小林よしのり『靖国論』(2)

charis2005-09-09

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


小林氏の『靖国論』には、特攻隊員の遺書が繰り返し引用される。どれも、親や兄弟への愛惜の情、生まれ育った故郷の懐かしさなどが、簡潔に綴られている。その真摯な文章を読むとき、本来は生きるべきであった二十歳前後の若者が、このように死んでいったという事実に、我々は大きな衝撃と悲しみを覚える。この悲しみの感情は、政治的立場や年齢、性別、そして国籍を超えて共有される感情である。(写真は、古代ギリシアにおける「金髪の若者」像[BC485頃]。戦いで倒れた戦死者と想像されている。)


戦没者の慰霊の原点にあるのは、この悲しみの感情であるが、そこには、本来ならばまだ生きることのできた者たちを死なせてしまったことに対する、生き残った我々自身の「負い目」の感情がある。「慰霊」や「鎮魂」の基礎にあるこの感情は、きわめて深い普遍的なものであるが、しかしそうであればこそ、その「慰霊」が必然的に「靖国における首相の公的参拝」でなければならないという小林氏の主張には大きな飛躍がある。この「飛躍」を批判的に解明するために、まず「死」について考えることから始めよう。


我々がヒトという生物であることは、生物個体である我々一人一人が「生きる」ことと「死ぬ」ことを等しく運命づけられていることを意味する。生物は生殖によって個体を増やすことを本質とする。新しい個体がどんどん増えるのだから、もし古い個体が死ななければ、地球はたちまち生物で一杯になり、新しい個体を受け入れる空間すらなくなるだろう。だから、生物個体が「天寿をまっとうして死ぬ」ことは、生命の本質に由来する自然なことなのであり、それは善でも悪でもない。


だから、生物個体の死後の「霊魂の不滅」を想定することには、生命の本質に反する契機が含まれている。「霊魂の不滅」という想定には、霊魂もまた生物個体の誕生とともに生まれ、どんどん増えることが忘れられている。もし新しい霊魂が次々に無から生成し、それが永遠に存続するならば、天国も地獄もたちまち霊魂で一杯になり、新たな霊魂を受け入れる空間もなくなるだろう。歴史上のある時点で、それまで存在しなかったのに存在するようになったものは、つまり、始まりがあるものは、必ず終りがあるのが真理なのである。だから、「いのちを大切にする」ことは、決して「霊魂の不滅」を信じることではない。「霊魂の不滅」を信じることは、むしろ生命の本質に無理解であり、「いのちを大切にしない」態度なのである。


だが、このように「霊魂の不滅」が絶対的な背理であるにもかかわらず、我々は肉親や友人の死を悲しみ、死者に語りかけ、死者を慰霊する。とすれば、我々は、「霊魂の不滅」という背理に陥ることなく、「慰霊」という我々の根源的事実を、納得のいくように説明する必要がある。そのためにはまず、「天寿をまっとうした死者」に対する残された世代の「負い目」と、「生きられるのに死んだ者」に対する生者の側の「負い目」との、それぞれの本質と差異を理解しなければならない。戦死者への慰霊は後者であるから、「靖国問題」の解決には、その独自性を正確に捉えることが必要なのである(以下、次回)。