、同じ死でも大きく異なる。死の性格の違いに応じて、死者の魂の「慰霊」の意味と方法も異なる。靖国神社は墓地ではない。通常の死者は墓地に葬られるが、戦死者の遺体が内地に運ばれて通常と同じに埋葬されたケースは少ないと考えられる。戦死者がそれぞれの故郷で、遺骨、遺髪、遺品、遺書などと共に、その家族によって葬儀を営まれることは、靖国による「慰霊」とは別である。この意味での「慰霊」の二重性。


(2) いわゆる「東京裁判」をどう捉えるか。ニュルンベルグ裁判と極東軍事裁判は、戦勝国が敗戦国の「戦争犯罪」を、「裁判形式」で裁くという従来は考えられなかった新形式である。当然これに対しては、「公平な第三者ではなく、勝者が敗者を裁判形式で裁くのはフェアでない」という批判がありうる。が、他方ではしかし、戦勝国が敗戦国をほしいままに略奪した過去の戦争に比べると、まがりなりにも国家を超える「法規範」に照らして国家の戦争責任を追及することは、人類の新しい試行であるとも考えられる。とりわけ「人道に対する罪」という新しい国際法上の概念を創設したことは、それを生かしてゆく可能性が生まれたことを意味する。「東京裁判」については、勝者(アメリカ)と敗者(日本)のその後の歴史の実体的関係もまた、その評価に関わっている。戦後の日本が国民レベルでアメリカ的価値を受容し「親米」になったという歴史的事実が、勝者が敗者を裁くという不満を相対化した可能性がある。


(3) A級戦犯靖国合祀問題と、サンフランシスコ条約第11条の関係。日本国が、「戦争責任」を認める「主体」であるという根本問題。戦犯を戦犯として認めるのは、国家意思であり、個人ではない。サンフランシスコ条約以前は、戦犯を戦犯として認め、裁く「主体」は戦勝国であったが、条約によって、その「主体」が理論上は日本国に移行したという問題。


(4) 根本的な歴史観の問題。小林氏は、数百年に渡る白色人種とアジア人種との戦争の一部として、前回の大戦を捉える。この史観の問題。


靖国問題は、このように大きな問題が背景にある。小林氏の『靖国論』は、問題を検討する素材になりうるので、今後、折をみて私の考えを述べてみたい。